電話嫌い

学校を卒業して、社会人になってすぐのころ、違う職場の人や、社外の人に電話をして必要な情報を教えてもらいたいと思っても、すぐに電話をできずにいたことがありました。

そのときに、先輩からそんなことではどうしようもないよ、と諭されて、なるほどこんなことで仕事に支障が出るようではまずいなと思って行動修正したことがありました。

それからは、誰が相手であっても、あまり躊躇することなく、すぐに電話をかけられるようになったのを覚えています。

20代の終わりに転職して、ある大きな外資系の会社に入ったのですが、その職場でもペイペイの自分がトップの地位に就いている偉い人に直接電話をしていたことがありました。

自分では当然かなとも思っていたのですが、あるときに自分よりも随分年上の人に「勇気あるなあ」と言われたことがありました。

「普通はセクレタリーの人を経由して連絡を取るよ」と言われて、ギョっとなったことがありましたが、そのトップの人は私の電話を気にするようなことはなかったと思います。

そのようにして、会社員時代はわりと平気で誰にでも電話をすることができていたのですが、サラリーマンを辞めて素に戻ってからは、また元のシャイな自分に戻ってしまいました。

元々電話をかけるというのがとても苦手なのです。なんとなく、相手の人に迷惑をかけてしまったらいやだなというのがあるというのが、表面的な理由です。

でもこれは、それほど分析するまでもなく、対人関係における恐れから来ているものだということがすぐに分かります。

面倒な人、やっかいな人、迷惑な人と思われるのが怖いということなんでしょうね。それは、自分が電話をかけられるのが嫌いということからも来ているのですが。

このブログを書きながら、ふたたび楽しみながら行動修正してみようかなと思いつきました。いろいろなところにそれこそKY的に電話をしてみようと思い立ちました。

何だか気が進まないと思っていることでも、吹っ切ってやってしまうと以外に平気なものです。これは私の経験から言えることなのですが、みなさんも似たような苦手意識があるものがあったら、一度試してみてはどうでしょうか。

自分は失えない

私たち人間と、それ以外の動物との一番大きな違いは、自意識というものがあるかどうかということです。もちろん生まれたばかりの赤ちゃんにはまだそれがありませんから、ほかの動物と同じです。

しかし、正常に成長すれば3歳前後くらいから、自分がここにこうしているという自覚を持つようになります。そうやって、ようやく人間の仲間入りをするようになっていくのです。

この自意識が一旦出来上がると、この自分というものを失いたくないという強烈な思いも同時に出来上がってくるのです。

それが自分の身は自分で守らなければということに、ものすごいエネルギーを費やすようになる理由です。それこそが、死ぬことへの恐怖になるのです。

でもなぜ、自意識ができるとそれ自身を失いたくないと思うようになるのかは、本当のところ私には分かりません。とにかく、この自分という意識が消えることをひどく恐れるのです。

これこそが、生きることの苦悩のすべてといってもいいと思います。自分というものを失いたくないばっかりに、大変な無理を自分に強いるようになるからです。

具体的には、人から嫌われたくない、価値のある存在と思われたい、見捨てられたくない、愛されたいなど、すべてがこの自分がいなくなることへの恐れから来るのです。

誰もが寿命が尽きたら自分はいなくなると分かっているはずなのに、それまでの間だけでも、自分を失いたくなくて、考えられないくらいの我慢と努力をしてしまうのです。

しかしもしも、自分という意識は決してそれを失うことができないとしたらどうでしょうか?今までの努力は全部いらないということになります。

人としての自分はいずれその肉体を失うことにはなるのですが、本当の自分というものは元々生まれてもいないし死ぬこともないと分かったら、生き方が変わるはずです。

私は誰にとっても気づくことができる、本当の自分の姿というものを信頼してほしいと思います。真の自己は誰にでも気づくことが本当にできるのですから、それもごく簡単に。

このことに気づけたら、今の自分をもっと改善しようとして躍起になることもなくなっていくはずです。みなさんと一緒にそのことを分かち合っていきたいというのが最近の自分の願いです。

素直さは宝物

昔からよく言われていることですが、日本人というのはとにかく、なにかあっても喉元を過ぎてしまえばあっという間に忘れてしまうということです。

今までにも何度となく、原発は危ないということで放射能漏れが指摘されるたびに一応ニュースにはなるものの、すぐに忘れてしまうということがありました。

今度はさすがにもう忘れることはできないだろうと思っても、いやいやもしかしたらまたのほほんと世界一危険といわれる原発が稼動していても、忘れてしまうのではないかと。

日本人のほとんどが、政府や電力会社、大手マスコミなどの発表することを信じて疑おうとしないということもよく言われてきたことです。

それでも、ニュース性がなくなると同時に、多くの人たちはまたいつもの平和ぼけの中で暮らし始めるのかもしれません。

そういう日本人は本当に間抜けに違いない、騙されて泣き寝入りするのは自立した大人とは言えない、みんなで立ち上がろうと訴える人たちもいます。

今まさにそういった気運が高まっているようにも感じます。でも、これは私の個人的な感覚なので信じる必要はまったくないのですが、騙す人と騙される人とは違うのです。

騙す人と、それを糾弾する人が同種だと思っています。ただ、お馬鹿さんのように騙されてしまう人は彼らとは違って、きっと素直な人たちなのだろうと思うのです。

そして、その素直さというものが実はものすごく大切なものなのだと感じるのです。大変なことが起きても、少し時間が経つと忘れてしまうのは、それだけ物事にこだわりをもっていないとも言えるのです。

私は日本人のそうした面を非常に高く評価しています。これは、誰が正しくて誰が間違っているかということから離れていられることを意味しています。

民族として特定の宗教を信仰するような偏りさえも、私たち日本人は持っていません。こうした中立な心というのが素直さの表れでもあるのだと思います。

地球や人類の進化ということを考えた場合に、そうした日本人に真っ先に白羽の矢が向けられるかもしれませんね。

内と外の関係性

誰の心にも必ず怒りがあります。どんなに心穏やかな人であっても、また本人が自覚できていようがいまいが、必ず怒りのない人はいません。

その怒りは時として、憎しみや妬み、嫉み、いわゆる憎悪と呼ばれるものに変化したりするものです。そうなると、なかなか心の中から拭い去ることが難しくなります。

なぜ怒りというものがあるかというと、それは人として自分の命を守らなければならないという本能によって起こるのです。だからこそ、怒りのない人はいないと言ったのです。

その怒りを感じるときの視点というのは、大抵が内側から外側に向かっているというのも事実です。つまり、外側で起こったことに意識が向けられているのです。

その場合、自分と外側で起きたこととは本質的には無関係であると信じています。それはまるで、自分がいてもいなくてもこの宇宙があると信じているのと同じようなものです。

その自分とは無関係な外側の何かが、自分の存在を脅かすとみなすので怒りを覚えて自分を防衛しようとするということです。

だから怒りというのは決して悪いものではなくて、逆に正当なものだということです。しかし、問題は正当であったとしても本人が幸せを感じることができないということです。

怒りを減らすには、努力ではなくてちょっとしたコツが必要なだけです。それは、自分と外側で起こることが無関係ではないとみなすことです。

逆に、自分の想いというものが今まで無関係に見えていた外側の事象を起こすことになるのだという理解をするのです。

この方法を自分のものにできると、次第に心が癒されてくるのです。なぜなら、自分の人生を外にいる誰のせいにもすることがなくなるからです。

自分の身に降りかかるとんでもないことでも、外側の何かのせいにすることができなくなるのです。そうなると、少しずつですが、怒りが収まってくると同時に感謝の気持ちすら出てくるかもしれません。

これは努力でできるものではなく、自然とそうなってきます。自分がやることはほんの少しだけ、ちょっとだけ、外側に起こることは自分の内側からやってくると見ることです。

すべての源泉は自分の内側にあるとみること。これが心穏やかに過ごすことができる唯一の方法だと言ってもいいと思いますね。

無邪気な自分への帰還

自分がハイハイしている赤ちゃんの頃に、田舎の叔父さんが撮ってくれた白黒の写真があって、それはもう間違いなく56年前の写真なわけです。

その叔父さんはカメラが趣味だったようで、それを大きく引き伸ばしてくれていたのです。その写真の自分の姿というのは、あまりにも無邪気に笑っている幼い男の子なのです。

もちろん今の自分とは似つかわしくないのですが、でも心のどこかにわずかに、その頃のまったく屈託のない純粋だった感覚についての記憶があるようなのです。

あの自由さ、なにも怖がっていない、それこそ生まれたばかりの子犬のような人懐っこさ、そうした記憶のようなものがあるのです。

自分がここにいるなどという自覚は全くゼロで、ただただ楽しいし、嬉しいし、何もかもが興味深いという気持ちでいっぱいだったのでしょうね。

それがどのくらいの間続いたのかは定かではありませんが、いつの頃からか自分のことを恥ずかしいと感じることが起こったのです。

この恥ずかしさは幼い子供の人見知りそのものとは違います。明らかに、今まで無心に遊べていたはずが、なんだかそれだけではいられないような居心地の悪さを感じるようになったのです。

それがつまり、自分がここにいるという自覚の始まりです。それが、恥ずかしさというものを生み出してしまったのです。

もちろん、この自覚がなければ自我は発達しなかったわけですから、人として生きていく上で絶対的に必要なことなのです。

でもその代償は本当に大きかったといわざるを得ません。あれほど、屈託なく楽しい日々を過ごしていたはずなのに、自分がここにいると自覚した瞬間から生きることがぎこちなくなってしまったのですから。

ぎこちないというのは、不必要な力が身体や心に入ってしまうことです。それは、たとえようもないくらいに、重苦しいものを背負い込んだと言ってもいいかもしれません。

そうやって自我の成長とともに、大人になっていくのですが、実は私たちの人生でもっとも大切なことは、ここに自分がいるという自覚を持ちながらも、あの幼い頃の無邪気な心へと戻っていくことなのです。

私は是非それを叶えたいと思います。それも、ただあの感覚を思い出すだけで、できるような気がしています。それが人としての唯一の進化ではないかと思っています。

情報隠蔽

あまり気にしていなかったせいもあるのかもしれませんが、気がついたら計画停電の話はなくなってしまいましたね。

それは勿論そんなものはあっては困るので、ああ助かったと思っているのですが、どうも解せない感じがしてしまいます。

東京電力のサイトには、みなさんの節電の効果によって、計画停電をする必要がなくなった旨の説明が簡単に書いてありましたが、不思議ですね。

気がついたら、そのサイトの火力発電についてのページがすべて消えてしまっていました。なんだか、こうしたことはドラマとか映画の中だけのことなのかと思っていたのですが、現実に起きるものなのですね。

どう考えても、都合の悪い情報の隠蔽をしたとしか言いようがないのではないかと思います。この年齢になって初めて体験した新鮮な驚きです。

火力発電をフル稼働させると、電力が足りないというのが嘘であることがばれてしまうからなのでしょうか。不必要な計画停電をでっち上げることまでして、原発の必要性を訴えたかったのかと疑いたくなります。

この社会に疎い自分でも、いくらなんでもおかしなことがたくさんあることに気づきだしてしまいました。今までには、あまりこうしたことはありませんでした。

大手マスコミも一緒になって、電力会社や政治家が本当の情報を発信しないということを、これほどまでにありありと感じたことはなかったですね。

これは、人の心のメカニズムとまったく同じことが起きていると思えます。私たちの心も同じように、認めたくないことを隠すということをずっとやってきているんです。

自分だけは違うと信じている人がいるかもしれませんが、それは自覚できてないだけだと思った方が間違いないでしょうね。人は必ず、見たくないものは闇に葬ろうとするのですから。

私たち一人ひとりの心の中から、そうした闇の部分が少しでも光に照らされて明るみに出てくるようにならないと、こうした国家レベルの隠蔽作業は今後も続くのだろうと思わざるを得ません。
.

勇気ある姿

たくさんのクライアントさんとご一緒にセラピーを進めさせていただいていて、いつも感じることなのですが、人の無防備な姿ほど美しいものはないんだなって。

無防備になると、どこかからか勇気が湧いて来るのです。あるいはその逆もあるかもしれません。勇気を持って逃げずにいると、無防備な状態になるとも言えますね。

クライアントさんが勇気を持って、恐れていることと向き合っている姿は本当にすばらしいと感動するしかありません。

恐れの対象はさまざまあるのですが、罪悪感や自己嫌悪、自己否定感などが中心となるかもしれません。こうした感情は、時として死ぬことよりも強烈に怖いのです。

死ぬことと比較したら何も怖いものなどないはずと思うのはただの理屈です。実際には、自分は駄目な奴なんだと思う気持ち、惨めさや情けないと感じるのが死よりも辛い場合もあるのです。

それを正面から受け止めるくらいなら、どんな自己犠牲もいとわないというのが生きる支えになっている場合があります。

しかし、自己犠牲を我慢するのは決して勇気ではありませんね。忍耐強いということは強さではなくて、弱さではないかと思うのです。

逆に、自分の弱さを正面から見て、それをしっかりと認めてあげられることが強さであり、勇気があることではないかと思います。

今までに何百回もそういうクライアントさんの姿を見てきて、自分は本当に幸せだなと感じます。みなさんから勇気をいただくことができるのですから。

すばらしい体験を一緒にさせていただけることにも本当に感謝しています。セラピーというのは、感動の連続であると言えます。

「OK」を出す

23日(土)は3ヶ月ぶりのヒーリングセミナーの日でした。前回、前々回と15名程度の参加があったので、今回もそこそこ集まっていただけるのかなと思っていたところ、予約の連絡をいただいたのがたったの6名でした。

そして何と、そのうちの2名は出席できず、結局4名で午前10時から午後5時までみっちりやることになってしまいました。

私はまだ欲があるので、できるだけたくさんの人たちに参加をして欲しいと思っているのですが、まさかこんなに少人数で実施することになるとは思ってもみませんでした。

それでも、始まってみると、やはり必要なことは起きるものなのですね。自然の成り行きに任せていると、今回のテーマは「OKを出す!」ということだったと分かりました。

今までのセミナーでは、何とか自分を癒して少しずつでも改善していくためにはどうしたらいいのかということに重点を置いていたと思います。

今回はどちらかというと、今あるがままの自分を丸ごと受け止めて、どんな自分に対しても「OK]を出すという方向に行きました。

ある意味、これは究極のことであり、自分でもよくもそんな方向へと向かったなと驚いています。知らぬうちにそうしたことが起こるのですね。

人は罪悪感を原動力として、それを少しでも感じないですむようにとルールを作ってそれを守ろうとしてしまうのです。

それを真面目に守れば守るほど、当然のことながら自己犠牲を強いる結果となってしまうために、いずれは破綻します。

なんらかのルールを作って、それを死守しようとする気持ちの根っこには、自分を責める気持ちが強くあるものです。それに対して全面的にOKを出すということ。

そのことによって、ルールを守る必要性をそれほど感じなくさせることができるのです。それはきっと、なんともすがすがしい生き方ができるようにしてくれるはずです。

どんな自分にも、まんべんなく「OK」を出してあげること、これをできるだけ続けてあげることです。きっと、多くの重荷を下ろすことができるようになるはずです。

この世界で起きること

生きていると、全く予期しないようなことでも、起きるときには起きるものです。仮にある程度予期していたとしても、望まないことが起きるとダメージになります。

今回の大震災もそうですね。三陸海岸沖で大きな地震が来るというのは、歴史上分かっていたことですし、地震学者もある確率では予想していたことです。

一人ひとりの人生には本当にいろいろな事が起きてきます。本人にとっては望むものであっても、まったく望まないような辛いことであっても、それは起きてきます。

いったいなぜ、起きることというのは無情なのでしょうか。それは、きっと私たち人間レベルで考えられる望ましいことを超越しているなにものかが筋書きを書いているからだと思います。

ペットにはなぜ毎日お父さんが会社に仕事をしに出かけるのか分からないはずですね。みんなでいつも一緒に楽しく過ごせばいいのにと思うかもしれません。

それをペットに説明しようとしても、伝わるはずもありません。それと同じように、この世界のプロセスを作っている張本人にしてみたら、それを我々人間ごときに説明しようにもそれができないのではないかと思います。

ペットはずっとご主人様と一緒にいて、可愛がってもらいたいのですが、なぜだかそれは叶わぬ夢なのです。

私たちにしても同じことです。嬉しいこと、楽しいことばかりが起きて、悲しいことや辛いこと、苦しいことなど必要ないのにと思うものです。

でもこの世界で起きることを決めているのは我々ではありません。それは我々の思いを遥かに超えているところからやってくるのです。

人間の自分たちにできることは、そうしたことをすべて受け入れることです。何が起きようが、根本的なところでそれを受容することです。

そうすることによってのみ、心の平安を保ち続けることができるのだろうと思います。それこそが、本当に幸せなのではないかと思います。

誰かのために生きる

セッションに来られるクライアントさんの中には、誰かの役に立ちたいという強い思いを持ってらっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。

何かの役に立とうと常に考えているわけですから、いい心がけだと一般的には言われるかもしれませんが、私のセッションでは大抵が、「役に立ちたい症候群」ですねとか言われてしまうわけです。

なぜなら、役に立ちたいという思いが、心の底から出た本当の気持ちだけであればそれは理想的なのですが、そうではないということがすぐに分かってしまうからです。

役に立ちたい本当の理由は、自分の存在価値をそこに見出そうとする切なくて、いじらしい幼い子供の心がそこにあるからです。

それは本人にとってはまさに命がけの自分の身を守る行為であるわけですから、心の奥ではかならず無意識的に自己犠牲を強いてしまうことになります。

その結果、さまざまな感情を溜め込んでいくことになり、度を過ぎると鬱的な症状が出てきたり身体の不調を訴えたりして、セッションにいらっしゃることになるのです。

したがって、私は必ず自分のために生きれるようにしていきましょう、と提案することになるわけです。言いたいことを言う、やりたいことをやる。

誰に遠慮することもなく、もう大人になっているのですから誰かに見捨てられても死ぬようなことはないときっぱり理解することが大切だということです。

ここまでが、一般的な心理療法で進めていく心の癒しです。この方向で癒していくことで、誰もがかなり楽に生きれるようになって、自分に正直に生きることの気持ちよさを実感することができます。

しかし、本当の癒しはこれで終わったわけではありません。この先があります。それは、もう一度一番初めに戻るような感じがしてしまいますが、今度こそ本当に人のためにいきることを考えるのです。

人の心は誰かのために生きる、つまり誰かを愛するときにもっとも満ち足りるように設計されているのです。だから、誰かのために生きることが一番の幸せにつながるということです。

でも大抵、このことを口に出すセラピストは私を含めてあまりいないはずなのです。それは、自己犠牲を強いることを完全に放棄できた人にだけ聞いて欲しいからです。

癒しを進めていっても、また誰かのために生きようとして自己犠牲を強いるようになっては、それこそ元の木阿弥になってしまうからです。

それでも今日はこのことをお伝えしたくなったので、敢えて書いてみました。人の心とは、自分の事を中心に考えるよりも、誰かのことを大切に思って行動する方が幸せを感じるようにできているということを覚えておいても損はないと思います。