共感能力

常々感じていることなのですが、男性に比べて女性は桁違いに共感能力が高いようですね。これはもちろん一般論としてということですが。

そういった能力というのは、最終的には個人の資質によるところが大きいのでしょうけれど、でも私の経験では女性はより共感的に接してくれるという体感を持っています。

ただし、共感能力が高いからといって深く共感してくれるという保証があるわけではありません。なぜなら、実際に共感するかどうかはその時そのときの本人の気持ちに左右されるからです。

つまり、共感できるということと、共感するということとはまったく違うことなのです。私自身でもそれは具体的に思い当たることがあります。

内面的には共感できることであったとしても、共感したくないという場面があるからです。それは、相手にもよるでしょうし、その場の状況にも左右されるはずです。

そういうことをすべて含めたとしても、やっぱり男性より女性の方が圧倒的に共感的な人が多いのは事実のようです。でもそれはなぜなのでしょうか?

かつて、男性は狩猟によって食料を確保するのが主な仕事であったのに対して、女性は子育てが主要な仕事だったからかもしれません。

幼い子供は育てられる過程において、気持ちを受け止めてもらうことがそれだけ大切だということを示しているとも言えますね。

したがって、現代においても子供は父親よりも母親から共感してもらうことのほうが多いということになるのでしょうか。その逆のケースだってないわけではないですが…。

その母親に共感された体験があまりにも少なすぎると、子供は成長して大人になったときに心の中にある種の不具合が見つかるのです。

それは大抵、自分を肯定的に捕らえることができなくなっているような状態を引き起こすのです。自己価値が低いという表現で言われることもあります。

そうした状態から脱出するためには、自ら率先して周りの人に共感することです。そうすると、必ずそれは自分のもとへ帰ってきます。つまり、共感してもらえる経験をするようになります。

そうやって、共感の欠乏感を癒していくことができるのです。問題は、共感体験が少ないと、共感しようという意欲も少なくなってしまうことです。そこがクリアできると、問題は自然と改善していくように思います。

幸せへのパスポート

人は誰でも自由を求めているはずですが、いざ具体的に自分は自由だろうかと考えてみると、そうでもないかもしれないという思いがやってきます。

なぜなら気がついているものもそうでないものも含めて、それこそ沢山の思い込みがあって、それらに縛られているからです。

思い込みというと何だか言葉が悪いですが、信じてしまっているということですね。この宇宙に地球があって、それは丸い巨大な天体で、そこに自分は暮らしていると。

地球の大気を数秒ごとに吸って生命を保っているのが自分なので、息を止めてみるとすぐに苦しくなってこのままだと死んでしまうという実感も持っています。

でもそれは信じているからこそ、そうなるのだということには気づいていないのかもしれません。この信じることを強力にバックアップしているのが知覚です。

私たちが頼り切っているこの知覚というものは、実は自分が見たいように見ることができるし、聞きたいように聞くことができるように仕組まれています。

それは例えば、裁判においてみんなで口裏を合わせて虚偽の証言をすることで、それが真実であるかのような印象を与えることができるようなものです。

うまくやれば、裁判官も騙されてしまうかもしれません。それと同じようにして、私たちは自分の知覚に騙され続けています。

それは言って見れば、真実ではないものを信じ込まされてしまっているということです。その中でも最たるものが、自分とは何者かということ。

この肉体をまとった物質的な生き物こそが、自分であるという信じ込みをほとんどの人たちがしています。たとえそうだとしても、それが何か問題があるのかという質問が聞こえてきそうです。

実は問題は大有りなんです。それは、私たちのありとあらゆる苦悩の原因はそこからくると言えるからです。肉体としての自分とは、決して他の肉体とは分かち合うことができない運命を背負ってしまっているからです。

それが孤独の原因です。肉体同士をいくらくっつけても、決して一つになることはできません。そればかりか、肉体同士は必ず対立を作り上げます。そこからサバイバルが始まります。

それが冒頭の不自由さを作り出すことになるのです。生きていて、何らかの不自由さを感じてない人などいないはずです。それは、自分を肉体だと信じているからに違いありません。

昨日のブログで気づけた人もいると思いますが、本当の自分は決して肉体ではないということに気づくことこそが、本当の幸せへのパスポートなのです。

自分はどこにいる?

瞑想しなくていいですから、できれば目を閉じて心を少し静めた状態で次のことを感じて見てください。

自分とはこの身体の中にいるのか、それとも外側にいるのか、あるいはどこでもないのか。もしも、身体の中のような感じがしたら、それは身体のどの部分でしょうか。

お腹のあたりか、胸のあたりか、それとも首から上の顔あるいは頭の中でしょうか。それがどの部分であれ、その部分の中身を解剖学的にイメージして見てください。

たとえば、頭の中にいる感じがしたのなら、頭の中をイメージするのです。そうすると、なにやら脳みそのようなものがぎっしり詰まっていて、血管が張り巡らされていますね。

そして、自分は本当にその中に納まっている感じがするでしょうか。私はそんなところには決していないと感じてしまいます。

私というこの気づきは、普段身体とくっついているように思えたとしても、こうしてちょっと冷静になって感じて見ると身体とは別次元だということが分かります。

つまり身体がここにあるからその自分もここにいるというのではなく、ただどこだと特定できないという意味のここにあるということですね。

到底身体の中になどいないと感じる自分をじっと意識してあげながら、今度は次のことを確認してみてください。上下、前後、左右というものがその自分にあるかどうか。

そしてそれを感じながら同時に、その自分の大きさはどのくらいだろうかを感じてみてください。そうすると、大きさもわからないし、前後左右上下という感覚もないということが分かります。

どんな形もなければ、色合いもありません。ただあるという気づきだけの自分がここにありましたね。はい、あなたはもう本当の自己を十分に感じることができています。

肉体は外側と内側という境界を持っていますが、今感じていただいている自己にはそんなものはないですね。これを悟りと呼んでもいいと思います。

もちろん呼ばなくてもいいです。大切なことは、目を開けてもやっぱりその自己という気づきはあり続けるということです。

そしてなるべくいつもその自分を確認し続けてください。その自己は目の前の誰かのことも包含しているということに気づきます。これは愛そのものの感覚ですね。

感動は続かない

自分はどうも辛かったときのことを忘れていくタイプのようで、じっくり思い出そうとしない限り、以前よりも数段楽になったということに気づかなくなってしまいます。

とにかくすべてにおいて辛かった会社員時代と今の生活を比較したら、どれほど気持ちの余裕ができたのかたとえようもないくらいなはずです。

それなのに、今は今でこの生活が当たり前になってしまいました。もちろん、今が夢であって目が覚めたらあの頃の会社員のままだったなんてことがないことを祈りはしますが…。

こうした過去の辛さを忘れる傾向に気がついたときには、自分て本当に損な体質だなと思ったこともありました。数年前にとても激しい感情の開放をした後、対立がすごく薄くなっているのに気づいたのです。

それは自分としてはものすごい変化だったので、そのときのことをよく覚えているのですが、歩く速度などにも影響してしまうくらいの大きなインパクトがあったのです。

とても感動もしました。ところが、一週間二週間と経過していくうちに、徐々に今の自分が自分にとってごく普通の感覚になっていってしまうのです。

そうすると、気持ちがどれだけ楽になったかということも忘れて、今の自分を基準にすべてを見るようになってしまい、こんなに楽になったよ!という感動も消えていってしまうのです。

これは本当に残念なことですが、仕方のないことでもあるとして受け入れなければならないことなのかもしれません。

どんなすばらしい体験をしたとしても、やはりそれもきっといつもの自分に戻されてしまうのだろうと最近は思うようになりました。

そうなると、そうした体験というものをとりたてて期待するということもなくなってきたように思います。感動は感動であり、それは所詮来ては去っていく風のようなものですから。

そう考えると、今まで以上に何か淡々とした生き方というものに価値があるのかもしれないなあと感じるのです。なんでもない普通がすばらしいんだなと。

心からの気づき

赤ちゃんの頃は自意識というものがなくて、ただ周りの状況を興味を持って見ているだけの毎日です。自分がないので、すべては渾然一体となっています。

それがいつしか、周りを見ている自分の存在に漠然と気づくようになっていきます。それは、自分と周りの世界という二つのものが分離してあるという感覚に発展していきます。

そうやって、ただ見るだけの状態から、自分を見られる状態へと変貌させていくのです。その過程は緩やかに起きるので、幼いころには双方が交じり合う時期もあるのです。

私はそのときの経験を確かブログに書いたことがあります。それは、幼稚園の頃かそれより少し前だったかもしれません。

ある時、ふと母親がいつも財布を出し入れしている引き出しに目が行ったのです。そして、とてもすばらしい名案が突如浮かんだのです。

そうだ、そこにあるお金を使って近所のお店にアイスクリームを買いに行こう!そうしたら、気持ちがルンルンしてきて、それはすぐに実行に移すことになりました。

ぼんやりとした記憶をたどって見ると、10個以上のアイスクリームを大きな袋に入れてもらい、大喜びでその袋を抱えながら帰ってきたのです。

たくさんあるうちの一つのアイスクリームを食べながら意気揚々と帰ってきたのは言うまでもありません。左手にそのアイスを、右手には大きな袋を抱えている自分の記憶があります。

こうした行動をしているときというのは、間違いなくただ見ている自分の状態であると言えます。つまり、見られる自分、それは裁かれる自分でもあるのですが、それが不在になった状態です。

だからこそ、無邪気にやりたいことだけをやることができたのです。こんなことをしたら、お母さんに怒られるという発想はなかったのです。

その時には、誰とも対立関係にはなく、世界は自分そのものだったということです。その頃の自分にとっては、こうした純粋に見る自分と見られる自分が入り混じっていたということです。

だから後で冷静になって考えたときに、何であんなことをしたんだろうと反省することもできるのです。私たちは成長するにつれて、ただ見ているというこの大切な感覚を失っていってしまいます。

目下のところ、私の人生の目標はいい意味であの時の感覚を取り戻すことに集中させています。なぜなら、あれは「あなたは私」という思いと同じだからです。

これがすべては一つという愛の想念だと思っています。子供のままではいられないのは、一度見られる自分になって地獄を見る必要があるからかもしれません。

それを経由して、そこからまた気づいていくことが誰の人生でも設定されているように思えるのです。だとしたら、一刻も早く心からの気づきを得たいものですね。

ささやかな願い

今東京はすごい雪が降っています。雪が降って喜ぶのは子供たちと用のない大人だけでしょうか?明日の朝、出かける用事がある人にとっては雪は悩みの種になるでしょうね。

大人でなくても、特に今は受験の時期なので、明日が試験当日だったりしたら交通がマヒして大変なことになりますね。何事もないことを祈ります。

小学生の頃、ふと気がついたら雪が降っていて大喜びで外に出て、近所のみんなに「雪が降ってるよ~!」と叫んで教えたことがありました。

そうすると、みんな外に出てきてそのうち結構な人数が集まって、一緒に雪遊びをして楽しんだことがありました。子供は無邪気でいいですね。

でもその頃から大人は雪を好まないというのも知っていました。とにかく雪を目のかたきにしているようで、悲しかったのを覚えています。

自分はそんなつまらない大人には絶対になるもんかと思っていたはずなのに、気がついたら雪はやっかいで困るというのが自分の中で当たり前になってしまっていました。

本当にすべての人にとって、喜びをもたらしてくれるものってあるのでしょうか?誰かにとって嬉しいことでも、ほかの人にとっては面倒に感じるかもしれません。

猛暑の夏や厳しい寒さの冬というのは、家電などがよく売れて景気には好条件な面もあるらしいですが、身体が弱っている人やお年寄りにとっては、ダメージが大きくなって辛いことだと思います。

物理的なことというのは、このように必ず誰かにとってはいいことでも、ほかの誰かにとっては悪いことになるのです。

すべての人が喜ぶこと、それはきっと目には見えない内面的なことだと思います。そして、それは誰にとっても同じ一つのことに違いありません。

それが本当の幸せというものです。それは、心が満ち足りていて、愛に溢れる思いを感じている状態なのだと思います。

この世界のすべての人の心が同じように、愛に満ちて幸福でありますように!誰一人としてそれから外れることのありませんように!

幸せへの大きな扉

私たちのあらゆる苦悩は、自分は外の世界とは別の存在であるという思いからきています。自分が生まれるずっと前からこの世界は存在していて、そこに産み落とされたのが自分だという認識があります。

自分という固体が生存する環境がこの世界だと思い込んでいます。つまり、自分以外の存在というのはすべて本当には分からないものだということになって、それはとても恐ろしい状態であると言わざるを得ません。

分からないということが恐怖を作り上げているとも言えるからです。分からないことは不気味であり、いつも自分の身をそれらから守らねばならないと思うのです。

周りにいる人たちは所詮自分と同じ人間であるからそれほど怖くはないと思いたいところですが、実は本当は何をされるのかどんな可能性でも考えられるわけですから、恐れがなくなるということはないのです。

お化けや幽霊も得体が知れないので怖いことは怖いですが、私たちが本当に恐れているのは一緒にこの世界で生活している人間だと言っていいと思います。

そうやって、つまるところ自分と他人との間に明確な対立関係が出来上がってしまっているのです。対立は緊張を生みます。だから、肩こりや疲労を誰もが経験するのです。

そして自分のことをこの大きな世界の中の小さな小さなけしつぶのような存在であると思えば、自分には不足しているものがたくさんあると思っても仕方ありませんね。

その足りないものを手に入れられたら安心できるし、それを奪われないでいれば幸せになれると思ってしまうのも当然だと言えます。

でも、もうそろそろそうしたことが自分を本当には幸せにしてくれないということに気づいてきてしまっています。目標を変える必要があるということですね。

それには、自分とは本当は誰なのか、何なのかということを突き詰めて見直さねばならない時期に来ているのではないかと思います。

本当の自分は決して小さな取るに足らない一つの固体ではないということです。自分を感じたときに、この肉体の中に自分がいると本当に感じるかどうか、試してみることです。

生まれたばかりの赤ちゃんにでもなったように素直に、何も知らない無邪気な幼子のように、感じてみて下さい。自分が決してこの身体の中になどいないと分かるはずです。

そこにこそ、本当の幸せを見出すチャンスが大きな扉を開けて待っていてくれるのです。

幸せへの再スタート

何か欲しいなと思っていたものが手に入るととても嬉しい気持ちになりますね。でも、そのときの嬉しさの頂点は、それが手に入りそうな時、あるいは手に入ったその瞬間です。

そのあとは、なだらかに、あるいは場合によっては一気にそのハイテンションは下がっていってしまうものです。いつまでもその嬉しさを維持することは難しいのです。

だから人は、次から次へと望むものがやってきて、そのたびにそれを求めて努力したり頑張ったりして、また別の嬉しさを手に入れて、というのを永遠に続けていくのです。

一つ願望を達成して満足してしまうようでは、成長もなければ発展もないという考え方があるのは知っていますが、でもなぜ成長や発展をし続けなければならないのかを考える必要があると思います。

本当は幸せを求めているのですから、一つの願いが叶ってその喜びがずっと変わらずにいてくれたらそれで問題ないはずですね。

つまり、進歩しなければならないという考え方というのは、いつまでも満たされることがないということとくっついているということです。

そして、そのどちらもがエゴの巧妙な作戦であると気づくことです。エゴは、望むものを手に入れたらあなたは幸せになるよとそそのかします。

しかし、その幸せは偽物であるために、また次なるものを求めざるを得なくなってしまうのです。そうやって、偽物の幸せを求め続けることで自己犠牲を払い、苦しみから抜け出せなくなってしまうのです。

それがエゴの作戦です。エゴは私たちが本当の幸せを手に入れてしまったら自分がお払い箱になるということを知っているので、この不幸せな無限ループに落とし込むのです。

そうやって、エゴそのものの存続を狙っているということです。エゴの存在価値とは、苦しむ自分を助けることができるという(ニセの)役目を担っていることです。

私たちはこのことにしっかりと気づくことがとても大切です。そして、これ以上エゴの作戦に乗せられないようにしなければなりません。

幸せのネタは何かを手に入れることではなく、自分の心のうちにこそあるということです。それは自己犠牲とはまったく縁のないものです。

もしも何らかの自己犠牲を払っているという自覚があるのでしたら、エゴにしてやられていると理解し、なるべく速やかにその生き方を改めることですね。

そして自分にとって真に幸せになるとは、どういうことなのかということについて、しっかりと見極めることです。そうすれば、誰でも幸せに向かって再スタートすることができるのです。

地球のような本当の自己

私たちは誰もが地球上で暮らしているということを知識として知ってはいるものの、普段そのことを片時も忘れずに過ごしているわけではありません。

毎日の生活の中で、地球について話題にしているときに限り、自分たちにとってなくてはならない大切なものという思いで地球を見ることはあります。

でもそれ以外のときには、地球と共に今生きているなどという自覚はどこかへ行ってしまっていますね。それは、地球が自分に比べてあまりにも巨大だからです。

あまりにも大きすぎて、静か過ぎて、私たちにとってはただ平らな地面があるという感触になってしまっていて、一緒に猛スピードで回転しているなどとは感じていません。

これと同じことが自分の心にも言えるのです。これから読むことを、なるべく思考を使わないようにしてただ感じてみて欲しいのですが…。

私たち人間は、自分の身体を独立した一固体として持っているという感触をもっています。そして、自分の意識についても自覚があります。

その意識というのは、何となく身体の中にあってそこから外の世界を覗いているとイメージしていると思います。それが自分だという感覚を持っているはずです。

しかし、この意識が身体の中にいるという自覚とは本当でしょうか?もしも、中にいるとしたら、外との境界を感じる必要があります。

私には自分の意識になんらかの境界があるとは思えません。目をつぶってその感じをつかんで欲しいのです。これはいつも感じている当たり前の感覚です。

そうすると、自分の意識は身体の中になど閉じ込められていないし、大きさは無限で色も形もないということに気づけるはずです。

つまり、地球と同じようにあまりにも大きいのでその存在に気づいていなかったということです。しかし、今感じればすぐにそれは分かったはずです。

それこそが、きっと本当の自己の気づきなのではないかと思います。地球と同様に、あまりにも当たり前過ぎて気づかないでいただけの真の自己を感じてみてください。

そこから、きっと何かが起きてくるはずです。

親心

以前このセッションルームのちょうど上の階に住んでおられたご家族に小さな男の子がいて、元気があまって時々かけっこをしているような音がしていたことがありました。

普段とても静かな部屋なので、天井からドンドンと踵でたたくような音が聞こえると、うるさく感じて気持ちがトゲトゲしくなることもありました。

そんなときに、自分の息子の幼い頃のあの愛しさを思い出して、その息子があの音を出しているんだと想像すると、だいぶ心が和らいでくるのを経験したのです。

ああ、これはいい方法が見つかったと思って、確かこのブログにも書いたことがあったと思います。その後、そのご家族は引っ越して行ってしまわれたので、あの音はもう聞こえなくなりました。

そしてそんなことはずっと忘れていたのですが、今月に入ってからだと思うのですが、近くのマンションの大規模な改築が行われていて、コンクリートを打ち砕くあのひどい音が続くようになりました。

ヒプノのセッションのときに邪魔になるから、早く終わってほしいなと思うのですが、未だに朝から夕方まで断続的にその激しい音が聞こえてきます。(不思議とヒプノの時にはやむのですが…。)

それで、ふと思ったのです。あの工事をしている男性(勝手なイメージで中年の黒く日焼けしたヘルメットをかぶった汗臭い人)のご両親にしたら、本当にお仕事ご苦労様と思ってるんだろうなと。

その瞬間、自分が持っている子供に対する親心とリンクしてしまい、その音がまったく気にならなくなってしまったのです。その工事をする知らない中年男性を愛しく感じるのです。

そうしたら、月並みなのですが、すべての人の親になった気持ちがやってきて、誰のこともそういう気持ちで見ることができるのです。

これは何とも穏やかな暖かな気持ち、自分の心の中にこんなやさしい思いがあったのだと気づいてびっくりしてしまいました。

これは、最近のささやかな気づきにおいて、自分の本質がすべての根源なのだということを知ったことが大きく影響しているように思います。

ものすごくいい気持ちになれるので、みなさんも試してみてください。やって損になるようなことは、一つもないですからね。