二種類の階段

我々人間にだけある特徴として向上心というのがありますね。誰もが現在の自分よりも、もっとすばらしい自分になりたいと思っています。

だから向上心のないものは駄目だということにもなるんですね。いつも切磋琢磨して、少しでも自分をより理想の自分に近づけようと努力する人が高く評価されます。

産声をあげたときから、死ぬ直前まで進歩したいのです。そして、目の前にある階段を一段づつ上がって行こうとします。

進んでいくことのたとえとして、この階段がよく使われると思います。私もセッションでよく言うのですが、階段の遥か先を見て大変だなと思わなくてもいいですよ、今日自分が上がれる一段だけあがればいいですからと。

これは癒しを進めていくときのイメージを階段で表したものです。そして、この階段は通常私たちが目指してきた進歩しようとして上がっていく階段ではありません。

実は誰もが向上しようとしてのぼっているつもりになっている階段は、本当に価値のある癒しの階段とは全く正反対のところにあるのです。

そして、向上心の階段は癒しの階段があることを自分に隠すためにあるとも言えるです。私たちは向上心の階段を頑張って上がって行ったその先に、幸せがあると思っています。

でもそれは残念ながら間違いです。向上心の階段は、見た目は上にあがっていくように見えても、その実体は横ばいか、悪くするとさらに下に向かって行ってしまう可能性すらあるのです。

本当の幸せは向上して手に入れるものではなく、本来の自分に気づくことなのです。癒しの階段の先にはまさにその本当の自分が待っていてくれます。

イメージして下さい。ずっと昔に癒しの階段をすべるように落ちてきた自分がいるんだと。そして、落ちてきたことを忘れようとして、向上心の階段を作ることで癒しの階段を見えないようにしたのだと。

癒しとは、幸せになっていくことですが、それはこの自分が落ちてきた階段をまず見つけること、そして向上心の階段をこれ以上のぼらないようにすることなのです。

自分が落ちてきた癒しの階段こそ、本来の自分の姿を思い出すためにあがっていくべき階段なのです。それは勿論自分を向上させるのが目的ではありません。

ただ、本当の自分に気づくのが目的であり、それが真の幸せに繋がる唯一の方法だと言うことですね。みなさんは、その価値ある階段をもう見つけることができましたか?

愛を使う難しさ

本当に幸せになりたいのなら、本当の心の平安を得ることしかないのですが、そのためには自分の本質について気づいていくこと以外にないのです。

真の自己とは、愛の塊であるはずなのですが、そのことを忘れて毎日生活しています。そのことを思い出さずして、真の自己のことが分かることはありません。

としたら、その愛を思い出すことを徹底的に訓練することですね。自分の中にある愛を認識する最高のやり方は、それを十二分に使うということに尽きます。

ところがここで、はたと気づきます。なぜ自分にはそれが簡単ではないと思えるのだろうかと。とにかく愛を使えばいい、その経験値を増やせばいいと分かっても簡単ではないと感じてしまう。

自分の心がまっさらで、中立の状態であったとしたら、愛を使おう→即愛を使う経験をする、ということになるはずです。

でもそれができないとしたら、ここで注意深く心の声を聞いてみる必要があります。そうすると、必ずそれが簡単ではないと感じる理由が見つかります。

それは、普段は気づかないようになっているのですが、本当のところ、私たちは愛に気づかないように気づかないようにと気をつけながら生きているということです。

愛に気づかないように注意深く、用心しながら生活しているのです。実はその用心にものすごいパワーとエネルギーを注ぎ込んでいるのです。

例えば、思い切り握りこぶしを5分くらい力いっぱい握り続けておいて、いざ手のひらを見せてくださいと言われても簡単には開くことができなくなる、あれと同じ原理です。

トイレに行きたいのを都合により限界まで我慢してしまってから、いざトイレでおしっこをしようとしてもいつものようにすぐには出ない、あのもどかしさ。

あの時は、おしっこをすることが簡単ではなくなっている瞬間とも言えます。これみんな同じことなんですね。急激な方向転換には無理があるんです。惰性というものもあるわけですから。

話しを元に戻して、そうした理由で愛を使う、愛を与えることがそうそう簡単とは思えなくなってしまっているということです。

でも、自分が愛から遠ざかろうと激しくそこに投資していることに気づいて、そこから徐々に手を引いて行くことができれば、今度は逆に当然のごとく、愛を使うことが容易になってくるということです。

本来、我々は愛そのものなのですから、愛を使うことが難しいなどということはないはず。愛は使っただけ心の中で増えた感触を得られるのです。そうやって、真の自己を思い出しやすくなるのです。

一日、一回でもいいですから、何かをお願いされたときに、ああ、これ愛だったら断らずにやってあげられそうだなと思ったら、愛を使うチャンスだと思うことですね。間違っても自己犠牲で相手のいうことを聞いてしまわないようにすることも大切です。

あとは、自分の選択に任されています。自分を防衛しようとするのか、愛を使おうとするのか、両方を同時には選択できません。必ず択一だということも覚えておいて欲しいと思います。

贖罪(しょくざい)

今日ミクシーのニュースを見ていたら、ノリピーさんが初の自叙伝を出したという記事がありました。その題名がなんと、『贖罪』。ちょっとびっくりしました。

コースを読んでいると、この「贖罪」という言葉は何度も出てくるとても大切な概念なんです。と言っても、原文では、 「atonement」という語で、田中百合子さんの訳では、「贖罪」となっていて、最近出版された大内博さんの邦訳本では、「あがない」になっています。

贖罪は文字通り、罪を贖(あがな)うという意味ですが、それは罪を償(つぐな)うということであり、あるものを代償にして手に入れるという意味もあります。

昔だったらそれは生贄を意味するかもしれませんね。恐ろしい神の恐怖をやわらげるために、誰かを生贄にすることで、他のみんなが救われるということですから。

イエスキリストが代表してはりつけにされたことで、民衆の罪が贖われたという話しはキリスト教の信者でなくても誰もが知っている有名な話しですね。

ですから、贖罪というと大抵はキリスト教の言葉というニュアンスがあるかもしれません。しかしながら、コースの中ではもっと深い意味が込められているのです。

英単語である、atonement を調べてみると、atone + ment であることが分かり、atone は一つにするという動詞で、ment はそれを名詞にするものなので、「一つにすること」という意味になります。

この一つにするという atone は、at + one つまり一つにおいてというような意味だと思います。つまり、贖罪という意味はすべては一つであるとの想念である愛に戻ることを意味しています。

コースで使っている贖罪と言う言葉の本当の意味を間違わないように気をつけることが大切です。罪はないとしてすべてを許し、そこにすべては一つだという真実に戻る道があるということです。

繁盛する店

ルシッドのセッションルームのある吉祥寺には、近くに多くの商店街と大小さまざまなお店がひしめき合っています。

少し足が遠ざかってから、久しぶりに歩いてみると、見たことのない新しいお店がもう出来上がってたりしてびっくりさせられます。

それだけ、お店の入れ替わりが頻繁にあるということ、それは希望を抱いて新しいお店をオープンしたのに、あっという間に潰れてしまうケースが多数あるということですね。

世間はなかなか厳しいです。少し詳しい人に聞いたところによると、吉祥寺は店舗の家賃が高いので、相当に繁盛しないと潰れてしまうらしいです。

だから新しいお店を見かけると、頑張って欲しいなとつい心の中で祈ってしまいます。歩いて数分のところに、小さなドーナツ屋さんがあるのですが、ここがとても繁盛しているのです。

平日も人が来ているし、週末ともなると店の前に長蛇の列ができるほど。どうも雑誌などを見てやってくる若い人が沢山いるようです。

自分も1、2回ほど買って食べたことがあるのですが、ごく普通の昔ながらのお母さんが揚げてくれた家庭の味でした。

何でこの味を求めてこれほど沢山の人が集まってくるんだろうと、本当に不思議なくらいに普通のドーナツなんです。

他のお店をやっている人からみたら、本当に羨ましいくらいにいつも人で賑わっているお店です。人が沢山来るって活気があっていいですね。

自分も人のことばかり言っていられなくて、セッションルームの家賃が自分の身の丈に合わないくらいに高いので、もっともっとクライアントさんに来ていただかないとお店をたたまなければならくなってしまいそう。

でもあまり心配してないのも事実です。どうせ、人生はなるようにしかならないと思っているからです。どうなろうと、死なないし、また死ぬ時はどうやったって死ぬ。

そう思って気楽に生きています。起きることを抵抗せずにただ受け入れていること、今後もそのスタイルで生きていくんだろうなと思っています。

自分を求められない

今までに何千回とセッションをやってきて、様々なクライアントさんと向き合ってきた中で、100%すべてのクライアントさんに共通して言えることは、誰もが安心を求めているということです。

それは別に私のところにクライアントさんとしていらした方々だけに言える特別なことではないはずです。誰もが安心を求めて生きているんです。勿論私自身もです。

ところが、残念ながらこの世的な安心というものは、確かに求めて手に入ることもありますが、それは確実に一時のものに過ぎないのです。

場合によっては多少の時間、継続して安心していられるような場合もあるかもしれませんが、それが永久に続くという保証など全くありません。

病気が治って安心、希望校へ進学できて安心、人と比べて優位にあると思って安心、お金が増えて安心、マイホームを建てられて安心、すべてが安心を目的にしていることばかりです。

なぜこれほどまでに安心にしがみつこうとするのでしょうか、それは心の中にどうしても拭い去ることのできない不安が大きく広がっているからです。

何もしないでいると、その不安に飲み込まれてしまいそうになるので、何とか努力してその不安を払拭して安心しようと躍起になっているのです。

一つ安心を手に入れられたと思っても、次の不安が出現してくるのでまた安心を求めざるを得ないのです。さらに、手に入れた安心もいつまで続くか分からないので、そのことでもまた不安になるというあんばいです。

本当の安心を手に入れたいならば、この世的な安心を求めることから手を引くことです。その時にこそ初めて、自分の本質は深い深いどこまでも続く安心の心でできているんだと分かるからです。

それが、真の心の平安です。この永遠に続く平安は求めることは決してできません。なぜなら、それはあなた自身だからです。

自分自身をどうやったって求めることなど不可能ですよね?だって、あなたそのものなんですから。自分をなくすことができないのと同様にして、自分を求めることもできません。

求める対象とは、それが何であれホンモノではないのです。ホンモノはすべてあなたが持っているし、あなた自身だということ。

だからこそ、外に向かって求めなければ誰もが気づくはずなのです。

泣きっ面に蜂

泣きっ面に蜂とは、災いが重なってやってくることの例えですね。こういったことは実際よくあることだからこそ、こうした上手い表現の言葉が生まれるんでしょうね。

ちょうど、10年前の1月に癌が見つかって、2月に手術を受けたのですが、ちょうどその日に息子の高校受験の発表があり、さらに家内の父親が亡くなるということがありました。

お腹を切られてただベッドで寝ている自分はまだよかったですが、家内はきっと大変だっただろうなと思います。

こうしたことがただの偶然によって起こるとはなかなか思えないですね。でも、やはり起きる時には起きるものなのですね。

どうせいやな出来事なら、いっぺんに起きてしまったほうがいいという考え方もあるかもしれません。とは言うものの、限度はあるでしょうね。

なぜ重なるのかなと考えてみたのですが、勿論何も証明することはできないのですが、やはり昔流行ったバイオリズム的なことがあるのでしょうか。

体調のいい悪いのパターンがあるように、波動のいい悪いみたいなものもあるのかもしれませんね。今年の9月中旬ごろにクルマをぶつけられたことがあったのですが、実はその日の朝、自転車に乗った若い青年と交差点でニアミスも起こしていました。

どちらのケースも自分は全く悪くないのですが、相手からぶつけられたり、交差点から無謀に飛び出してきたりされたのでした。

どんなことでも、その渦中にいるとどうしても自分を客観視しずらくなりますね。それも、いくつかが重なってしまったりすると、なお更です。

それでも、後で冷静になって思い返してみると、そこにはいろいろな学びがちりばめられていたことを発見することができますね。

この先の人生のどこかでも、また泣きっ面に蜂のような事態がやってくることがあるかもしれないけれど、後々思い返せばどうってことなかったということになるんですから。

なるようになるし、死ぬときは死ぬ。なるべく、いつも流れに身を任せて無理しないことですね。それがきっと一番早く苦境から脱出する方法なんだろうなと思います。

悪夢からの目覚め

中学生くらいまでは勉強のことで困ったことはなかったものの、高校生になってその状況が一変してしまい、勉強嫌いが本格的になって、特に苦手な学科は試験前に困り果てたものでした。

その時の不安な気持ち、もう今から勉強したって絶対間に合わない、どうしようというひどい焦りのような感覚が先日の夢にそのまま出てきました。

今でもその夢の中でのいや~な思いをはっきりと思い出すことができます。そして、夢から覚めて現実はこんな生活してたんだと気づいていく中で、ほっと胸をなでおろしました。

ああ、よかったと、もう勉強に追われることは一生ないんだなって。みなさんはこのような経験はないですか?夢の中の状況が辛くて、目覚めたときにものすごい幸せな気分になるのです。

様々な悪夢から覚めたときに、誰もが感じる深い安心感とでもいうのでしょうか、何とも言えない安堵のため息が出てしまいます。

自分が子供の頃に、父親が言っていたことがありましたが、人を殺してしまった夢を見たらしく、「ああ、とうとう自分は人を殺してしまった」と本当に絶望したらしいです。

それが目覚めて夢だと分かったときに、胸をなでおろしたと教えてくれたことがあったなと思い出しました。

こうした誰もが少なくとも一度は経験している、いやな夢から醒めて、ああ、よかった!と思う、それをはるかに上回るすばらしい体験をしたいとは思いませんか?

実は悪夢から醒めたこの現実も、実はその大抵は悪夢に違いないのです。この現実という悪夢から醒めて深々とした真の安心へと戻ることができるということです。

それは本当の自分の姿に気が付くという体験です。高校生だった頃の夢の中の自分は目覚めたときに消滅してしまいますが、現在の自分がその代わりにいるという自覚が戻りますね。

それと同じように、この現実の中で翻弄されながら何とかこの人生を続けている自分に代わって、忘れていた本当の自分が蘇るということです。

そしてその自分はすべてを持っていて、足りないものがないのです。あらゆる一切合財が自分自身であるという感覚を取り戻すのですから、これ以上の安堵感はないでしょうね。

時間という妄想の中ではそれぞれにそのタイミングが異なるように見えるかもしれませんが、いずれは誰もが、一人残らずこの悪夢から目覚めて、真の自己を思い出すときが必ず来るということです。

そしてその時は、明日かもしれないし、一分後にやってくるかもしれません。だから安心して、毎日をただ楽しんで、喜ぶことに専念すればいいということです。

反動形成

人が自分を防衛しようとしてする心のメカニズムの一つに反動形成というものがあります。それは、自分を守るために本心とは真逆の思いをでっち上げてそれを隠そうとする心の行為です。

例えば、幼い子供がどうしても買ってもらいたいものが目の前にあるのに、親にそれを許してはもらえないでいるようなときに、そんなものはもういらないというニセモノの思いを作るのです。

いつまでも買って欲しいのに買ってはもらえない状況が続くと、心の我慢が限界を迎えてしまうので、それを防衛するために「欲しくない」という思いがあるとするのです。

その作りこんだ思いというものを「欲しい」という本心の変わりに自分の本当の気持ちなのだとして本心に蓋をしてしまうのです。

こうすることで、どれだけ欲っしても手に入れられないという苦悩から自分を守ろうとするわけですね。これは傍から見ている大人からすると、ダダをこねていた子供がひねくれてしまったと映るかもしれません。

したがって、あまりに可愛そうだからと、親が買ってあげようとしても、もうそんなものはいらないと、頑として譲らない態度に出るかもしれません。

どんな子供であっても、親に抱きしめられることを嫌がるはずがないのですが、少し成長した段階で親に触れられたくないと思うようになる場合があります。

実はこれも反動形成であると言っていいと思います。子供の本音としてはもっともっと親に抱っこしてもらいたいという強い思いがあるにもかかわらず、何らかの理由によってその願いが叶わないとします。

そうすると、子供はそれ以上願望し続けても自分の心が痛いだけなので、どこかで抱っこして欲しいという本心を抑圧するのです。

その時に、抱っこどころか、触れて欲しくもないという本心とは裏腹なニセモノの気持ちを作り出して、それによって本心に蓋をしてしまうのです。

こうすることで、実は親に甘えて抱っこして欲しいを完全に封印することができるわけです。結果として、親には触られたくもないという大人びた反動的な気持ちだけが残ることになるのです。

理性で考えてみて、自分の言動はどうもおかしいなと感じるような場合には、この反動形成が心の中でなされているのではないかと疑ってみることです。

そして自分独りではどうにも、解明できそうにない場合には、プロのセラピストの力を借りてみることも一つの方法かもしれませんね。

不安の根源

人生で困ったことに直面すると、人はうろたえて立ち往生しているような気持ちになるものですね。そして、どうしたらその状況から脱出することができるのかということにエネルギーを注ぐのです。

そんなときに、力づくでそこから逃れることができたとしても、きっといつか必ずまた同じような困った事態というのがやってきます。

それは困ったことから大切なことを気付かせてもらえるまで続くと思っていて間違いありません。つまり、自分の個人的な能力や努力で乗り越えてしまうだけだと、気付きを得られにくいということなのです。

例えば、商売をされている人が売り上げが落ちてきて困った状態になったとして、通常は売り上げを元通りにするために様々な作戦を思いつくかもしれません。

そしてそうした策を実施して思った通りに売り上げ増を達成したとすると、この困ったことに直面することから大切なことを学ばずに済ませてしまったということになるのです。

百歩譲って、そのような場合でも気付かされることが全くないとは言えないかもしれませんが、もっともっと多くの気付きを得る方法があるのです。

それは、なぜ今自分に困った状況がやってきたのかということを見いだそうとする姿勢を持つことですね。事態をすぐに否定的な目で見るのではなく、何かを気付かせてもらえるチャンスと捉えるということ。

そういう見方ができるようになると、困ったことになったという思いそのものが単なる思い込みによる産物だったと思えるようになるかもしれません。

実際に、自分の人生の過去を振り返って、あの時は本当に困ったということを思い出したときに、そこで何らかの気付きを得られたときにはその後の人生が変化しているのです。

しかし、逆にやみくもに立ち向かって勢いで乗り越えてしまったような場合、あるいはそれに失敗したようなときには、気付くことなく、そして人生も何も変わってはいないと分かります。

困ったなと思うときには、大切なことと向き合う大チャンスがやってきていると思うこと、そしてそのことを解決して不安を安心に変えようとむやみにしないことです。

不安の根源はそのことではないと気付くこと、それを解決できたとしても不安はまたやってくるということを知ることです。

心に浮かぶ思い

先日自分の心に浮かんでくる思いというものには、何も意味はないんだなあというのをしばらく心静かに続けていたら、自分がいかにニセモノの中で生活しているのかということを実感しました。

自己流の瞑想なので、それを瞑想と言ってもいいのかどうか分からないのですが、ただそのようにしてやってくる様々な思いを見ては流し、というのを繰り返すのです。

ですから到底無念無想などというものとは程遠いわけですが、そうして自分の中に湧き上がる思いを片っ端から手放していくのです。

それらの思いは、すべて過去からの遺産だということもそうしたワークの中でいやというほど思い知ることができますね。

今この瞬間に思いというものはないのかもしれません。常に過去の記憶の中から思い出して処理して欲しいと願っている何らかの思いがやってくるのです。

だから思いはいつも過去に生きているのだということが分かります。こうした思いにつかまってしまうと、今を知ることができなくなってしまうのです。

なにがしかの思いが持ち上がって表面化するまで待ってあげていると、必ずそれは次々とやってきては過去を裁こうとするのです。

その時に、そうした思いには何の意味もないとして気持ちよく流してあげることによって、少しずつ過去から開放されて今を知ることができるようになるのです。

過去から開放されると、それは未来をも手放すことになります。なぜなら、未来とは過去に残してきたと思い込んでいるものを解決するためのものだとしているからです。

過去がなければ未来も必要にはなりません。したがって、過去と未来は同時に消えていく運命にあると言うことができますね。

過去も未来もニセモノに違いありません。そのニセモノをホンモノのようにさせてしまうのが、自分の心に浮かぶ思いなのです。どんな思いにも何の意味もないということを常に実践することで、唯一のホンモノである現在を知ることができるのです。