「与える」喜び

このブログでも今まで何度も繰り返し書いてきた「与える」ということについてまた書きたくなりました。およそこの世界で意味があることと言えば、「与える」ということになります。

それ以外には何の意味も見出せません。与えることの真反対は「手に入れる」ということになります。この「手に入れる」ということからは、どんな望ましい結果も起きないのです。

そればかりか、罪悪感や恐怖、そして怒りを継続することになるだけです。何かを「手に入れる」と、その瞬間だけある程度の安心を得ることができます。

しかし、そうした一過性の安心が、その次に何かを「手に入れる」ということへの原動力となってしまうのです。

そしてそれが手に入らないと、恐怖や怒りを作り出してしまうことになります。仮に手に入れられたとしても、場合によって罪悪感を引きずってしまうことにもなるのです。

「手に入れる」行為は、そうした危険ばかりをはらんでいるということに十分気づかなければなりません。気づかなければ継続させてしまうということです。

「手に入れる」ということに執着している意識から自分を解放する一番いい方法は、「与える」側に立って物事を見るということしかありません。

「与える」ことに専念している間は、「手に入れる」ことを忘れることができるからです。だからこそ、その時ばかりは罪悪感、恐怖、怒りなどからも開放されることになります。

そして「与える」心は必ず与え返されるということも真実です。だから「与えた」結果も喜びや嬉しさが満載になるのです。

「与える」喜びのことをこれほどまでに分かっていながら、常にそうできない理由とは何でしょうか。それは、私たちの心に根深く染み付いてしまった与えると損をするという思いです。

「与える」と減る、「手に入れる」と増えるという考えに乗っ取られてしまうと、「与える」ことができなくなってしまうということです。

こうしたいただけない昔ながらのクセに気をつけながら、ただ「与える」ということを選択できるように意図しながら生活できるといいと思います。

「手に入れる」ことはエゴを救うことになり、「与える」ことは自分を真に救うことになるのですから。

時間という牢獄

私たちは誰もが時間という一つの流れの中で自分の生を生き続けていると感じています。どんな境遇であろうとも、このことから外れている人は誰もいないのです。

この状態のことを当たり前のこととしてそれ以上考えないで済ましているわけですが、コースでは時間は本当はないということを教えてくれています。

時間とは私たちの心の中で作られたものだということです。実在するものではなく、自分自身を縛るカッコウのツールとして使っているのです。

私たちの心は時間である過去と未来に翻弄された状態のままになってしまっています。過去という時間は、自分や他人が犯してしまった罪を作り出してしまいました。

そのことによって、誰の心も罪悪感を奥底に隠し持っていると思い込むようになってしまったのです。それは必ず恐怖を誘導するのです。

そして未来という時間はその恐怖をホンモノにする場所であると言うことができます。心が未来に向かうことで恐怖はよりそれを現実にすることができるのです。

こうして時間は罪悪感と恐怖に自分の心を縛ることに成功し続けているのです。瞑想や愛を与えることによって、この時間の呪縛から外れることができます。

実在とは時間という妄想を妄想としてみることで体験することであり、それに一番近いのは今この瞬間を感じるということです。

過去も未来も時間という妄想からくる狂気の産物でしかありません。そして最もポジティブな発想としては、時間はそれが妄想であるとの気づきを得るまでのツールであると考えることです。

それこそが本当の時間の使い道なのです。これが逆転の発想とも言える、コースの教えです。時間についてこうした考察ができないと、いつまでも時間という牢獄に縛り付けられたままになってしまいます。

時間という自分が作った牢獄から解き放たれて身軽になったときに、本当の自分は命という永遠の存在であることに気づくことになるのでしょう。

必要悪

一週間くらい前から左の肩甲骨の奥の辺りに痛みがあって、それが上の方に向かって伸びていて、首筋のあたりに達しているのが分かります。

今では、背中の痛みよりも首筋のあたりが左右ともに痛くて重い感じがとれずに、結構いやな思いをしています。

それはある朝目覚めたと同時に、突然やってきました。昔でしたら、睡眠中に寝違えたのかもしれないと思ったかもしれません。

しかし、そうした肉体的な痛みはすべて自分が作り出しているということが分かっているので、そうした物質的な理由を考えることはなくなりました。

10年くらい前のことですが、あるヒーラーさんのところでヒーリングを受けていたことがあるのですが、その人は私の身体のあちこちに大きな杭のようなものが刺さっていると言っては、抜いてくれました。

勿論、その杭は物質ではなくて、ある種のネガティブなエネルギーのようなものだとのことでした。あるときは、右肩から斜め左下へ身体を貫通するように刺さっていると言われたり、脊髄に沿って太い杭が刺さっていると言われたり。

そのたびに力みながら抜いてくれるのですが、自分ではあまり抜いてもらって楽になったという感覚はありませんでした。

ただはっきり分かったことは、確かに抜いてもらえたと思ってもまたしばらくすると、また別の杭が身体に刺さって痛みを起こすということでした。

つまり、抜いてもらっても抜いてもらってもまた新たに杭が出てくるということです。だったら、抜いてもらう意味がないなと思ったのです。

自分なりに考えたことは、外から見ると確かに痛そうで抜いてあげようと思うのでしょうけれど、実は自分ではまだそれが必要だったということです。

痛みはないに越したことはないのですが、それは自分の心の中にある何らかの思いのようなものを表しているのだろうということです。

だからこそ、辛そうだからと自分以外の誰かの力でそれを抜いても、またみずからそれを作っては突き刺すことになったのだろうと思うのです。

自分がヒーラーの立場になったときに、この経験がとても役に立ちました。何度も多くのクライアントさんの身体をエネルギーとして見ていると、確かにそうした何か突き刺さっているようなものを感じることがあるのです。

人情としては、抜き取ってあげたいという気持ちになるのですが、それがそこにあるということはまだ本人にとっては必要悪なのだろうと分かるので、それはそのままにしておくのです。

きっと本人がもう手放してもいいという心の状態になったら、知らず知らずのうちにそれは身体から抜き取られることになるのだろうと信じています。

「愛」の法則

生まれて初めてお金を稼ぐという経験をしたのは、確か学生の時にやった家庭教師のアルバイトでした。それを皮切りに様々なバイトをしました。

夜中に徹夜でとある工場で働く単発のバイトや、ろばた焼きのお店で働いたり、有名なお祭りでたこ焼きを作って売ったりしたこともあります。

学生の頃のバイトというのは、悲壮感がなくて楽しみながらやることができてよかったと思っていますが、それでも部屋で好きなことをしているほうがいいに決まっています。

働くということは、楽しいとか苦しいとかは別として、労働を提供することでその報酬を手に入れるということですね。

勿論どうせ働くのなら楽しく仕事をして報酬をもらえるほうがいいに決まっています。ですが、いずれにしても、お金を手に入れるためには何らかの仕事をしなければならないわけです。

宝くじに当たるとか、遺産が転がり込むなどの特別な場合は別として、労働を提供する必要があるのです。

そしてそうしたことは、何も労働とお金の関係だけではなく、この世界のほとんどの場合に当てはまることなのです。

つまり、何かを手に入れるためにはそれに見合う何かを提供する、あるいは与える必要があるということです。勉強を頑張ってテストでいい点数を取るなども同じです。

広い意味では取引をしていると言ってもいいかもしれません。英語では、give and take などというようですね。

このように、何かを手に入れるために与えるということは、この世界で生きていく上での誰もが知っている基本的な法則だと言えます。

その法則からはずれるのは、何も期待せずにただ与えるという行為ですが、そうしたことが全くないわけでもありません。

無報酬で働くボランティア活動などはただただ与える行為と言えそうですね。そして手に入れるために与える行為と、何も期待せずに与える行為ではどちらがより満たされた気持ちになれるでしょうか。

それはきっと無報酬で与えることの方だと言えそうです。なぜなら、その場合に与えられるものとは「愛」だからです。形はどうであれ、その中身は「愛」なのです。

そしてその場合に限り、実は「愛」が与え返されるのです。手に入れるために与えるのがエゴの法則なら、この「愛」が与え返されるのは「愛」の法則とも言えるかもしれません。

このことは経験したことのある人だけが知っていることです。心の中が暖かくいい気持ちになって、とてもすがすがしい感じがする経験だからです。

エゴの法則の中で生きるのか、「愛」の法則で生きるのか、どちらを選ぶのもあなたの自由ですが、より幸せに近づけるのはそのうちの一方だということですね。

新しい繋がり

新たな講座がまた今週からスタートしました。従来と同じ内容のものもあり、新規に始めるものもありますが、講座をやっていてつくづく思うのは参加されているみなさんを信頼するということがとても大切だということです。

いつも初めのうちは、正直言ってこの人達は大丈夫だろうかと感じることも少なくないのですが、その不安は全く間違っていたということに気づかされるのです。

いい意味でそうした感覚は裏切られるということです。誰もが、その人なりの理解の仕方や感じ方を持っていて、その人のやり方で学んでいくことができるのです。

伝える側は自分と同じ具合に理解してもらえると安心できるという傾向があるのですが、それを望むことは何の意味もありません。

それはきっと、自分が持っている不安を投影しているに過ぎないのでしょうね。伝える側とそれを受け取る側では、何の違いもないということをはっきり知らされます。

それは伝えることで沢山のことを気づかせてもらえるからです。聴いてもらえなければ、自分の気付きはとても少なくなってしまうと言うことが分かります。

そして、ここが最もありがたいところなのですが、伝えたことが本当に伝わってその人の心の中で大切な意味を持つことになったときに、自分自身の中の大切なものに確信を持つことができるようになるということです。

そのことによって、自分の心の中により深く浸透させることができるのですから、本当に感謝しかありません。

来年の3月までの期間に、またみなさんのそれぞれの癒しがどのようにして進んでいくのか、それを見せてもらうことも大きな喜びでもあります。

講座という形を通して、みなさんと繋がり、共に癒していけることに感謝するのみです。

時間を今に戻す

どんな状況においても、本気になって探そうと思えば心の中に平安があるのを見つけることができます。なぜなら、私たちの本質は平安そのものだからです。

ただし、その平安を見つけ出す作業にはある程度の練習が必要であるのも事実のようです。なぜなら、心の別の部分であるエゴが平安と繋がることを阻止しようとするからです。

何かを思い悩んでみたり、未来に対する不安を繰り返し頭の中で巡らせたり、過去のことを何度も悔やんだりすれば心の平安から遠のくのは当然ですね。

過去にも未来にも平安の根拠は決してないと知ることです。ですから、心の平安を探すときには、必ず意識を現在に戻すことが大切なのです。

心を静かにして、イメージしてください。自分の思いが過去から現在を越えて未来へと広がっていることをまず意識します。そして過去は罪悪感に、未来は不安にリンクしていると。

それから、徐々に過去に広がっている思いを現在に近づけていくのです。生まれた頃から時間を進めて昨日にまで戻します。

ずっと未来に向けていた不安な気持ちも時間を戻して明日のところまでに縮めてみましょう。そうすると、意識は昨日と今日と明日だけに限定されてきます。

そしてさらにその広がりを今日にだけ集中していきます。最終的には、この今という一瞬にまで狭めて、意識の向く先を完全に一点にシャープに固定します。

うまくできると、時間が刻々と進んでいるということが幻想だということを感じることができるかもしれません。そうならないとしても、気が付いたら心の平安と繋がっていることが分かるはずです。

私たちの苦悩の原因は罪悪感と恐怖なのです。それは過去と未来に直結しているのですから、こうしたイメージトレーニングをすることで、平安を自分のものにすることができます。

どんなことでも慣れるまでには練習が必要ですから、そのつもりで楽しみながら試してみて下さい。平安が訪れると、自分は何かを手に入れるために生きているのではないということにも気づくことができるはずです

エゴの教え

エゴは毎分毎秒ごとにあなたの心を見張っています。あなたが本当のことに気づかないようにと目を光らせているのです。

エゴはずっと長い間命がけでそれだけをし続けていると言ってもいいのです。エゴが心配していることとは、何だと思いますか?

それは、あなたが自分の本当の姿に気がついてしまうこと、それを思い出してしまうことです。それだけは決してさせてはならないと監視し続けているのです。

そうならないように常にあなたに対して予防線を張っています。そのやり方とは、あなたに自分と誰かを比較させて喜んだり不安になったりさせること。

うかうかしていたら、誰かに傷つけられて痛い目に合わされるから、それを防ぐためにはこうしなければいけない、ああしなければならないとあなたを導くことです。

こうしたことばかりに気を取られているようにあなたを仕向けることができれば、決して本当のことに気づくはずがなくなるからです。

もしも万一あなたがそうしたことに翻弄されている隙をついて、自分が本当は何者なのだということに気づいてしまったとしたら、エゴは消滅する運命にあるのです。

なぜなら、エゴとは自分は他とは違う、全体から分離した存在なのだと思い込んでいる心の部分だからです。今あなたがこれが自分だと思っている意識とはそうしたエゴの心だといえます。

あなたはそれが自分だと思い込んでいるのですが、それが単なる思い込みであって本当は違ってたということが分かってしまったら、エゴはそのままではいられなくなる道理ですね。

他から分離している個体としての自分では、孤独で怖くて不安で、愛が欠乏しているという当然の結果としての境遇でいることになるのです。

それでもエゴはそうした世界でしか自分を存続できないために、この世界こそが本当の世界だということをあなたに教え続けているのです。

でももうそろそろ、エゴの教えの間違いに気づいて本当の自分を思い出す人が増えていくように思います。それは思いのほか、あっという間にこの世界に広がっていくのかもしれません。

エゴが導こうとして大声をあげているその隙間に、心の平安があることに気づいてそっと自分の奥深くを感じてみませんか?

何の努力も必要ないし、何かを達成しようとすることもないのです。ただ、自分をあるがままに見つめて受け入れることで、記憶は戻ってくるのだろうと思います。

現状維持

会社員だったころ、いつも不思議に思っていたことがあるのですが、それは会社というところは現状維持では駄目だということでした。

昨年よりも今年、今年よりも来年業績が上がらなければならないという不思議な使命のようなものがあったのです。

どこかで資本主義社会の宿命だというようなことを聞いたこともありましたが、本当のところはどうなのか今もって分かりません。

ただとにかく、会社の業績は右肩上がりでないと健康な会社ではないと言われていました。業績を上げるためには、従業員の数も増やさねばならないし、規模がより大きくなるということも命題のような感じでした。

確かに毎年ほんの少しずつかもしれませんが、給料も上がっていったのでそういうことなのかもしれないです。年齢とともに、家族を持つようになったりして若いときの給料のままだと生活が成り立たないからということもありますね。

しかし従業員の給料を上げるためだけであったら、高給取りの人々が退職していくことによってもそれはある程度まかなえるのではないかと考えたこともありました。

私自身は現状維持では社会も人間も駄目なのだという考え方に昔から違和感を覚えていました。よりよくしていこうというと、何となく上昇志向のようで悪くないのですが、そこには今のままでは駄目だという否定的な感覚が潜んでいるのです。

もっと早く、もっと強く、もっと多く、もっと快適にということを続けている限り、本当の心の平安は決して手に入れることができないと思います。

進歩を必要とするのはエゴの考え方なのです。芸術や愛にはそうした進歩というものは元々ありません。現状を受け入れるという心の状態になることこそが本当の幸せになることなのですから。

素直な感情表現

幼い子供が大声で泣いている姿は日常的にどこででも遭遇することができますが、大抵は微笑ましく見てしまいますね。

それでも激しく泣き続けるようだと、どうしたんだろうと遠巻きながら不安になったりもします。可愛そうに、早く泣き止むといいのになと思うはずです。

泣いている子供の親がそばにいて、その子をあやしたり機嫌をとったりして何とか静かにさせようとしていることも多いですね。

しかし、私たち大人はなぜ小さな子供が泣いていると、それをやめさせたがってしまうのでしょうか?彼らが泣くには、彼らなりに泣きたい理由というものがあるのです。

その理由を理解しようともせずに、うるさいからとか可愛そうだからとか思って、むやみにそれをとめようとするのは大人の身勝手ではないでしょうか。

ずいぶん前に、あるクライアントさんがお話ししてくださったことですが、小さいときに思い切り泣こうとすると、おばあちゃんが泣かないようにとあれこれしてくれるので、泣けなくて辛かったということでした。

子供に限らず、大人でも誰でも泣きたいときには思い切り泣くことが必要なのです。必要だからこそ心と身体を使って泣こうとするわけですから。

私たちは他人の感情表現を身近にすると、後ずさりしようとしてしまうような習慣があるのです。だから、相手に冷静になって欲しいといつも思っています。

ですが、本当に相手のことを思うのであれば、十分に感情を開放させてあげることがとても大切なことだと気づく必要があります。

講座でカウンセリングやヒプノセラピーの実習をしてもらっていると、クライアントさん役の人が感情を露わにすると、セラピスト役の人は無意識的にそれを抑えてしまう傾向があるのです。

それは繰り返しの練習によって、逆にそうした感情を感じるように促して差し上げることができるようになります。そしてそれは、必ず普段の人間関係の中にも応用することができます。

幼い子供を持つお父さん、お母さん、そしておじいちゃん、おばあちゃん、かわいい子供に沢山泣かせてあげて下さい。大きな安らかな心て感情表現を見守ってあげることが大事なのです。

そうしてもらえた子供は、大人になっても自分の感情をネガティブに捉えることがないので、自然に素直な感情表現をすることができるようになるはずです。

大人気ない自分を見つめる

子供と大人の違いとは何でしょうか?もしも年齢だというのなら、何歳までが子供で、何歳から大人になるのでしょうか?

その両者の境界はかなり曖昧なものであると誰もが知っていますね。元々、どんな特徴が子供を表しており、反対に何が大人を表すのかという明確な差異というものもあるようでないのが本当のところです。

大人っぽい子供もいるでしょうし、子供っぽい大人もいるわけです。そうした個人差があることも周知の事実ですが、ある一人の心の中にも子供の部分と大人の部分が同居しているのです。

皆さんは大人の自分の心の中にある子供っぽい部分について、どれだけ自覚があるでしょうか?誰の心の中にも子供の部分が多分に含まれていると言って間違いありません。

そうした心の部分のことをインナーチャイルドと呼ぶこともあります。インナーチャイルドが心の内で暴れると、人は大人気ない言動をする可能性があります。

恋人の前ではまるで幼子のように甘えてしまったり、いつか食べようと思って楽しみにとっておいたお菓子の類を誰かに食べられて激怒してしまったりすることがありますね。

そうした分かりやすい言動ばかりではありません。本人にはなかなか自覚できないようなものも沢山あるのです。

興味のない買い物につき合わされるとすぐに足が痛くなってしまったり、理由もなく急にあるときに不安な気持ちに襲われてしまうなども実は子供の意識の現われなのです。

自分の気持ちや言動を常に冷静に見つめていると、必ず大人気ない態度をとったりする自分に気づくようになれるものです。

そしてそれは必ず、幼い頃の自分の満たされていない心の現われなのです。そのことに気づけるようになったら、その満たされない心が何を訴えているのかということに気を配ってあげることです。

その辛く苦しい訴えを理解して許してあげることで、大人気ない自分の言動を少なくしていくことができるのです。

そうした言動というのは通常大人の自分にとっては不自由に感じられるものですので、そうした理由の分からない不自由さからも開放されることになるのです。