鬱は心のストライキ

鬱といっても人によって、それぞれ少しずつ違いがあります。ただ、鬱々とした状態ではあるけれど、ごく普通の生活が営めるレベルのものから、身体が動かなくてやるべきことが何もできないようなものまで様々です。

しかし、それぞれ違いはあれど、鬱症状の根源とは今までのやり方、生き方のままでは自分がもたないので何とかして欲しいという訴えであると思って間違いありません。

それも切羽詰まった主張であるため、それはストライキを起こす労組のようなものだと言えるわけです。このままでは自分は困ったことになってしまう、もう我慢も限界だ。

だから、ストライキを起こして自分の主張を通してもらおうとするのです。ストライキと表現したのは、ごく普通にできることを何もしないようにさせられてしまうからです。

身体が動かない、朝起きれない、出かけられない、気力がまったく出ない、これは身体を使ったある種のストライキなわけですね。

困るのは、今まで普通に生きてきた自分なわけです。このストライキは軽いものですと、ある一定期間が過ぎるころには元に戻るのです。

しかし、度重なるストライキにも関わらず、自分の生き方を全く変えようとしない場合には、相当大きなダメージを自分に与える必要があるとして激しいストライキに突入してしまいます。

自分がストライキに遭遇していると自覚できるような場合には、心からそのことを受け止めてあげることです。そうして、ストライキを起こさざるを得なかった自分の苦しみを認めてあげることです。

ストライキを起こさなければ自分が破綻してしまうと思ったからこその最終手段としてのストライキだということを分かってあげることです。

ストライキなど起こす自分は本当に怠け者だとして否定的にとらえてしまうと、人生は何も変わらずにこれまで以上にストライキが続くことになってしまいます。

ストライキは自分を見つめなおす絶好のチャンスが到来したということなのですから、自分はどんな無理を自分にさせてきたのか、どれほどの自己犠牲を強いてきたのか、そういうことをしっかりと検証することです。

自分のこれまでの正しさ、信念、信条、生き方などを見直して自己犠牲を強いない毎日を送れるようになれば、自然と鬱症状は消えていってしまうのです。

サバイバル

幼い子供にとって、家庭の中が安心していられるような場所でないと感じるような場合、毎日がまさにサバイバルのようなものだと言っていいと思います。

つまり、毎日楽しいことを探すというような無邪気な心で生活するどころではなく、どうやったら無事に自分は生き延びることができるだろうかと四苦八苦しているということです。

これはオーバーな表現に聞こえるかもしれませんね。大人の目線からは到底分かりようがありません。しかし、よくよくその子供の心を見てあげればすぐに分かることです。

父親と母親がいつも仲が悪かったり、家族の誰かが誰かを痛めつけていたり、そんな状態ではどうやっても安心などしていられないのは当然のことですね。

子供は自分が家族を何とか助けたいと思うのですが、所詮子供ですから何もすることはできません。それを子供心に自分は何て無力なんだろうと悲嘆するのです。

辛そうで幸せそうではない家族に対して、子供は子供なりにかわいそうに感じるため、無邪気な態度で家族と接することができなくなってしまいます。

つまり、甘えたり訴えたり、怒ったり、文句を言ったり、駄々をこねたり、そうした子供らしい毎日を過ごすことを自分からあきらめてしまうのです。

そうした本音を心の奥にしまいこんで、本当は大変な不満を抱えたまま大人になっていくことになります。そうすると、その隠し持っている不満や感情が日常生活のどこかに顔を出すことになります。

そして、困ったことに大人になっても幼い頃のサバイバルな人生をやめることができなくなってしまうのです。本人の生きる目的は、まさに生き延びるということのままになるのです。

そのため、他人からの評価を悪くしないようにと頑張る人生が待っています。そうやって、いやなことでも我慢しつつ人から認められて、生き延びようとするのです。

今日もいい評価をもらえて生き延びることができたと感じると、それが本人にとっての幸せだということになります。これが戦場で生きているサバイバルな人生を送っている人の姿です。

これでは一生を戦火の中で生き延びるという目的どおりの人生を送り続けることになってしまいます。みなさんは自分の人生をサバイバルだと感じてはいませんか?

もしも、そんな気がするという場合には、生きる目的をきちっと設定しなおす必要があるということに気付くことです。

そして、生き延びることが幸せに繋がるのではなく、サバイバルをやめることによってのみ心の本当の平安を手に入れることができ、それこそが今まで味わったことのない幸福感に繋がるものだと知る必要があるのです。

小さな世界 ~コースの教え~

自分にはこの身体があって、きっとその内側に自分自身が入っているという感覚が普通なのではないかと思います。身体の外側に自分がいると思っているはずはありませんね。

この肉体の内側だけは、外側の世界とは全く遮断された自分だけの独自の領域だと思っているのです。そしてそこは決して他人から侵害されることはありません。

勿論物理的に手術などでお腹を開いたりされることはあるものの、それも一時的なものでしかなくすぐにまた自分固有の世界に戻してもらえます。

この肉体に守られつつ身体の内側にいて外を伺っているのが自分というわけです。その自分というのは、自分の心を指しているといって差し支えないでしょう。

そうやって、身体の内側と外側が完全に分離していることで、自分と外側がはっきりと分け隔たれていることで安心しているのです。身体はある種の要塞のようなものですね。

身体の内側の小さな世界だけが自分であって、あとの外側は自分ではない別の世界が広がっていて、そこには数え切れないくらいの人や動物やらが沢山生きていると思っています。

そしてこの小さな世界だけを持っている自分というものがとても特別な存在なのだという思いを強く持っています。他とは比べるべくもない、大切な自分だというわけです。

その特別さは他のどんなすばらしいものと比較しても、ひけをとらないくらいに重要な感覚なのです。他の誰でもない60億人の中のたった一人の自分。

生まれてから今までずっと自分でいたその感覚にも特別さというものを感じてしまいますね。他の誰でもない自分は断じて一人しかいません。

こうした誰でもごく普通に持っている自分という感覚が、実は本当ではないと知ったらどうなるでしょうか?奇跡のコースでは、個別の自分というものはいないときっぱり言っています。

確かにその考え方は一見突拍子もないように感じられて当然なのですが、それを丁寧に紐解いていくと、最後にはこの世界でどうやったら幸せになれるのかというところに行き着くのです。

大切なことはここで幸せになること、その一点しかありません。何かわけの分からないことをもっともらしく勉強するのが目的ではありません。

もっとも基本的なこと、ただ幸せになるための訓練をみんなでしていこうと言っているだけなのです。そのために、インドに座禅をしにいかなくても、山奥で瞑想に明け暮れなくても大丈夫だと教えてくれています。

ごく普通の生活の中で、最短コースで幸せになる方法を教えてくれているのが、奇跡のコースなのです。そういわれたら、興味を持ちませんか?

その教えに取り組むかどうかは、自分の判断で決めていけばいいだけです。幸せになるために必要なすべての教えがあなたの前に用意されているのですから。

妥協しない ~コースの教え~

毎日ではないですが、大抵一日の間のどこかの時間に「奇跡のコース」を読んでいます。文字を目で追うのはきっと得意ではないのですが、それでも読むのは何か特別な魅力があるからだと思います。

その一つは決して妥協をしない考え方にあると言えます。グレーゾーンが全くないのです。この世界では、完全な白でも黒でもないその中間的なグレーの領域が大切という考えがあります。

一人の人間を例にとってみても、長所と短所があるとの一般常識的な解釈がありますね。実際完璧な人間など一人もいませんし、良心を一つも持っていないような極悪非道な人もいないわけです。

人の心の発達段階を調べていくと、まだ精神的に未成熟な幼い子供の頃には、1か0かといった極端な考え方をする時期というものがあります。

この人はいい人、あの人は悪い人という具合に単純なものの考え方しかまだできない状態なのですが、成長すると共にそうした両極端から次第に中間的なものの見方を学習していくのです。

だからこそ、この世界はグレーゾーンでできていると言えるわけです。しかし、コースの考え方はそれとは全く相容れないものです。

それは、真実か幻想かそのどちらしかないと言う教えなのです。少し真実で残りが幻想ということはないと言うことです。

だれかを愛すると同時に憎むなどということはまやかしだと言うことになります。でもそれが人間というものでしょと思っても、そんな妥協はいっさいしないのです。

だから読んでいてとてもすっきりするのです。その潔い姿勢や教えにとても励まされる感じがするのかもしれません。

したがってコースの教えどおりに物事をとらえてそれを実践していくということは並大抵のことではありませんが、それはある意味生きる方向を示唆していると言うことです。

今すぐに自分がその妥協のない生き方ができるわけではありません。しかしどこかの時点で100%許すとか、完全な愛を与えるということができるようになれたらと願っています。

不健康を望む心

約3週間くらい前からわずらっている帯状疱疹の発疹が急激に回復してきました。そして痛みの強さもかなり減ってきて、ああこれは治るなと何となく分かるようになりました。

それを実感したときに、心のどこかで健康になってしまうんだということへの否定的な思いというものを感じました。

簡単に言うと、病気のままでいることに満足しているような感覚というのか、そうした意識がはっきり心の中にいることに気付いてしまいました。

それはとても薄くて力がないような微妙なものなのですが、それでもはっきりといることが分かったのです。残念なような、悲しいような、なんとも不思議なものです。

身体の痛みは心の痛みから来ると何度もこのブログでもお伝えしていますが、その心の痛みを訴える手段として身体を使っていたわけです。

ですから健康になってしまうと、その訴えるチャンスが消えてしまうとでも思っているようなそんな感覚に近いかもしれません。

そうした思いというものをずっとずっと見つめて感じていたら、今回の痛みだけではなくて常に身体のどこかに問題を抱えてないと不安だと言っている自分を発見しました。

もしも自分の身体がどこも問題がなく完全な健康体になってしまったらと想像してみたら、その意識は困り果ててしまうのだろうなと予想がつくのです。

健康であることを思うと、その心の部分が物足りなさを感じるらしいのです。これは身体の健康に関してだけではなく、人生そのものに何の問題もなくなったら困るとでも言いたげなのです。

実は以前からうっすらとした気付きはあったのですが、今回それがとても明確に分かったのです。健康で幸せになりたいとの思いの方ばかりではなく、それとは真反対のこうした思いについても十分に見つめて受け止めてあげる必要があるのですね。

病気を望むなんてと思われるかもしれませんが、人の心というものは自覚のない部分では本当にびっくりするようなものを沢山持っているのです。

このことに気付いてできる限り対処していくことをしないでいると、知らぬ間に幸せになる道を妨害されてしまう結果になってしまいます。

自分の心も身体も健康そのものになったことをリアルに思い描いたときに、どこかにこうした意識がいるかどうか、よくよく感じて見ることが大切だと思います。

駄目な自分と駄目じゃない自分

私たちの人生とは、駄目じゃない自分というものを証明しようとして頑張ってみたり、駄目だということを証明しようとして挫折したりを繰り返しているものだと言えます。

この二つの相反する意識のぶつかりあい、攻防であるとも言えるのです。勿論個人差はかなりありますので、その戦いがとても極端に現れてしまう人の場合と、比較的やんわりとしたものの場合と、それぞれ千差万別です。

しかし誰にでもある共通のこうした心の葛藤というものがどこから来るのかということを知っておくことは、こうした無意味な戦いから手を引いて幸せの方向に行く助けとなるはずです。

事の発端は幼い頃の理不尽とも言える、自分は駄目なやつなんだという思い込みなのです。それを少しずつ毎日毎日せっせと強く立派な思いへと作り上げてしまうのです。

この自分への駄目出しは勿論そのことで自分を守ろうとする行為なので、そのことが確固とした信念として心の奥に沈殿していくわけです。

一方では、こんな駄目な自分のままでは嫌われて価値がないとして見捨てられてしまうかもしれないという恐怖を生み出します。

それは間違いなく命がけの恐怖感です。ですから、その人の生きる目的は今日を何とか生き延びるということになってしまうのです。

どうしたらより幸せになれるかといったことよりも、サバイバルそのものです。戦場でどうやって生き延びるか、それが最大の関心事となるのです。

だから本人は必死に駄目である自分を隠そうとして頑張り続けることになるのです。その目的は、周りから認められて存在意義をもらい、自分は生きていけるという安心をもらうことなのです。

しかし、安全を第一に目指すという人生は危険なところに自分はいるということを証明することになってしまいます。

それと同時に、自分に駄目出しをしたかつての幼い自分は駄目じゃない自分になってしまったら、駄目であることのメリットを享受できなくなってしまうので、駄目だという証明をしてくるのです。

こうしたことが繰り返されているということです。これでは、決して幸せにはならないことは自明の理ですね。何せ幸せを求めていないのですから。

あなたはしっかりと幸せを求めていますか?それとも駄目じゃないことを証明してサバイバルしようとし続けているのでしょうか?一度よく見つめてみることはとても大切だと思います。

新しい講座について

昨年の7月より始めた講座も、ヒーラー養成講座、カウンセラー養成講座、そしてヒプノセラピスト養成講座と増えてまいりました。

そのほかにも人間関係を改善する心理講座というのも行っています。そして、他に自分はどんなことをやりたいのかなと考えたときに、この先のことが見えてきました。

それは昨年1月より月一回のペースで続けてきた「奇跡のコース」の勉強会を、講座形式にしたものをやりたいという思いでした。

勉強会はこれからも今まで通り続けていくつもりですが、新たな講座ではより密度の濃い充実した内容になると思っています。

これほど自分を導いてくれた書物は勿論他にはないですし、これから先もずっと読み続けては実践していく日々になることは間違いありません。

それだけ大きなインパクトを与えてもらったという気持ちなのです。ただ、決して読みやすい本ではないというのも事実です。

ですが、どうしてもこの世界でより幸せになるためにはあの本の考え方が欠かせないという思いがあるので、内容を分かりやすく繰り返しお伝えしていくことに意味があるかもしれないと考えるにいたりました。

勿論私自身が今でも読み続けているものですから、完璧な内容の講座ができるはずもないのですが、それでも少しでも多くのみなさんにコースの真髄に触れていただきたいとの強い願いがあるのです。

無謀かもしれませんが、とにかく奇跡のコースの講座をスタートさせたいと思っています。実は今までにも、現在行っているすべての講座の中で、コースの話しは常に織り交ぜてきています。

今後は、そこに注力できるという喜びが自分の中に溢れてきているようです。是非、一人でも多くのみなさんに参加していただけるようにと、心から願っています。

開始時期は11月の第一週を目指しています。詳細が決まり次第、またHP上等でお伝えさせていただきます。

弱者と強者

誰でも自分の周りには大雑把に分けて、弱者と強者がいるものです。たとえば、家の中のお父さんの立場からすると、家族特に子供は弱者であると言えますが、会社での上司は強者となるわけです。

病院での看護師さんの立場からすると、病気を患って苦しんでいる患者さんは弱者であり、権威のあるお医者さんは強者となります。

幼稚園の先生であれば、園児たちはみんな弱者ですし、園長先生はじめ先輩の先生方などは強者であると言えるわけです。

そして、人は大抵弱者に対しては優しさを使うことができるのですが、逆に強者に対しては敵対視したり恐怖を感じたりします。

家族の中では、幼い子供やペットは弱者ですから、やさしいたわりの気持ちで接することが容易にできるのです。それは、向き合う人が恐れを感じずにすむからです。

人は恐れないでいられると、無防備でいられるために愛が発動しやすくなるのです。だからこそ、相手が愛しく感じられるし、優しく接することができるのです。

一方、自分にとって強者に対応する場合には、必ず何かしらの恐れを伴うはずなのです。だからこそ、防衛のメカニズムが激しく発動し、逆に愛は心の奥へと押しやられてしまいます。

そうすると、あの優しさはどこへやら、気が付くと相手の悪いところばかりが目に付いたり、不正を見つけては裁きたくなってしまうのです。

そしてそのように見えることを、事実であるとして勘違いしてしまうのです。強者を好ましく感じることが難しいのはこうした理由があるのです。

あなたにとっての強者は誰でしょうか?そしてその人達に対していい印象を持っているでしょうか?もしも、いやな感情の方が強いと思っているのでしたら、是非ともここで書いたことを参考にしてみて下さい。

そして、自分が弱者に向き合う時のあの優しい感覚をそのまま強者に対しても向けてみることです。きっと、何かが大きく変化してくるはずです。

動機が不純でも構わない

私たちは何かを思い立ってやり始めるときには、必ずしもそれが後で考えてすばらしい目的のためではなかったと思うことがよくあります。

たとえば、好きな異性にギターを弾けるところを見せたくて、一生懸命に練習するということがあるかもしれません。

かっこいいところを見てもらいたくて、異性にもてたくてスポーツを頑張るとか勉強をするなどはその典型ですね。

もう少し本質的な例をあげると、私たちは誰もが自分の価値が高いと思えれば思うほど嬉しいものですが、その自分の価値、存在意義を求めて頑張るのです。

若いときからボランティアに目が向く人もいるでしょうし、何かと人に親切にしてあげたいと思っている人もいます。

そうしたことが愛から出た発想であるとは限りません。自分の存在意義を高めてそれを確認したくて、そうした貢献をしようとする場合が少なくありません。

つまり動機が愛からではなくて、自分を何とかしたいというエゴから出た思いであったとしても、それをきっかけとしてギターが弾けるようにもなるし、スポーツが大好きになるかもしれません。

やりだした勉強が面白く感じてそれを仕事にするようになるかもしれませんし、ボランティア活動を通して体験したことで愛を学ぶかもしれないのです。

元々の動機や発端が何であれ、その体験を通して何かを学んでいけるということの方がとても大切なことなのです。

自分が何かをこれからしていきたいと思っている場合、あまりその目的を詳細に検討しなくてもいいのです。とにかく始めることです。

もしもそれがあまりにもエゴの色が強いと、結果はすぐに出てくることになります。つまり自己犠牲が強くなってしまい、苦しくて続けることができなくなってしまうのです。

途中から愛の要素が入りだすと、最初は気付かなかった面白みを発見したりして、当初とは違う喜びを見出すこともできるようになるのです。

何かを始めるときには、とにかくあまり迷わずにやり始めることが重要ですね。始めなければ失敗するという体験すらできないのですから。

感謝の言葉

先々週の月曜日の深夜に、「生まれてきてよかった」という題名のブログを書きました。そして実はその少し前に下のような感謝の言葉も書いていました。

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生まれてきて本当によかった!
生まれてきて本当によかった!
生まれてきて本当によかった!

お母さん、産んでくれて本当にありがとう。
沢山の愛を与えてくれて本当にありがとう。
すばらしい人生をくれて本当にありがとう。
あなたの息子で本当によかったです。

お父さん、守ってくれてありがとう。
大きな愛で包んでくれて本当にありがとう。
すばらしい人生をくれて本当にありがとう。
あなたの息子で本当によかったです。

このすばらしい人生をプレゼントしてくれたすべてのものに感謝します。
自分は本当に幸せです。
この幸せをみんなに伝えて分けていきたいです。
それが自分の役目だと思っています。

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これはブログに載せる必要はないと思って自分ひとりで瞑想中に唱えるようにしていました。そのときの自分の素直な気持ちにとてもマッチしている言葉だったからです。

そして、ブログを更新した翌々日の夜に右足のひどい痛みで寝れない日が始まったのです。それが、今も少し続いている帯状疱疹の痛みです。

今まで痛みの原因がいまいち曖昧だったのですが、このことを思い出してすっきりしました。この両親に対する感謝の気持ちに激しく抵抗している心がまだいるということです。

自分の苦しい惨めな思いを差し置いて、こんな感謝の気持ちを唱えるなど言語道断だということなのでしょうね。それを分かってあげなかったから病気を作り出して訴えてきたのです。

まだ痛みが残っていますので、このことをいい機会だと思ってじっくり感じて受け止めてあげようと改めて思いました。