この世界の意味とは

私たちは誰もがより幸せになりたいと願っていますが、それはただ楽であればいいとか毎日苦しまなければいいというものではないはずです。

何かしら、より価値のある人生を生きることで幸せになりたいと思っているのです。つまり、無意味な人生などでは幸せにはなれないだろうという思いを持っています。

自分が生きて何かをすることで、それが誰かの役に立つようになるとか、人から賞賛されるとか、とにかくそこには価値というものを求めているのです。

価値の見当たらない人生など無意味ですし、そんな人生では決して幸せになどなれはしないと思い込んでいます。

なぜそんなふうに考えているのでしょうか?もしもこの世界がユートピアで誰もが元々幸せに満たされているとしたら、そこで自分はどんな価値のある人生を生きれるでしょうか?

争いもなく人々が楽しく暮らしているとしたら、それ以上殊更人生に価値を見出す必要などなくなってしまうはずです。

つまり本当の幸せとは、価値を必要としない心の状態なのです。逆に、幸せではない状態、苦悩している心こそが何かしらの価値を必要としてしまうということです。

私たちは本当に幸せな状態ではないからこそ、無意味な人生では困ると思っているのです。人生に何らかの意味付けをすることで、足りてない幸福感を満たそうとしているのです。

それなら、もうこの世界そのものに意味を見出そうとすることをやめてみたらどうでしょうか?どんなことにも意味はないし、価値があるかないかということにも意味を見出さないということです。

そうすると、こだわりやわだかまりもなくなって、ただ穏やかな心でいられるようになるはずです。頑張って意味のないところに価値を見出すということも必要なくなります。

これこそがきっと幸せになる最短コースであると思います。意味がないというのは否定的なことでは決してありません。

幸福とは愛の状態であり、愛は何にも意味を見出すことをしないのです。愛そのものがすべてであるからですね。

エゴとの同一視

エゴというのは、自分とはまとまりのある一つの心と肉体を持った存在であると思い込んでいる心の部分のことを言います。

それなら自分はエゴそのものだと捉えられるかもしれませんね。誰もが、自分は一人の人間としてこの世界で生きていると信じているからです。

しかし、心の部分という表現をしたのは心の全体ではないからです。心のうちでエゴとは真反対の部分も実はあります。その心の部分のことをどう呼んでもいいのですが、愛に満つる心だと思えばいいです。

そうした二つの部分に自分の心が分裂しているということです。そして、そのエゴ以外の部分については自覚することがほとんどできません。

だからこそ、自分はエゴそのものだという自覚になってしまうのも無理のないことです。しかし、本当は、そのどちらでもないほんの小さな心の部分があるのです。

それはエゴの部分でも愛の部分でもない、別の小さな部分なのですが、実は自分がより幸せになっていけるかどうかは、その小さな心の部分に全面的に託されています。

癒しとは、まず初めに自分とはこの小さな心の部分であると気付くことなのです。エゴの心の部分が自分自身だと思ってしまっているのは、この小さな部分がエゴにのっとられてしまっているからなのです。

だからこそ、我々は自分をこの世界で立派な人物に育て上げようとしてしまうのです。それこそがエゴが企む作戦の表面的なものだからです。

私たちがどんなに自分のことをエゴそのものだと思えるとしても、それは事実ではありません。自分とは、本来その小さな心の部分であるということです。

その小さな部分こそが、エゴを教師として選ぶのか、愛の部分を教師として選ぶのか、どちらにするのかを決めることができるのです。

今日から自分をエゴと同一視するのをやめることです。それには小さな中立の心の部分を見つける必要があります。それは、選択することができるという意識を取り戻すことで実現できます。

エゴを敵対視することに意味はありませんが、エゴを自分自身ではないと分かることはとても大切なことなのです。エゴに操られないようにするために、その小さな部分をしっかり育てていくことですね。

時間の制約

会社員だったころは、朝何時に起きなければならないとか、明日のために何時までには寝なければというようなことがありました。

それは勿論、社会人としてのルールを守るためにはある程度必要となるものですし、そのための時間的制約を自分に課して生活するのは当然ですね。

セラピストの仕事をするようになって、そうした時間的な制約がかなり減少してしまいました。朝はかなりのんびりと起きることができますし、夜も好きなだけ起きているようになりました。

それは一般的な社会人の方々と比べたらかなり自由な生活かもしれません。ところが、それでも毎日何度となく時計を見る習慣が抜けません。

勿論仕事は時間通りこなしていく必要があるわけですから、その点では当然なのですが、仕事と切り離された完全にプライベートの時間であっても、いつも時間を気にしているのです。

終日仕事をしない日であったとしても、一日に一体何回時計を見るでしょうか?そろそろ食事の時間だなと思えば時計を確認しますし、何かを行動し始めるときに必ず時計を見る癖があるようです。

無心になって遊んでいるときにも、ある程度時間が経過したあとは後どのくらい遊んでいられるかを確認するために時計を見るのです。

会社員の頃、常に時間に追われた生活をしていたため、退職したあとはそれを変えようとして腕時計をつける習慣をやめてしまいました。

ところが気がつくと、部屋の中にある時計をしょっちゅう確認している自分がいました。外出するときにも、時計の代わりにケータイで時間を確認したりしています。

日ごろ、奇跡のコースを読んで時間は幻想だということが十分に理解できているくせに、現実の生活においては時計がない暮らしを想像することができません。

このブログをアップするのも日付が変わったと同時にアップするのが習慣となっています。この時間を気にして生活することから意識的に開放されるようにしてみようかと考えています。

そうでないと、時間は幻想だという言葉が軽々しく感じられてしまいそうです。自分自身、いろいろなルールや制限に支配される人生はまっぴらだと思っているのですから、時間の制約も同じように手放す必要がありそうです。

自分の意識に深く刻み込まれた時間的制約について、もう少ししっかりと見つめなおして、できるところから手放していこうかと改めて考えています。

自由とは

若い頃、当然お金などなくてピーピーしている時に、ごく一般的な男性にありがちなことですが自分のクルマが欲しくて仕方がありませんでした。

就職するようになって、すぐに希望するクルマを親に借金をして購入して、有頂天になっていました。実際には仕事が多忙であまり乗る機会はなかったのですが…。

クルマを手に入れられたのはよかったのですが、月に一度の給料日に借金返済によって手元に残るお金はごくわずかでした。

そのときに、これって本当に幸せなのだろうかと思ったことを覚えています。自分の収入には不釣合いなクルマを購入したために、毎日の生活がとても不自由に感じられました。

とても欲しいものがあって、頑張ってそれを手に入れることができるというのは、ある意味自由な人生と言えるかもしれません。

しかし、そのために生活の別の部分が圧迫されて不自由さを感じることになるとしたら、その人生が自由であるとは簡単には言えなくなってしまいます。

私は逆に欲しいものが高額である人生とは不自由なものだと分かってしまったのです。そして、クルマを持ちたいという思いから開放されたほうが自由に違いないとも分かりました。

分かったところで自分の気持ちが変化するわけではありませんので、その後もクルマを買い換える人生は続いたのです。

本当の自由とは、心が満たされている状態を言うのだということも最近はっきりと認識できるようになりました。

ですから何かを欲しがっている限り、その人の心は不自由であり縛り付けられている状態であるということですね。

欲しいものが手に入った時の喜びとは一過性のものであって、それは一種の麻薬的な快感でしかありません。

あなたは欲しいものがどのくらいあるでしょうか?何も欲しがらない人生などつまらないじゃないかと安易に捉えるのではなく、この自由さについても考えてみるといいかもしれません。

自分をしっかり持つ

子供の頃から、面倒なことは誰かにやってもらうことが大好きなくせに、これは自分でやらないといやだというものは自分なりに頑張ってやるようにしてきたと思います。

世間的にも、自分の意見を持ちなさいとか、自分というものをしっかりと持ちなさいという教育があるように感じています。

年頃になると、自分は結構自分というものが確立してきたなと思ったりもしたことがあるのですが、そんなことは妄想だということがすぐにばれることがありました。

テレビで討論会などを見ていると、この人の意見はもっともだと思っていると、それに反論する人がすぐに出てきて全く逆のことを言うのです。

そうすると、今度はこの人の言うことの方が正しいような気がする、という具合に人の言葉に右往左往している自分がいました。

自分が本質的に興味のない内容だったりすると、今でもこの傾向は強いという自覚がありますので基本的には変わってないのでしょうね。

政治家の話しなどを聞いていると、誰がなんと言おうが絶対に持論を曲げないというか、あれこそ自分をしっかり持っている人の象徴だなと思ってみることもあります。

しかし、よくよく考えてみると、自分をしっかり持つということが本当にそれほど大切なことなのでしょうか?自分の意見や気持ちに凝り固まることは時として苦悩を生み出します。

オフィスがあるマンションの部屋の上の階に引っ越してきたご家族がいらっしゃるのですが、布団やそのカバーなどの大きなものをよくベランダに干しているのです。

物が大きいので下の階の私の部屋から見えるくらいに垂れ下がって風に揺れてぶらぶらしているのに気付くと、目障りだなといやな気持ちになるのです。

たとえて言うと目の前に邪魔なものをぶら下げられて生活しているような感じです。先日の晴天の日の朝もそうでした。ところが、ちょっとした食事をしてコーヒーをすすっていた時です。

ふと外を見ると、何ともすばらしいお日様に向かって干してあるものが気持ちよさそうな感じが入ってきました。この寝具で寝たら気持ちいいだろうなと思ったのです。

そうしたら全くその干し物が気にならなくなったばかりか、朝から面倒がらずに寝具を干す奥さんはいいなと思ったりもしたのです。

自分を中心に考えると邪魔だと思えたものでも、全く違う観点から見ることで自分がいい気持ちになれるということですね。

子供の頃に確かに必要だと思えた教えも、大人になるとそうでもなくなるということの例かもしれません。依存から自立に向かって成長したあと、自立も幸せにはしてくれないということが分かったときに軌道修正が必要だということです。

人は自分の立場からものを見たり判断したりを手放すことで、何が起きてもすばらしい気持ちで生活していられる可能性を持っているということですね。

瞬く星々

夜空に沢山ある星々を見ていると、心が澄んでくるのが分かります。何かいつも気付かないときにも自分を見守ってくれているように感じるからかもしれません。

ところでみなさんは昼間の空にも星があるのは知っていますよね?星は夜空にしかないと思ってる人がいたらそれは間違いです。

昼間でも夜と同じように空には無数の星々があるのです。ただ、太陽の光によって目の瞳孔が閉じてしまうので、その淡い光が感じられなくなるだけなのです。

以前書いたことがありますが、実は昼間の間にも星を見ることができます。今はあまり見なくなってしまいましたが、お風呂屋さんの煙突に入って空を見たときに、ちょうど真上に星があればそれが見えるのです。

煙突の中は暗いので瞳孔が開き、星の光でも見ることができるようになるからです。見えないからといって、すぐにないはずと思うのは早とちりということです。

私たちが日頃から目にするものも実はそういうものなのかもしれません。真実は沢山自分の周りに存在するのですが、その中で肉眼で見えるものには限りがあるということです。

言い方を変えると、肉眼では何かが邪魔をしてしまって見えるべきものが見えなくなってしまっていると考えることもできます。

暗い煙突から青空を見上げるように、この世界そのものをそんなふうに真実の目を凝らして見ることができたら、きっといろいろな気付いていなかったものが見えてくるはずです。

そういう目には、きっと私たち一人ひとりはみんな同じだと映るはずです。そして私たちは肉体こそが自分たち自身だと思っていますが、その目では肉体は見えなくなるはずです。

だからこそすべてに違いがないというように映るのです。自分の目に煙突をくっつけて、真実だけを見つめるようにできるといいですね。

三人寄れば文殊の知恵

「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があります。特別な人ではなくても、三人集まれば良い知恵が浮かぶものだということですね。

有能な一人よりも普通の三人の方がいいという意味もあるかもしれません。いずれにせよ、一人よりも三人、三人よりももっと大勢のほうがさまざまな角度からいろいろな知恵を出し合うことができるわけですから、それだけいい結果が出せそうです。

このように私たちは部分を集めて全体にすることができると思っているのです。一つひとつは不完全でもそれを全部集めると完全になるという発想です。

しかしそれは真理ではありません。地球上の人間60億以上を全部集めても、何でこの宇宙があるのか明確に答えることもできないからです。

これは数の論理ではありませんね。地球上の犬や猫を全部集めても人間と同じ頭脳を持たせることは不可能なのと同じです。

不完全なものをどれだけ寄せ集めたところで完全にすることはできないということです。どんなテストも100点を採った実績があったとしても、1万回目には99点を採るかもしれません。

完全さというのは、そうした形ではあり得ないのです。全体とは部分と部分の合計ではないということです。これは全体ということの本質が分からない我々には本当には理解できないことかもしれません。

未熟な幼子が成長して依存から自立へと向かうことに意義があるとするのは、不完全な自分を完全な自分にしたいという願望があるからです。

でも不完全さは永久に完全な状態へと変化することはないのです。だから、完全さを求めるあまりに自己犠牲を払うくらいなら、それを求めるのをやめることが懸命です。

人間はどんなに努力しても神にはならないのですから。一つ方法があるとすると、元々自分は神と同じ完全な存在だと気付くことかもしれません。

役割を手放す

私たちは自分の人生を意義あるものにしようとして、自分にも周りの人たちにも役割を与えて生活しているのです。

その役割を互いにまっとうすることで、目標を達成できると信じているのです。自分の役割を自分がきちんとこなしていくことができると、そこにはつかの間の喜びを感じるかもしれません。

逆にうまく役割をこなすことができなければ、自分を責める気持ちが出てくるはずです。うまく役割をこなせたとしても、そこに自己犠牲があれば人生は苦悩に満ちたものになってしまいます。

また、周りの人たちにも沢山の役割を与えていて、それを果たしてもらえないとなると、攻撃的になるのです。そして、その怒りは正当なものだということになります。

私たちの怒りとは、ほとんどがこうしたことから発生するといっても過言ではありません。自分が相手に役割などを与えなければ、裏切られることも見捨てられることもありえません。

自分の怒りを正当化してしまうほど、幸せから遠ざかる生き方はほかにありません。どんな怒りもそれが正しいということなどあるはずがありません。

正しいとしても、心の平安が得られなければ一体どんな意義がそこにあるというのでしょうか?何が起きてもいつも平安を保っていられるためには、今までに与えてしまった役割を手放すことです。

相手が自分の与えた役割を果たさなかったとしても、それを攻撃しないことです。そうすれば、怒りからも役割からも開放されていくことになります。

もしも私たちに役割があるとすれば、それはたった一つ、そしてそれはみんなに等しく与えられているものです。それは、「許す」という役割です。

誰もが罪はないとして許すことを実践すれば、自分も周りの人たちも、この世界全体が救われるのですから。

価値について その2

昨日のつづき

この世界には意味がないので価値を判断することもないというお話しをしました。人の存在価値についても同様なのです。

どうしても存在価値について云々したいのであれば、それは実在である真の自己にこそ存在価値があると思えばいいのです。

真の自己とは私たちの本当の姿であるすべては一つという想念、つまり愛そのものであると言えます。ただ、価値などという我々がでっちあげた言葉であらわすことなどできないくらいの実在だと思えばいいです。

それこそが本当の自分なのです。だから安心していいということですね。私たちは幼い頃にさまざまな理由によって、自分は駄目なやつだという思いを作り上げます。

それは罪悪感と呼んでもいいし、自己嫌悪、自己否定感と言ってもいいのですが、とにかく存在価値を感じられない状態にしてしまうことがあります。

そのことで何事にも自信を持つことができずに、人生を悩むことになってしまうのです。しかし、なぜ存在価値がないと思うことでそんなに悩むことになるのでしょうか?

それは自分に価値があると思いたいからですね。なぜ価値があると思いたいかと言うと、自分の存在に意味があると思いたいからです。

自分は特別な存在であり、他者と明らかな違いがあって、分離していることによって独自性を保っていると思いたいということです。

ここがすべての起点になっています。すべては一つという愛に戻ることができたら、この起点自体が意味のないことだということが分かります。

だからこそ、分離という基盤のうえに成り立っているこの世界もこの人生にも、価値も意味も何もないということです。

価値について

価値があるとはどういうことでしょうか?そして価値がないというのもどういうことかよく考えてみる必要があると思います。

価値とは意味づけするためのツールです。何かに意味があるとするために価値があるとかないとかという概念が作り出されたのです。

もしも物事に意味など最初からないとなれば、価値があるとかないとかという考え方もなくなってしまいますね。

自分には価値がないという思いを持って生活しているクライアントさんが沢山いらっしゃいます。ということは、自分には意味があると思っているということです。

存在に意味がなければ価値がないという発想は出てこないからです。これは、自分には価値があると思っている場合でも全く同じなのです。

私たちの人生には一体どんな意味があるというのでしょうか?生まれてきたということだけでも意味があるはず。→どうしてでしょうか?

生まれてきて人を愛し世界を愛することが出来るから。→それにどんな意味があるのでしょうか?

この人生で沢山の学びができるから。→学ぶことに何の意味があるのでしょうか?

長い間つらい人生を頑張って生き抜いてきた。仕事にも不平不満を言わずにただ忍耐で続けてきた。→それにどんな意味があるのでしょうか?

私たちは単に意味があると思いたいだけなのです。元々意味などありません。だからこそ、価値というものも本当はないのです。

100億円には価値があるか?1カラットのダイアモンドに価値があるか?人助けに価値があるか?価値があるように感じるとしたら、そこに何らかの意味づけをあらかじめしているからに違いありません。

この人生、この世界のすべてに意味などないと分かったら、自分には価値がないという思いも手放せるはずです。価値があろうとなかろうと、どちらでもないということですから。

どうせ意味のない人生だったら、思い切りみんなで愉しむことです。それだって意味も価値も何もありません。でもそうしたほうが、苦渋に満ちた人生よりもはるかに幸せです。

つづく