未来のために生きない

私たちは「今楽しむことができたらそれでいいじゃない。」と誰かに言われたら、アリとキリギリスのキリギリスのようにはなりたくないからと反論したくなるものです。

暑い夏の間にせっせと働いて、食べ物がなくなってしまう冬に向けて、食料を蓄えることが大切だということですね。

つまり、夏休みにめいっぱい遊んで二度と戻ってこないその年齢の夏休みを満喫したとして、二学期から始まる勉強で遅れをとってしまったら困ると、そう親は考えているのです。

だから子供の将来のために勉強しなさいと言うわけです。子供が勉強することをもちろん否定する必要はありませんが、その勉強は未来のためではなく今を充実するためであって欲しいのです。

今この瞬間に子供が興味を向けているものがあるのなら、できるだけそのことに時間を使わしてあげて欲しいのです。

大切な今という時間を犠牲的な思いをさせることに使って欲しくないということです。今を犠牲にする人は今の続きである未来の今もきっと犠牲の中にいることになってしまいます。

過去も未来も大切ではありません。昨日までの自分の人生のことをきれいさっぱり忘れてしまいましょう。自分は今朝生まれたと思うことです。

そして、明日以降の未来というものがあるという思いも幻想だと理解することです。つまり、今朝生まれた自分が今日だけを生きているとするのです。

未来のために生きないということは、過去のために生きないというのとまったく同じことです。なぜなら、私たちは過去の満たされない思いを解決するために未来に期待するからです。

過去と未来がつながってしまっているということです。その間にある一番大切な今という時間のことを忘れてしまっているのです。

今日のためだけに生きるということを毎日実践しましょう。明日のための準備も今そのことに集中することで、今日のために生きることになるのですから。

大宮八幡宮

昨日吉祥寺のオフィスからクルマで20分くらいのところにある大宮八幡宮という神社に参拝に行ってきました。少し前に、あるテレビ番組で東京のへそと言われている神社があると知って調べていたものです。

神社などという場所には今までまったくといっていいくらいに縁がないと思っていたのですが、阿部敏郎さんの「かんながら」という本を読んで少し興味が出てきたからかもしれません。

その神社のすぐ隣が幼稚園になっていたのですが、それで今日突然思い出したことがあったのですが、私がかつて通っていた氷川幼稚園というのも氷川神社の境内にあったのです。

今になって思うと、園長先生が神主さんのような姿をしているのを見たことがあるような感じもしてきました。

どうしてだが本当の理由は定かではありませんが、神社と幼稚園は同じ敷地内にあったりすることが多いかもしれませんね。

お賽銭を投げ入れて、いざ参拝するときに目の前に唱えるべき言葉が流暢な筆文字で書いてあるのですが、全部意味は分からないものの「神(かむ)ながら」という部分を見つけてびっくりしました。

何と阿部さんの本の題名と同じ言葉がそこに記されていたのです。本当は全部の意味が分かったらよかったのですが…。きっと何か大切なことが書いてあるのでしょうね。

そして帰る途中にもう一つの神社のことを思い出しました。帰り道の道沿いにある高校に自分がかつて通っていたころ、学校から程近いところにある春日神社という神社で丸太を借りたことがあるということでした。

文化祭のときに喧嘩神輿という出し物をみんなで作るために、その神社で木材を調達したのでした。そのままの状態で返してくださいねと宮司さんに言われたのに、のこぎりで切ってしまって。

あの時は若気の至りで、本当に無責任なことをしたもんだと思います。後で担任の先生が自腹を切ったらしいですが。明日にでも、お礼参りに行ってこようかなと思っています。

人馬一体

昔から「人馬一体」という言葉があります。その本当の意味はともかくとして、私は人が馬に跨って操るという感覚ではなく、人が馬と心をひとつにして滑走するような感覚として捉えています。

かつて、マツダ自動車がロードスターを開発するに当たって、この「人馬一体」というのを開発コンセプトとして掲げていたのを覚えています。

まるで自分自身がクルマと同化してしまったような錯覚を覚えるくらいに気持ちよく操縦できるクルマというのを目指したのでしょうね。

レースゲームに熱中しているとなんとなくこのことを体感することができる時があります。操縦しているはずのクルマがまるで自分の手足のような感じになるのです。

それはこのクルマを乗りこなそうという左脳的な思考とはまるで正反対の一体感のようなものであって、とても気持ちのいいものです。

しかし、もっと無私の状態に近づいていくと、今度は走っている道とも同化していくような感覚になることがあります。

運転している自分とクルマと道が一つになったような感覚はまた更に何とも言えない気持ちよさを味わうことができます。

自分とは単なるクルマを駆る一人のドライバーではなく、その三者が溶け合ったところにこそ本当の自分があるのだという感覚ですね。

このような感覚になるための条件とは、できるだけ何も考えない心の状態になることです。さっきよりももっと早く走ってやろうとか、より上手にコーナーを抜け出そうなどと考えなくなったときに、そうした感覚がやってくるように思います。

人生もまったく同じなのかもしれません。いい結果を出そうとか、人より抜きん出るぞとか、そうしたことを考えずにただひたむきにその瞬間瞬間、道と同化するドライバーと同じ心境で毎日生活すればいいのです。

そうすれば、きっと人馬一体のように自分と周りがいつも一つだということに気づくことができるのかもしれません。それはとても気持ちのいいものであるはずです。

思考は問題を探す

誰もが自分の人生には、なるべく問題が起きないで居て欲しいと願っているものですね。苦労は買ってでもしろと言ういにしえの言葉があるにもかかわらず、わざわざ苦悩したいとは思わないものです。

ところが実は何かを考える、つまり思考するという人間の特性を使えば使うほど、そこには問題が生じるというジレンマがあるのです。

何かについて思考すると、そこには必ず問題が発生します。なぜならこの世界は矛盾に満ちているからです。

その矛盾というのは、本当は思考することによって見出されてしまう、あるいは作り出されてしまうものであるとも言えるです。

つまり、思考すれば必ずそこには問題が発見されることになるのです。思考は解釈や判断を伴うからなのです。

そうすると、思考というのは必ずその問題を解決しようと努める特性を持っています。そうやって解決しようとすると、今度はそのためにまた新たな問題を見つけてしまうのです。

そしてまたその問題を解決するために次の問題を幾つも見出してしまうということが雪だるま式に起きてくるのです。

もちろん現実的にはその問題全部に対して解決を図ることはしませんので、心がパンクすることはないのですが、とにかく問題を解決するという思考の習性によって、問題は減らないということです。

思考することは問題を探し出すということをいつも心に留めておくことはとても大切なことです。思考しなければ価値判断をしないですむため、新たに問題を見つけ出すということが少なくなります。

人間としての知性の代表である思考とは一見すばらしい能力のように受け取られていますが、このように見ていくと幸せになっていくためには邪魔なものかもしれません。

思考を停止するために昔から人は瞑想をしたり、座禅を組んだりしてきたのも、そういった理由があったのです。

忙しい日常の中で思考をとめるということは至難の技かもしれませんが、短い時間でもかまわないので思考を緩めるための時間を作るのはとても大切なことなのです。

是非自分なりの方法を見つけ出して、日々実践することをお勧めします。問題を問題としない心でいられたら、問題を解決するよりもはるかに幸せに近づけるはずです。

起きていることを喜ぶ心

私達の身の周りでは毎日様々なことが起き続けています。そうして起こったことに対して、イライラしたり、悲しんでみたり、喜んでみたり、あらゆる反応をするわけです。

それが私たち人間の習性でもあるわけです。そしてそのことに何の疑いも持ってはいません。つまり、悲しいことが起きれば悲しいと思うし、嬉しいことが起きるから嬉しくなると信じています。

しかし、このことはよくよく見つめてみると、本当ではありません。何が本当ではないかというと、○○なことが起きるから○○な気持ちになるという因果関係です。

これは正確に表現すると、次のようになるはずです。ある事象が起きて、それを○○な出来事として解釈したために○○な気持ちになったということです。

つまり、私たちはある事象が起きてそれを○○な出来事だと解釈するという手順を、しっかり把握せずに単に○○な出来事が起きたとしてしまっているのです。

自分の解釈によってある出来事を○○な出来事であると決め付けているということに気づいていません。このことはあらゆる場面について例外なく言えることなのです。

したがって、本当はどんな出来事が起きてもそれをどう解釈するかによって、○○な気持ちになったり、××な気持ちになったりすることができるということです。

だとすると、自分がいつも喜んでいたいと思うのなら、ある事象が起きたときに喜ぶべき出来事が起きたと解釈することができれば、必ず自分は喜ぶことができるということになります。

この世界ではありとあらゆる出来事が自分の身の回りで起きていますが、その中でできるだけ多くの出来事に対して喜ぶべきことだとの解釈をするようになれば、それだけ喜びの多い人生にしていけるということです。

あなたは自分の人生で遭遇するさまざまな出来事に対して、どんな解釈をしてどんな気持ちになることが多いでしょうか?

何であれ起きていることを喜んで迎え入れるような解釈ができるようになれたら、本当に喜びにあふれる人生を手に入れることができるということです。

起きていることそれ自体には何の意味もありません。それに意味づけをしているのはほかでもない自分の解釈なのです。

それなら、できる限り肯定的な解釈、楽しい解釈、嬉しい解釈、喜びの解釈ができるようにすれば、すばらしい人生になるはずです。試してみる価値がおおいにあると思います。

講演会に行って来ました

普段まったくと言っていいくらい人の書いたブログなどを読むような習慣もないのですが、どうしたことかある人のブログを読むことになったのです。

そしてその人のブログを読んでいるうちにいつも自分が伝えていることとほとんど違いがないような事柄がより分かりやすい言葉で綴られていることにびっくりしたのです。

少し読んでいるうちに本当にその内容がご本人の正直な気持ちから出ているのだろうなということが伝わってきて、ああこの人はホンモノだと感じました。

その人は、自分とほとんど同じ年齢の男性なのですが、コースで説明されている「聖なる瞬間」を経験したのだろうと思える人でした。

阿部敏郎という人なのですが、つい数日前までまったく知らない人だったはずが、そのブログを読んだことによってとても身近な存在に感じるようになりました。

そして、その人が書いた本が出版されたのを期に、講演会があるというのを知って昨日の夜出かけてきました。

講演会では、質疑応答も含めて二時間くらいの時間だったのですが、あっという間に終わってしまうくらい、短い感じがしました。

この人はきっとコースを読んではいないということがお話の内容からして分かるのですが、その真髄はコースの内容と何も違いがないのです。

自分がいつも伝えているような内容について、まったく知らない人からただ聞くという体験をしたわけですが、それがとても新鮮な体験でした。

もしも、彼のブログに興味があるのでしたら是非読んでみることをお勧めします。「いまここ」という題名のブログです。この意味にも深い意味が込められています。

たまには、オフィスから抜け出して違う空気を吸いに出かけるのもいいものですね。彼の言葉の中で、すべてをイエスと受け取るというのがとても心に残っています。

心の平安を願う その2

昨日のつづきです。

心の平安を求めているつもりでいても、結局人と争いを続けているというお話をしました。私たちが求めている平安というのは、戦争に勝って、次の戦争に突入するまでのほんの一瞬の安堵なのです。

日本が戦争を放棄した国であるとしても、どこかの国から戦争をしかけられたら防衛はするということです。これでは心の平安は得られません。

私たちの求めている平安もこうした種類のものだということを理解することです。決して本当の意味の戦いの放棄ではないのです。

自分からは攻撃しないですよという約束はできるのですが、もしも攻撃されたらもちろん攻撃し返すことになりますから注意して下さいねという状態なのです。

本当の心の平安とは、今日の平安な思いは一時のものではなくて、今後もずっと続くということを確信している場合のことを言います。

それは、自分はもう何があったとしても攻撃はしませんという決意をすること以外に方法はありません。この決意を真にすることができたら、実は絶対に攻撃されることはないとわかるのです。

なぜそんなことが言えるのかというと、相手は全部自分の投影に過ぎないからです。自分は攻撃しないという決意は白旗を揚げることと同じです。

戦うくらいなら殺されてもいいという思いです。身を投げ出した状態になるということです。犬で言えば腹を上にして横になるようなものです。

つまり無防備になるということです。本当に無防備な心はどんな状態におかれても攻撃されるということはありません。

防衛するから攻撃を受けることになるのですから。何があっても攻撃することを正当化することはできないのです。そのことが分かったときに、ようやく本当の心の平安、つまり真の幸せを感じることができるのです。

心の平安を願う

余程心が捻じ曲がってしまった人以外は戦争を望むということはありません。誰だって人と人が血を流して殺しあうことを好ましいとは思わないのです。

そのくせ、いつまでたっても人類の歴史はそのまま戦争の歴史と言ってもいいくらいに地球のどこかで日常的に戦禍の中で生きてる人たちがいるのです。

日本のように戦争を放棄した国にいても、私達は自覚のあるなしに関わらず周りの人たちとある種の戦いを続けています。

それは健康的なスポーツでの勝負や試験や成績での争い、会社間の熾烈な戦いや同僚との出世争いなど、数え上げたらきりがありません。

家族などのごく親しい間柄同士であっても、何かしらそこには争っている意識というものがあるのです。相手に負けたくない、何かで相手を負かしたいと思っています。

怒りという感情によって攻撃的になってしまうということも誰でも経験していることですが、そうした状態というのも誰かを相手に戦っているのと同じです。

もう分っていただけたと思いますが、私達は戦いが好きなのです。争いごとに巻き込まれたくないと思っているものの、実は無意識のうちに好んでそうした場所に行くのです。

誰もが心の平安を願っていると自覚しているその裏では、こうした心の働きというものがあるということです。

私達は根っから争いごとが好きでたまらないのです。戦いで勝つこと、相手と比べて自分の方が優位にあると思って安心したいということです。

そうした一過性の安心が心の平安だと思ってしまっているのです。だから、それ欲しさに争うということです。

しかし心の平安を得るために戦わねばならないというのは理不尽な話だと思いませんか?ここに気が付かなければ、いつまでも戦い続けることになってしまいます。

つづく

1+1=1の世界

私達のこの世界では様々な法則があります。宇宙全体に行き渡る法則を見つけることがある意味で科学の発展を支えてきたともいえます。

地球上のどの国に行っても、1+1=2になります。スケールを大きくすると、エネルギー保存の法則、ニュートンの万有引力の法則、そしてアインシュタインの相対性理論。

まさに人類はそうした宇宙に満ちている法則を見つけ出すことに躍起になってきました。しかし、一方では奇跡という言葉があります。

絶対に助からないと思われていた末期ガンの患者さんの病気が完治してしまったり、そのほか何も飲まず食わずで何十年も生きている人。

この世界の法則から逸脱した現象のことを奇跡と呼ぶわけです。こうした奇跡を見つけ出すと、科学の目はまだ発見されてない法則があるのだと思うのです。

その法則さえ見つかれば、奇跡は奇跡ではなくなると思い込んでいるのです。つまり、この世界は必ずやなんらかの法則の元で現象が起きていると思っているのです。

そうやって、自分たちの能力ですべてを理解し解明できる、もしくは解明したいと常に思い込んでいるということです。

これこそがエゴの思考なのです。そして、この世界はエゴの思考体系で成り立っているのです。本当の法則とはそれなのです。

ということは、エゴの思考体系から抜けることができたなら、それこそが奇跡となるのです。奇跡のコースによると、この世界は幻想であり、実在は別にあると言う事が分ります。

つまり、奇跡というのは真実の世界を証明するものなのです。エゴの思考体系の中にいる私達からみると、実在は奇跡のように見えてしまうのです。

1+1=1にもなるのです。なぜなら、真実の世界には足し算というものがありません。もしも無理やり1+1というのをやったとしても、すべては元々一つなので答えはやはり1になるのです。

エゴから離れて愛に生きる人はエゴの思考体系から逸脱した世界を見るので、奇跡がごく普通に起こるようになるということです。

レースゲーム

先日レースゲームを買いました。実はずっと以前からその種類のゲームが大好きだったのですが、ゲーム機に付属しているコントローラでの運転に面白みを感じることができなくてやめていました。

それがネット上で比較的安価にゲームセンターにあるようなハンドルとペダルとシートが手に入ることを知って、購入してみました。

いきなり、自分の部屋がゲームセンターになってしまいました。そのゲームに嵌り込んでいると、これがエゴ満載になっている自分に気づきます。

繰り返し訓練してハンドル操作や微妙なアクセルの加減やドリフト走行ができるようになると、無上の喜びを感じたりできるのです。

つまり、自分の能力を向上して行って、 結果を出す。タイムトライアルを何度も繰り返して世界記録を破ってみたり、レースで他のレーサーとぶつかり合いながら勝利してみたり。

明らかにエゴど真ん中な感じになることが簡単にできます。エゴの集中力というのもなかなかなものだなと思ったりします。

しかし、そんな中でもよ~く自分の心の状態を見つめてみると、そこには巨大なエゴの意識に隠れたようになってはいるものの、ちゃんと愛の部分もあるということに気づくのです。

それは、サーキットやオフロードを走っているときに感じる、道は友達という感覚です。道路は自分の前に優雅にカーブを描いて待っていてくれるという愛おしさです。

丁寧に敷かれた絨毯の上を愛を込めて走り抜けるような感謝の気持ちになることがあります。それは、コーナーを責めてタイムを縮めるというよりも、コーナーはすばらしいと感じるのです。

前方に果てしなく続く道が自分をウエルカムしてくれているような、そんな嬉しい気持ちを味わうこともできます。

どんな殺伐とした世界であったとしても、そこに愛の要素を感じ取ることはできるんだということですね。