やらねばならない事はない その2

昨日のつづきです。

本当にやらねばならないという事は実は意外に少ないというお話をしました。やらねばならないという意気込みが強すぎて、やらなくてもいいことでもその仲間に入れてしまうからです。

例えば、最初はただやりたいからやっているということでも、知らぬうちにやらなければになってしまうこともあります。

気持ちのいい汗を流したくてスポーツクラブに入会したのはいいけれど、いざ出かけるときには今日はスポーツクラブに行かなきゃという思いに変換してしまったりするのです。

ある意味、そうした言い方が癖になってしまっているのかもしれませんが、そういう表現を使うということ自体が気持ちを変えてしまっている証拠だとも言えるのです。

朝起きなきゃ、会社に行かなきゃ、食事をしなきゃ、家に帰らなきゃ、映画を見に行かなきゃ、もう何から何まで~しなきゃという具合に変えてしまうのです。

そうやって元々はただそうしたいという気持ちだけだったものを、義務化してしまうということです。義務化してしまうと、人は徐々に気が重くなってくるのです。

そうすると、せっかく入会したスポーツクラブにも足が遠のくことになってしまうかもしれません。しかし、なぜただしたいことをするということを、しなければという義務に変換してしまうのでしょうか?

それは義務を果たすことで安心しようとする心の働きがあるのです。ただ好きなことをするというのは自由でいいですが、どうもそこには価値が見出せないという思いがあるのです。

義務化してそれを遂行することにしてしまうと、そこには何となく達成したという思いが生まれ、それによって自分を責めることから遠ざかることができるのです。

それが安心に繋がるということです。このことに気づいたら、出来る限り日頃やらねばと思い込んでいることを洗い出して、義務化していないかチェックしてみることです。

そうやって、本当にやるべきことだけを実行するようにしていくことで、より自由な生活を手に入れることができるのです。

そうして心が癒されていけばいくほど、本当にやらねばならない事など一つもないということにも気づいていけるのです。

やらねばならない事はない

私達は毎日あれもやらなければ、これもやらなければならないという事を沢山抱えて生きています。幼い頃に比べて大人になるに連れて、そういったことが増えているようにも感じます。

確かに、子供の頃というのは考えなければならないことが少ないために、当然やらねばならないと思うことも少なかったのでしょう。

大人になると、子供の時と違って自分のことだけではなくて、家族のことや仕事のこと、その他様々なことをケアしなければいけないと感じているのです。

しかし、一度冷静になってそうしたしなければならないことについて、じっくり見つめ直してみると本当にしなければならないのかと疑問が出てきます。

例えば、主婦の場合には毎日家の中を掃除しなければならないとか、家族のために毎日手料理を作ってあげなければならないという思いがあるかもしれません。

それをしないならば、自分の主婦としての役目をまっとうできなくなってしまうと考えるのかもしれません。しかし、主婦の役目と自分の心が穏やかでいられることのどちらが大切なことかを考えてみれば、結果は明らかです。

無理して、主婦の義務と責任を果たすことに執着する必要はないのです。疲れていたら今日は掃除するのやめよう、食材がなければ今日は出来合いのもので済まそうでいいのです。

一番大切なのは、自分の心の平安です。無理をして心が乱されてしまっては役目を果たしたところで何の得にもなりません。

心の平安をいつも第一の目標にしている人は、やらねばならないことはそれほど多くはないはずなのです。なぜなら、たくさんの義務と責任を持っていたら、それだけで心の平安を得ることは難しくなってしまうと知っているからです。

つづく

自己概念を手放す その2

昨日のつづきです。

嫌いなものは嫌いなままでいいという気持ちが、今まで培ってきた自己概念を変えたくないという思いだというお話しをしました。

このお話しはとても大切なので、このブログでも今までに何度となくお伝えしてきたつもりです。そして、本当の癒しとは、そうした宝物のように自分が守り続けている自己概念、自己イメージを手放して新しい自己というものを確立していくことなのです。

もっとも大切なことは、そのようにしていくことを除いては幸せへの道は閉ざされたままになってしまうということをしっかり理解することなのです。

今この瞬間の自分という自己像、この私というものが自分自身を癒していきたいと思っているわけです。ところが、それは自己概念を変えずにということを前提としているのです。

だから表面的に癒しが進んでいっているように見えたとしても、実は本質的な癒しは進んでいないと思ったほうがいいのです。

自分を癒したいという気持ちはすべての基本ですが、自分自身の力ではそれは無理なのだということを悟ることが重要なのです。

自分の力を使おうとすれば、それはすでに自己概念の中で癒しを進めようとしてしまっているということになるからです。

ここでお伝えしていることは、半端な気持ちではなかなか受け入れることは難しいはずです。相当に思い切りのいい決意を必要とするはずです。

そしてこの自己概念を亡き者にするのではなく、その代わりになる新しい自己を育てていくということです。

その結果、本来の選択をするという状況に持っていくことができるのです。二つの選択肢ができるということです。そして、その先にこそ自分を本当に幸せにするための癒しの道が続いているのです。

自己概念を手放す

時々みなさんにお話しすることなのですが、大抵の人が嫌いだと思っているゴキブリを例にあげたお話しです。

ゴキブリなんて見るのもいやだと思っている人は沢山います。そんな人たちに、心の底からそのゴキブリを頬擦りするくらい好きになる方法があるとしたらどうしますか、と聞きます。

そうすると、ほとんどの人がそんなことは必要ないと答えてくれます。たった一錠の薬を飲むだけでいいと言われても確実に断ると思います。

あんな気持ちの悪いゴキブリを好きにならなくてもいいという気持ちが強いということです。でもよく考えてみると、何かを恐れたり嫌ったりするより好きでいる方が気持ちよく生きれますね。

だったらなぜ嫌いなままでいいと思うのでしょうか?ゴキブリに限らず、周りにいる人の中で絶対に好きになんかならなくていいと思えるような人はいませんか?

嫌いというのは拒絶からきます。拒絶は恐怖からくるのです。好きという感覚は勿論愛ですね。つまり、嫌いなままでいいと言うのは、愛よりも恐怖を取ると言っていることになるのです。

そうまでして嫌いなままを選ぶ本当の理由は、それが嫌いだという自分の気持ちを大事にしたいということなのです。

ゴキブリを嫌いという気持ちを正当化しておきたいということです。あんな気味悪い生き物を好きになんてなったら自分が可愛そうだくらいに感じているのです。

自分の中にある自然な好き嫌いの感覚、あるいは正不正、善悪、その他様々な信念信条、ルール、考え方などそういうものを変えたくないのです。

自分を作り上げているそうした諸々の要素を変えるつもりはないと思っているのです。その中心にあるものが自己概念、自己イメージというものです。

私達は誰であれ生まれてから長い時間をかけて培ってきた自己概念が正しいと思いたいのです。だから、それを手放そうとなど全く考えも及ばないわけです。

ゴキブリが嫌いという自分の感覚のままでいいというのはそういうことなのです。しかし、本当の心の癒しというのはそうした自己概念を手放すことがどうしても必要なのです。

つづく

未来への準備

子供の頃、夜寝る前に明日の時間割を調べて、ランドセルに教科書などを入れておくということをやっていたのですが、それは多分親の言い付けがあったからだと思います。

親は忘れ物がないようにとの気配りからそのように言ったのでしょうね。朝の慌しい時間に急いで時間割を揃えるとどうしても何かを忘れてしまう可能性が高くなるからです。

このように、私達は明日のことや一週間後のこと、一ヶ月先や一年後など、未来を予測して準備をするということを日々繰り返して生活しています。

こうした未来の準備というものを楽しみながらする場合はいいのですが、自分の不安感を鎮めるためにということになると、少々問題が生じてきます。

極端な場合には、これから起きるかもしれないと思われる未来のことについて、最悪な状態ばかりをイメージして、それに対処しようとして現在の生活がままならなくなることがあります。

今心配しても何の足しにもならないようなことを常に頭の中に描いては、気づかぬうちに自分の心を不安に陥れてしまうのです。

こうなると、今この瞬間の心がすべて未来の不安を解消することばかりに使われてしまうということになってしまいます。

それでは本末転倒です。現在という大切な時間は、この今を楽しむために使うべきですね。私達は楽しんだり、喜んだりするのは現在に心があるときがほとんどなのです。

明日の心配をずっとしている心は、実際に明日になればなったで、またその次の日の心配をしてしまうということに気づく必要があります。

未来への準備が悪いと言う事では決してないのですが、それは現在を充分楽しむということが前提であることがとても大切だということです。

それなくして、未来を心配するのであれば、その人は必ずその心配している未来においても、今と同じようにまた更なる未来を心配するに違いないからです。

訴えるという罠

私達は誰でも自分は正しいと思いたいものです。自分の感覚や考え方、自分が体験したことに対して抱いている思いなどは全部正しいと思いたいのです。

そしてその正しさを証明するための一つの手段として、それを自分以外の誰かに聞いてもらってその正しさを認めてもらいたいという望みを持っています。

サラリーマンの人たちが、仕事を終えたアフターファイフで同僚と飲むお酒の席などで、上司やお客などの悪口を言い合って気分を晴らすのはそういう理由があるのです。

幼い子供は、自分がどれだけ頑張ったのか、どれくらい我慢したのか、そういったことを親に分かって欲しくて、それを訴えようとするものです。

その中には、必ず自分以外の誰か、例えば兄弟とか近所の友達などがこんなひどいことをした、こういういやな事を言ったというようなことも含んでいることが多いのです。

それは、自分の正しさを証明するために、他人の正しくない言動を引き合いに出すことによってより明らかにしようとする狙いがあるのです。

自分ではまだきちっと自分を評価することができないので、親に正しい評価をしてもらって、それが自分の思いと同じであることを知って安心したいのです。

自分の正しさを証明するためには必ず比較として他人の不正を利用するのが我々人間の常なのです。そのため、不正をはたらく人をいつも身近に見つけようとしてしまいます。

何かを訴えたいという気持ちとは、こうしたことを内在させているということにいつも気づいている必要があるのです。

気づいてそれを手放していく練習をしなければ、いつまでたっても自分の周囲には正しくない、裁かれるべき人たちがウヨウヨしてしまう現実がやってきます。

誰かに話しを聞いてもらいたい、そんなの当然のこと、と気安く考えていると自分の人生を破壊していくことになるということです。

人に聞いてもらってすっきりするというのは、麻薬中毒患者が麻薬を打ってすっきりするのと大差ありません。

訴えたい気持ちに圧倒されそうになったなら、このことを思い出して自分独りでその気持ちをしっかり受け止めてあげることです。

それができるようになると、自分の気持ちを自分で処理できるようになり、周囲の人を罪人としたいという歪んだ知覚が正されていくことになります。

その先に本当の愛の自分の心を感じることができるようなる嬉しい人生が待っているはずなのです。練習あるのみですね。

身体の苦悩

身体の心地よさと心の気持ちよさがあるとき、どちらが自分にとってより大事でいつも気にしていることだったのか、よくわかってきたように思います。

それは以前から言ってもいることなのですが、身体志向の生き方をずっとしてきたということです。身体の具合が悪いと少しも幸せには感じないし、人生がうまくいっているとも思えないで来たのです。

そして自覚のないうちに、身体を苦しめる自分を裁いてきたのだと思います。身体が具合悪くなると、それを何とかしようとばかり思ってきたのでしょうね。

二年ほど前に、瞑想中に感謝の猛烈な嵐の中に入り込んでいたときに、実は首から肩にかけて鈍く重苦しい痛みに苛まれていたのです。

その身体の痛みを感じつつも、今思うと歓喜の中にいることができたということをもう一度しっかり思い出す必要があると思い立ちました。

身体の苦しみを許すことにすること。そして、身体の苦しみに焦点を置くことのないようにすればいいだけのことなのだと分かってきました。

心の平安や気持ちのいい状態、そして愛の状態よりも本当に自分が望んでいることはないとはっきり分かれば簡単なことなのです。

少しずつ、身体の具合が悪くてもそれに翻弄されないでいられる心の領域というものがあることが分かってきたのです。

まだまだその部分はとても小さくて、ちょっとした身体の苦痛に忘れさせられてしまうのですが、それでも常にあるということは分かってきました。

身体を健康にすることで幸せになるのではなくて、幸せになっていく過程において自然と身体が健康になっていくということです。

いつもこのことを忘れないようにすることにしようと思います。そうやって練習を重ねていくことでいつも心の中心に意識を持っていくことができるし、身体に翻弄されない毎日を送ることができるようになるはずなのです。

本当の幸せだけを目指す

我々はとにかく安心したがっているのです。誰かに愛されて、必要なものを手に入れて、危険から回避して、戦いに勝って、なんであれ安心したいのです。

それはまさしく、麻薬中毒患者が充分な量の麻薬を手に入れて、にんまりとしてこれで当分大丈夫と安心するのと何の違いもありません。

これが幸せだと勘違いしてしまっているので、絶対に幸せにはなれるはずもないのです。エゴが提供してくれるという幸せとは所詮こんなものなのです。

こんな幸せとは絶対に呼べないような一瞬の安心を目指してはいけません。それは麻薬に取り込まれて人生を破壊するのと同じ事だからです。

どんなに努力しても、どれだけ真剣に頑張ったところで、そうすればするほど幸せからは遠ざかって行ってしまうことになるだけです。

なぜなら本当の幸せに向かう方向とは真逆に向かって突き進もうとしているからです。何を差し置いても、まず自分が目指しているものは幸せではないと気づく必要があるということです。

本当の幸せとは、継続的にいつまでも安心していられるという安定した思いであるのです。それは、先に述べたような一時しのぎの安心とは全く別のものなのです。

それは自分の心にある愛を実感しなければ決して得ることのできないものです。愛の目で周りを見ることができなければ、自分はいつ傷つけられるかもしれないと怖れていなければならないことになります。

それでは、どんなものを手に入れたとしても、誰に守ってもらえるとしても本当の心の平安はやってこないのです。

愛の目は周りに自分を傷つける人を見ることができません。その状態こそが本当の心の平安であり、それを目指すことをおいて他には何もないということを忘れないことです。

異なる知覚

私達はみんなでこの世界を共有していると思い込んでいます。地球上には様々な国があり、そこには様々な人たちが暮らしています。

しかし実は誰一人として、自分と同じものを共有している人はいないのです。なぜなら、私達一人ひとりが認識しているこの世界というのは、それぞれが持っている知覚によって出来上がっているからです。

全く同じ知覚というのはこの世界にはあり得ません。なぜなら、みんな自分という存在は他人とは違うというように知覚しているからです。

自分の知覚によってこの世界が違って見えるという経験は誰でも一度や二度しているはずです。大好きな人にプロポーズされたら、その人は嬉しくて世界がばら色に見えるかもしれません。

このばら色に見えるというのは一種のたとえですが、実際に見え方が異なるためにそのような表現ができたのです。

ヒーリングや催眠療法などによって、一時的にぐんと知覚が変わる場合があるのですが、そのようなときにも、部屋が明るくなったみたいと言われるクライアントさんもいらっしゃいます。

極端な例としては、境界例のような精神疾患のあるクライアントさんでは、全く異なる二つの知覚を持っていて、それが交互に出現するのです。

一方の知覚では、周りの人がとても親切でやさしく、嬉しいと感じてるとしても、もう一方の知覚に変わったその瞬間に周りは何てひどいやつらばかりなんだと見えるわけです。

本人としては、自分のその時の知覚がすべてなのでどうしようもないのです。私達は誰しも自分の知覚が正しいと信じているので、それを疑ってかかるということをしないのです。

この世界に憂うことがあったとしても、この世界を変えようとする必要はありません。それを作り出している自分の知覚を変えればいいだけなのです。

この世界を作り上げているそれぞれの人の知覚は、概ね愛以外のいやなものばかりを見るようにできています。そしてそれを知覚して反応することで、益々自分の知覚が正しいと証明してしまうということです。

愛以外の何物にも反応しない知覚にしたいものですね。

操縦する楽しさ

子供の頃というのは、比較的素直なままでいられるので、その人の心の奥に潜んでいる様々な欲望を見せてくれるものです。

男の子の場合には、電車の運転手になりたいとか、飛行機のパイロットになりたいなど、乗り物の運転に興味を向けることが多いですね。

私も幼い頃にクルマの運転がしたくて仕方ありませんでした。職業としてという思いは全くなかったのですが、とにかく父親がしていることは自分もしたいのです。

これは実は乗り物というものに興味があるというよりも、そういう大きなものを自分の意のままに操縦することによって、征服欲を満たすという面があるのかもしれません。

小学生のころから、父親の実家にいくと原付のバイクを乗り回していたし、その実家の近くの学校の校庭などでクルマを運転させてもらったりしていました。

自分の身体とは比べ物にならないくらいに頑丈で速いクルマを自由に運転する感覚はその頃の自分にとって何よりも心を満たすものでした。

そうした子供の頃の思いというのは、いつまでも残っているものです。男性のクルマ好きというのは一般的ですし、お金がなくても無理して手に入れようとするくらいに魅力があるのです。

テレビを見なくなった今でも世界最高峰のクルマのレースであるF1の番組だけは見続けているのもそうした思いが残っている証拠だと思います。

しかし、同時にそうした男の子が持っている操縦する魅力、征服する魅力というのはまさしくエゴの本質だということにも気づいています。

エゴは自分の能力を高めていくことに喜びを感じるからです。しかし、これを否定する必要もありません。否定するかわりに、自分の愛で自分の中の子供にそれをさせてあげることを許すということです。

本当に大切なことは愛だということをいつもしっかり忘れずに持っているなら、後は何をしようが構いません。ただ、きっとそのうちに愛ではないことに魅力を感じなくなっていくのだろうと思っています。