気負わない心

私達は誰かと勝負をすれば勝ちたいと思うものですし、何にせよいい結果を残したいといつでも願っています。

そんな時、往々にして体に力が入ってしまったり、力みすぎて本来の自分の力が充分に出し切れなくなってしまったりすることがよくありますね。

よく無欲の勝利というような表現をすることがありますが、どうせ勝てないから適当にやろうと思って気楽さが出てくると、意外にもいい結果を出すことがあるというようなことです。

以前会社員だった頃に、「大澤杯争奪ボウリング大会」というのを職場のみんなでやっていたことがありました。

といっても数ヶ月に一度くらい、みんなでわいわいしながら遊んだ後、表彰式と称して飲み会に流れ込むような適当なものでした。

でも優勝すると、オフィスのその人のデスクに次回までの間ずっと優勝トロフィーを置いておくことができるので、目に付くしそれなりに誇らしいのです。

あるときに腰を痛めていて、とてもボウリングをやるような状態ではなかったのですが、主催者だったこともあって無理やり参加だけしたことがあったのです。

ところがなんと優勝してしまったのです。その時に本当に思い知ったのです。腰が痛くてとても高得点を望むなど考えもしない状態で投げて、きっと気負うことがなくなったのでしょう。

普段よりもボールのスピードも緩くしか投げられなかったのですが、コントロールがよくて高得点を出してしまったのです。

スポーツ選手などでも、あまりに完璧に調子がいいと期待してしまって思ったような結果が出せなかったり、逆に体調がイマイチと思ってたりすると案外すばらしい結果を出したりするらしいですね。

気負いというのは、自分が結果を出してやるという意気込みから来るのです。それよりも、むしろみんなで楽しみたいというほうに意識が向かえば、きっと気負いは少なくなるはずです。

愛は勿論気負うことなどあるはずがありません。いい結果が出せるかどうかは別として、気負いの少ない愛の心で物事に向かうことができたら、きっとその時間を満喫できるはずです。

毎日を気負わない平静な心で過ごしたいものですね。

それぞれのペース

このオフィスの近くにある井の頭公園に行くと、たくさんの人がペットの犬を連れて散歩している姿に出会うことができます。

飼い主さん自身の散歩も兼ねているのかもしれませんが、皆さん愛犬の健康のことを思って散歩に連れ出して来ているのでしょうね。

犬の種類にもよるのかもしれませんが、飼い主さんの歩くペースにぴったりと付いて歩く犬もいますし、逆に全く自分のペースで道草をくったりしている自由な犬もいます。

穏やかな飼い主さんは、そんな犬の勝手な行動をとがめるでもなく、犬が何かに気を取られて立ち止まったりしても、それをじっと優しく待って見ているだけです。

あくまでも犬が主体となって、散歩をさせてあげられている飼い主さんの姿はとても愛情溢れる感じがして、見ていて気持ちのいいものです。

しかし、時には犬を強引に引っ張って飼い主さんの思うとおりに連れて行こうとする光景を見ることもあります。

飼い主さんが何かの用事があって急いでいるのか、自分の早足が優先の散歩なのか定かではありませんが、そうした事情があるのだと思います。

お母さんが幼い子供と買い物などに出かける場合にも、お母さんの気持ちが穏やかであると、子供が靴を履くのにのろのろとしていても気にならないのです。

でも逆にお母さんが急いでいたりして時間を気にしなければならないようなときには、子供に早くしなさいと言って叱ってしまうこともあるかもしれません。

そうやって叱られた子供はそんなちょっとした親の言葉や態度からもひどく傷つけられたりしてしまうことがあります。

人は往々にして、心の余裕をなくしたときには、相手のペースというものを無視してしまうことになってしまうものですね。

そう言うときほど、相手を愛の目で見つめて相手のペースを受け入れてあげられる心でいられるようにしたいものです。

許しは対等なもの

私達は誰でも間違いをしでかすものですし、過ちを犯すこともありますね。人間として生きている限り、避けて通れるものではありません。

そしてそうしたことの中には、自分のことであれ他人のことであれ、許せるものもあればそれは許せないだろうというものもあるわけです。

誰しも許してもらえないということは、罰を与えられて当然と思われているのですから、その状態はとても辛いものですね。

もしも、自分がどんな間違いを犯したとしても、絶対に裁かずにそれを許してくれる人が一人でもいるとしたら、どんな感じでしょうか?

それを想像すると、本当に心が楽になって救われたような気持ちになるはずです。それはまるで無邪気な赤ちゃんのようなものかもしれません。

生まれてきてそこにいてくれるだけで感謝される、何をやらかしたとしても完全に許してもらえる存在というのは赤ちゃんくらいかもしれません。

しかし、そうした何でも許してくれる天使のような人を自分の身近に作ることができるのです。その方法はいたってシンプルです。

それは、自分がその人を完全に許すということです。その人を丸ごと許しの目で見つめて、決して裁いたりしないということができたら、その人は同じように自分を決して裁かない天使になるのです。

なぜなら、許しは互いに対等なものだからです。自分は相手のことをかなりのレベルまで許すことができるが、相手は少しのことでも自分を裁くなどということはないということです。

勿論その反対も同様にしてあり得ません。このメカニズムは容易に説明することができます。自分が相手からきっと許してはもらえないだろうという思いを持つということは、相手を裁いていることになるのです。

相手を裁くからこそ、同じように相手から裁かれてしまうという現実を起こすことになるのです。裁くのも許すのも一方的であるということはありえないのです。

自分のそばに何でも許してくれる天使が欲しいと願うなら、自分が相手を信頼してまず相手を許すことです。そうすれば、必ず同じだけの許しを受け取ることができるのです。

傷つきやすい仲間たち

先日、マグカップを洗っているときに、手が滑ってシンクに落として欠けてしまいました。そのカップは長い事セッションの時に使っていたものです。

実は欠いてしまう数日前から、何となく茶渋が取れにくくなったし、もう随分と長い事使っているし、そろそろ新しいのでも買おうかなと思いだしていたのです。

今まで洗っていて洗剤で手が滑って落としてしまったことは何度もあったのですが、全く欠けるようなこともなく丈夫でいいなと思っていたのでした。

それなのに、新しいのを…という考えが浮かんでまもなくそういうことになってしまいました。以前にもどこかで書いたことがあったのですが、私が普段使っているモノはそういうことが多いのです。

冷蔵庫を買い換える時にも似たようなことがありました。もう少し大きめの物を買いたいなと思い出したときに、急にその冷蔵庫から異音が出るようになったのです。

結局、それが買い換えることを余計に促す結果となったのですが、どうも違うものを自分が欲しいと思うと何かを起こして訴えてくるように思えるのです。

4年くらい前にクルマを買い換える時は大変でした。新しいクルマを物色し出した時には、悲鳴のような異音が運転中に聞こえるようになりました。

ああ、またこういうことが起きてると思いながらも何とかやり過ごしていたのですが、ディーラーに下取りのために持って行くという最後の日にびっくりすることが起きたのです。

今まで一度も起きたことがないのに、急にトランクが開かなくなったのです。トランクに入れなければならない大きめの荷物があったので困りました。

そしてしばらく私を困らせた末に、何事もなかったかのように普通に開いたのです。ディーラーに行く運転中に、今までありがとう、やさしいオーナーさんにもらわれるから安心してねと声をかけて、ダッシュボードやシートを撫でてあげました。

所有している私にお払い箱にされるんだと思うと、傷ついてしまうのかもしれないなと思うのです。ちょっと切ない話しですが、その繊細さはきっと私自身の投影なんだろうと思っています。

印象的な昔の映画 その4

高校一年生くらいの頃ですから、恐ろしいことにもう40年も前に見た映画のことですが、とても心に残っているシーンがあるのでご紹介します。

その映画は、ヨーロッパの国のどこかでかつて、狼によって育てられた男の子が森で見つかり、ある研究者のところに預けられて人間としての教育を受けるという、実話を元に作られたものでした。

その少年は赤ちゃんの頃に森で捨てられ、奇跡的に狼たちによって全くの野生の中で育てられて、10歳くらいまで成長したところを発見されたのでした。

ある学者がそのことを聞きつけて、人としての躾けをするために一緒に生活をしながらも、様々な葛藤を経験するのです。

まず二足歩行を教えるのですが、すぐに慣れた四足で歩こうとしてしまったり、食事をするときに口から直接食べないように教えたり、とにかく身の回りのことの何から何までを教え込もうとして本当に両者が格闘するのです。

その学者は躾をするにあたって、言うことを聞かせるために、その少年がルールを守らないときには罰を与えることを思いつきます。

ただそれがどの程度の効果があるのか、よく分からないのです。その時に、その少年が人間が誰しも持っている罪の意識というものがあるのかどうかを確かめようとします。

その方法とは、少年がルールを破っていないにもかかわらず、狭い部屋に閉じ込めてしまうといういつもの罰を与えてみるのです。

これがものすごく心が痛むシーンなのです。学者も心を鬼にして挑むのですが、少年はルールを破ってないにもかかわらず罰を与えられたことに怒りを感じて、いつまでも閉じ込められた部屋の中から扉を叩き続けるのです。

ルールを破ったときには、その部屋に押し込まれても黙っていた彼が、自分は何も悪いことをしてないのにという必死の抗議行動をしたわけです。

この少年の怒りが、充分に彼には罪の意識というものがあるという証拠だと分かったときに、その部屋から出してあげて、思いきり抱きしめてあげて何度も謝るのです。

狼が罪悪感を持っているのかどうか分かりませんが、その少年は野生児であるにもかかわらず、人と全く同じ罪の意識を持っていたということです。

私達の苦悩の根源は、すべてこの罪の意識、罪悪感にあるのですが、それはもうすでに生まれたときから備わっている根深いものだということが分かりますね。

諦めたとは諦めていないということ

子供の頃というのは、とにかく自分ではお金を稼ぐことができませんので、何か欲しいものがあった場合には通常は親にねだることになりますね。

いくらせがんでも買ってはもらえないと分かったときに、その欲しかったものを諦めるわけですが、本当に諦めがついたときにはもうケロッとしてその事に興味もなくなってしまいます。

したがって、また他のことに興味を向けて、今度はそのことで頭がいっぱいになるのです。もしも、口先だけで諦めたと言っている場合には、子供の態度はきっと何か不機嫌だったりするはずです。

手に入れたいものが単純なモノの場合にはいいのですが、それが心の問題であるとそう簡単には済みません。

例えば、親に自分の気持ちを分かって欲しいという場合には、何度訴えてもわかってもらえないという時には、表面ではもう諦めたという状態になるはずです。

なぜなら、そうした諦めをしないでいると、いつまでたっても自分の心が苦しい状態のままで全く報われなくなってしまうからです。

そうして諦めた後は、もうあまり自分のことを親に話そうとはしなくなってしまいます。しかし、こんな大切なことを本当に諦めることなどできるでしょうか?

本質的にはほとんど無理なはずです。従って、自覚の上では諦めたことになってはいるものの、本心では決して諦めなどついてはいないのです。

もしも、本当に諦めがついたという場合には、わだかまりが残らないために、今までどおりごく普通に親に話しかけられるはずですね。

この場合には手放したという表現の方が適切かもしれません。自分のことを分かってもらえなくても、自分は何とかやっていけるという心の状態になったということです。

しかし、子供の幼い心の状態では、そんな手放しは到底無理なのです。結局、諦められてはいないということです。

それが、親に対する反抗的な態度になったり、全く口を開こうとしない無視の状態になったりしてしまうということです。

これは子供の場合だけではなく、大人になっても充分にあり得ることなのです。諦めたと思っているものについて、じっくり自分の気持ちを確かめてみて、そのことに何のわだかまりも残っていなければ、それは確かに諦めがついた、手放したということになります。

しかし、何らかのわだかまりや思い残しのようなものを感じるのでしたら、それは心の底では決して諦めてはいないと気づく必要があります。

なぜなら諦めがついていないと、その不満や思いが何らかのネガティブな要素となって、毎日の自分の生活に悪影響を及ぼす可能性があるからです。

印象的な昔のテレビ番組 その3

それは2時間ものの日本のテレビドラマだったと記憶しています。物語の詳細はほとんど覚えていないので要所だけをお話ししたいと思います。

あるご夫婦のお話なのですが、歳の離れたご主人が奥さんのことをとても大切にしている仲睦まじい絵に描いたような二人なのです。

ところがご主人にはある暗い過去があり、それがふとしたときに彼の表情に出てしまうのです。それは、決して最愛の妻には言えないような重く苦しい過去の体験なのです。

その体験とは、ある大手デパートの高層階で火災があり、そこに居合わせたご主人は煙と炎に巻き込まれながらも命からがら窓からはしご車に飛び移って命拾いしたのです。

パニックになっていたご主人が我れ先にと窓から逃げようとしている様子が、全国放送のニュースで映っていたのです。

そんな辛い過去のことを吹っ切るように、その後の人生では素敵な女性と知り合い、結婚して幸せな生活を送っていたわけです。

ところが、あるきっかけでその事件の時の映像をもう一度見たときに、とんでもない場面が映っているのを知ってしまったのです。

それは、窓から助けを求めているご主人の後ろから、彼にしがみついて助けを求めているある女性がいたのですが、それが今の奥さんだったのです。

ご主人は自分が助かりたいという一心でその女性の手をふりほどいて蹴飛ばしたりしていたのです。それからご主人の果てしない苦悩が始まったのです。

自分の行動に対する罪悪感や自己嫌悪感、そして愛する奥さんにばれてしまったら嫌われ、蔑まれ、見捨てられてしまうに違いないという恐怖。

決して自分を許してはもらえないだろうという思いが彼を責め続けたのです。このドラマの結末がどうなったのかは覚えていないのですが、これはとても考えさせられる問題です。

みなさんだったらどうするでしょうか?絶対にその秘密を言わずに墓場まで持っていこうとするのか、あまりの苦悩に耐え切れずに告白してしまうのか、どちらにしても悩ましいですね。

しかし、自分が本当に相手を非難するのではなく許しの目で見つめることができたら、どんなことがあっても相手も必ず自分を許してくれるはずなのです。

つまり、相手が自分を許すかどうかは自分次第だということなのです。このことを信じることができるなら、そして自分が相手を許す気持ちになれるなら、正直に告白すべきだということです。

そうしたら必ず自分も相手から許してもらえ、すべての苦悩が消えていくのです。人は誰でも罪悪感から、誰にも言えない何かを隠しもっているものです。

勇気を持って許しを請うことで人生を変えていくことができるということを、体験を通して証明したいものですね。

ゴールデンはつまらない

あれほど依存していたテレビから、どうしたわけか最近抜け出した生活を送るようになりました。テレビは以前として大好きですが、その時間を他の目的のために使うほうが快適だということに気づいたからです。

それでも自分にとっては、人生のほとんどをテレビに捧げてきたようなものですので、テレビ番組へのこだわりが今だに少し残っています。

子供のころは別として、大人になってからは好みの番組は大抵深夜に放送されていました。今考えると、それは多分製作する側がある意味捨て身で作っているという感じが伝わってくるからだと思います。

テレビ局側としても、深夜の番組であればゴールデンタイムの番組に比べて、視聴率が著しく低いため、失敗してもダメージがあまりないという理由なのでしょうね。

作りたい人が危険を犯して本当にやりたいことをやってみる、そういった色合いが深夜番組には息づいていました。

それはリスク回避をせずにどんどん体当たり的にやっていく、無防備さとでもいうものがあって本当に面白いと思えるものが出来上がったりするわけです。

ところが、視聴率を稼がねばならないゴールデンタイムの番組は、絶対に失敗は許されません。テレビ局の経営に直接大きな影響を与えることになってしまうからです。

そのために、計算し尽された誰にでも無難で面白い、多くの視聴率を予想できる番組作りをすることになります。

国民の平均値の期待に応えるような番組になってしまうため、自分としては興味を持って見ることができなくなる傾向にありました。

大好きな深夜番組の人気が出てくると、残念ながらゴールデンに進出して、その責任に潰されて結局つまらない番組になってしまうのを何度も見てきました。

それは何となくドキッと心に入ってくるような新鮮さがなくなってしまうし、作り物ではない意外性のようなものも消えてしまうのです。

防衛とはそういうものですね。何につけ奥深い魅力がなくなってしまうのです。それは人の場合でも同じこと、無防備な人のほうが愛に満ちてやさしい魅力を放っているのです。

先立つものはお金という思い込み

うっとうしい梅雨の季節になってきました。こんなときには、黙ってじっと家の中で過ごそう、それが一番お金を使わなくて済むしと思ったりします。

大した目的もないままにただふらっと外出しただけで、気がつくと思わぬ出費をしてしまうということがよくあるからですね。

そんなふうに、私達は何かしようとするとまずお金がかかるという思いを持っています。徒歩で行けない場所に移動するだけでも交通費がかかりますね。

何かの技術を習得したくて習いに行こうとしたらお金が必要です。若い人で留学したいけど、お金がないから我慢してるという人は沢山いるでしょう。

とにかく、これから自分の望むことに突き進んでいきたいと思っていることがあったとしても、先立つものがないと無理と思ってしまっています。

しかし、奇跡のコースの教えにもあるように、自分の心に決心をさせることで、それに必要となるものは必ず手に入ることになるのです。

それはお金だけではなく、人材や場所や機会やありとあらゆるものが自分目指して押し寄せてきます。私はちょうど10年前に会社をやめたときに、それをいやというほど経験しました。

昨日、このオフィスまで来て下さった田中百合子さんのお話を聞いていても、そのことをつくづく教えていただきました。

彼女は誰に教わったわけでもないのに、若い頃からこうしたいという願望こそが、道を切り開いて行くということを知っていたようなのです。

奇跡のコースを学ぶために、アメリカにある特別な施設に一年泊り込みしたのですが、一切のお金を必要としませんでした。

さらに、コースの翻訳にとりかかるさいも、奇跡のコースの米国での翻訳プロジェクトから資金をもらっていたそうです。

お金は必要なものの一つではありますが、自分が稼がねば手に入らないという思い込みを手放しさえすれば、必要なだけのお金を自分の望む目的のために使うことができるということです。

お金がないから何もできないと悲嘆しているという自覚がある人は、是非このことを心に留めて決意することを実践してみて下さい。必ず道が開けてくるはずです。

田中百合子さん来る

「奇跡のコース」の学習をするようになったのが一昨年の9月ですから、もう少しで2年が経とうとしています。

当初、まだ日本では翻訳本が出版されていないので、原文(英語)で読まなければならないと思い込んでいたところに、個人で全文翻訳した方がいるというのを知りました。

その情報に飛びついたのは言うまでもありません。その方についての知識など全くないままに全文の翻訳を入手しました。

それ以来、その日本語版をずっと読みながら、時には英語版と照らし合わせながら奇跡のコースを学んできました。勉強会でもそれを利用させていただいています。

私にとっては、あれほど難解な、そして千ページ以上にも及ぶ大作をお独りで翻訳して、尚且つそれをネット上で公開している人がいること自体が全くもって奇跡だと思いました。

一体どんな人が翻訳してくれたのだろうとの思いを心のどこかに置きながらいつも読んでいるということを約二年続けてきました。

そして今日また奇跡的なことが起こりました。その翻訳者の方がこのオフィスにわざわざ来て下さったのです。

今日はセッションをすべてお休みにして、いろいろ翻訳秘話などを含めて奇跡のコースとの運命的ないきさつなどについてお話しをお聞きすることもできました。

田中さんは、私よりも年齢は上ですが、活動的で小柄なかわいらしい女性でした。思っていた通り、とても愛の深い方だということがすぐに分かりました。

日々の生活そのものが、まるでマザーテレサのような生き方をされてるのです。それでも少しも超人的な感じはせず、気さくなごく普通の人という感じでした。

今日このオフィスでご一緒できたのは、何かの縁なのかもしれないなと嬉しく思いながら、またこれからも楽しみながら奇跡のコースを学んで行きたいと思っています。