印象的な昔のテレビ番組

今から40年も前の確か中学生の頃に見ていたイギリスのテレビ番組がありました。それは、「電撃スパイ作戦」という名のちょっと異色な番組でした。

3人のスパイエージェントたちが仕事中にヒマラヤ山中に飛行機事故で墜落してしまい、そこで不思議な民族に治療を受けてから、気がつくと3人ともに超能力を持つことになるのです。

その超能力を駆使して、毎回様々な難問を解決していくというドラマなのですが、主人公たちのルックスのすばらしさもあって、毎週魅了されていました。

超能力といってもあり得ないくらいにすごいものではなく、3人の間でのちょっとしたテレパシーとか、身体能力が抜きん出るとか、記憶力がすごくいいなどなのです。

スーパーマンのように空を飛べたり、スパイダーマンのようにビルからビルへ飛び移ったリするというものではないために、ある意味その超能力にはリアリティを感じることができたのです。

また生まれついた能力ではないということも、そして何か本人たちが努力してそういう卓越した能力を身に着けたのでもないということが、自分にはとても気に入ったのです。

今でも時々思い出して、見てみたいなと思うことがありますが、なぜ当時あれほど楽しみな番組の一つであったのか考えてみました。

それはきっと、中学生、高校生の頃の自分が人よりも抜きん出た能力を持ったらいいのにという願望を、その番組の主人公たちに投影していたのだろうと思うのです。

勿論子供に限らず、大人であっても人は能力において他人よりも上回っていると分かったら、すごく嬉しいし誇らしい気持ちになれると思っているのです。

それも絶対に人には負けないような能力である必要があります。その番組の主人公の一人が女性なのですが、彼女は街ですれ違っただけのクルマのナンバーを後になって、思い出すことができました。

頭の中でコンピューターの画像処理でもしているような方法でナンバープレートを見れたのです。記憶力があまりよくない自分としては、なんとも羨ましい能力だなとその時思いました。

しかし、今はさほど自分の人間としての能力に期待するということがなくなりました。それは勿論、能力と自分の幸福感は全く結びつく事がないと断言できるようになったからです。

そして、よく思い出してみると、その主人公の3人とも、それほど幸せそうな毎日を過ごしていたような印象はありません。何か逆にその能力を持ったことで苦悩していたようにも思い出されます。

伝えようとする心

何かを相手に伝えようとして伝わらないと感じることはフラストレーションとなりますね。伝える目的は様々あるかもしれませんが、伝わらないことは心を落胆させてしまいます。

それは一体なぜなのかを考えてみたいと思います。それには伝えようとする、その意欲はどこからくるのか、何の目的があるのかを考える必要がありそうです。

まず初めに、伝えたいと思う理由とは、伝わって欲しいと思う気持ちから来ているということは確かなことです。

何が相手に伝わって欲しいことなのかと考えてみると、自分の気持ちだったり、自分の正当性であったりするわけです。

相手に伝わるということはそれを理解し、受け止めてもらえるということを想定しているわけですから、自分は今怖い、怒っている、悲しんでいる、不満だ、落胆している、嬉しい、などの心の状態を受け止めてもらいたいということですね。

そして実は女性に多いのかもしれませんが、伝える内容よりもただ伝えたいという気持ちそのものを受け止めて欲しいという願いもあることを忘れてはいけません。

一方、自分の正当性を受け止めて欲しいというのは、相手に認めてもらいたい自分の正しさ、あるいは自分のいい部分を誤解のないようにしっかり評価してもらいたいという思いです。

誤解されて不当な扱いや間違った評価をされては困るという思いがあるのです。いずれにしても、そういった思いが強ければ強いほど、伝えようとすることにも力が入るというわけです。

しかし、もう一つ相手に伝わって欲しいと思う事柄があります。それは、それが伝わることで、相手がいい気持ちになったり、楽になれることに繋がるような場合です。

つまり先ほどの理由が自分のことであったのに対して、こちらのほうは相手のことを思う気持ちが多く含まれているということです。

その時には、伝えようとする自分の気持ちも穏やかで、やさしい思いに満ちている感じがします。それは相手を思う愛の気持ちがベースにあるからです。

そしてその場合には、たとえ期待したように伝わっていないと思う場合でも、それほどの落胆というものを感じることはありません。

自分が相手に何かを伝えようとするときに、自分はどちらの気持ちが優勢なのかよく見つめてみることです。もしも、伝わらなかったことにひどくダメージを受けるようなら、自分を優先しているからだと理解することです。

100対0の原理

よく人はみな本質的に平等だから、あるいは対等だから50対50、つまりフィフティ・フィフティだねなどという言い方をします。

ある人とある人との1対1の人間関係があるとき、それがうまく行くこともあるしそうではない場合もありますが、その責任は互いに等しくあるということです。

どちらか一方だけにうまく行かない責任があるということもないし、うまく行ったからといって、どちらかの一人のおかげということもないということです。

どちらも同じだけの責任が託されているということですね。つまり、自分は半分だけ頑張れば後は相手の責任だということになるわけです。

双方の努力や責任を足す事で100%になると言っているわけです。しかし、それは本当の話でしょうか?

確かにその二人の関係を第三者的に客観視すれば、そのようなことが言えるとも思います。しかし、当人たちのそれぞれの立場から見るとそうではないと考えています。

AさんとBさんの関係に問題が生じているとした時に、もしもAさんがセラピーにいらしたとしたら、私はAさんにその関係がうまく行くかどうかは100%Aさんにかかっていると説明します。

もしも、Bさんがいらしたとしても、その場合にはBさんに100%かかっていると言うはずです。すべて、当人が持っている人間関係の行方は、本人が100%握っているということなのです。

それは、相手の本人に対する対応の仕方は、本人の相手への対応の仕方と同じになるからなのです。自分の対応がそのまま相手の態度に反映されるということです。

この原理が理解できれば、人間関係は100対0だという意味が分かっていただけるはずです。関係の良し悪しを相手に期待しないというように言い換えることもできますね。

もしかしたら、自分は最大限の誠意を持って相手と向き合っているのに、相手はいい加減な態度で接してくるのでどうしようもない、と思っている方もいるかもしれません。

そんな場合でも、100対0の原理は成り立つのです。それは、自分の自覚としては誠意を持って対応しているつもりであっても、心の底では相手を憎んでいたり嫌っていたりすることがあるのです。

そうすると、その部分が相手の自分への態度として反映されてしまうということです。この原理に例外はありません。

いつも相手が誰であっても、その関係を気持ちのいいものにしたいと思ったら、この100対0の原理のことを思い出して対応する自分の心を見つめなおして見てください。きっと、何か突破口が開けてくるはずです。

ラポール

10年前に催眠療法の勉強を始めたときに、真っ先に出てきたのがラポールという聞きなれない言葉でした。

ラポールとは、セラピストとクライアントとの間の信頼関係のことを言うのです。催眠療法に限らず、セラピストとクライアントとの間の信頼関係がなければ、どんな心理療法であってもうまく行かないのです。

そのため、まず初めにラポールを築くことが各種心理療法を行う上での基本的な前提条件であると習ったわけです。

特に、催眠療法においては、クライアントの立場は目を閉じて誘導を聞いていきながら、催眠状態というある種特別な精神状態になるということで、不安を感じやすいのです。

従って、セラピストとの間でラポールを築く事がとても大切な要件になるのです。つまり、信頼しあうことでその不安を安心に変えることが重要なことなのです。

ラポールを作るうえで必要となるのが、相手の気持ちを受け止める姿勢であったり、やさしい愛の眼差しであったりするわけです。

このようにしてラポールを作るというと、何となく技術的なテクニックの要素があるように感じてしまうかもしれませんが、実は誠実な気持ちと愛があればいいだけなのです。

出来る限りを尽くして、クライアントの気持ちを受け止めると同時に、傷ついた心をやさしく包むような慈愛の気持ちです。

そして、よく考えてみるまでもなく、そうしたことはごく普通の人間関係の中でも全く同じことが言えるはずですね。

相手を大切に思う気持、いたわるような態度、そういったごく当たり前の心をもって周りの人と接することで、そこでもラポールを築いて円滑な人間関係を作ることはとても大切なことなのです。

沖縄タイム

みなさんは「沖縄タイム」という言葉をご存知ですか?自分は、今からちょうど10年前に沖縄在住の友達ができて、その友達の沖縄の家に遊びに行ったときにその言葉を知ることになったのです。

ある時、その友人の奥さんが夜7時からコンサートに行くという日があって、本人はそれをとても楽しみにしているようでした。

ところが、夕方になっても奥さんはなかなか出かける支度をしないのです。友人たち夫婦は自宅で癒しのショップをやっていて、普段は夜遅くまでその仕事をしています。

私の方が気になって、コンサート何時から?と聞いたりしていたのですが、6時になっても7時になっても彼女は出かける気配がないのです。

あまり聞いてもいけないので、今日はもう諦めたのかなと思っていたら、確か8時過ぎくらいになって彼女の友達に電話をして一緒にこれから行くというのです。

私はあっ気にとられて呆然としてしまいました。本当に手が離せないくらいに忙しくて、仕方なく今から行くというのなら分かります。

しかし、彼女は私が見る限りはいつもと同じように仕事をしていただけでした。最初から7時からコンサートがあると分かっていたのですから、早めに準備すれば時間に間に合ったはずでした。

これが「沖縄タイム」というものらしいと友人に聞いて分かったのです。つまり、約束の時間を忘れているわけでもなく、さりとてその時間に間に合うように行かれないわけでもないのに、時間をずらして行動するのです。

個人的には時間にルーズというよりは、計画的に約束の時間よりも遅らせて行動しているという印象を受けました。

本当に時間にルーズであるなら、○○時という約束の仕方はしないはずです。 そういう文化だとは言え、誰も得するわけでもないと思うのです。

どうしてそんなことが沖縄では当然なのか聞いたのですが、生まれたときからの慣習とのことで特別な理由は聞くことができませんでした。

誰かが遅れてもみんな寛容で怒る人は一人もいないというのは確かにいいことかもしれませんが、それにしても不思議なことだと今だに思っています。

「沖縄タイム」ではないにせよ、誰かが遅刻してきたとしてもそのことを笑って受け止められるような穏やかな心ではいたいものですね。

感謝ができない

自分は幼いころからずっと感謝の気持ちを感じることができないままに人生を送ってきました。それは人並みではないなという自覚があったのです。

ですが、それで何か特別困るわけではないため、それはそれで仕方ないと適当に思うようにしていました。

ところが、あるときに感謝を感じられないでいる理由がはっきりと分かったのです。それは自分は本質的には誰にも助けられていないという思い込みでした。

何か困ったことがあったとしても自分独りで解決できるし、たとえ少々困ったとしてもそんなちょっとしたことを助けてもらったとしても、それを助けられたとは認めないとしていたのです。

人は一人では生きられないということも頭では分かっていましたが、自分の中に根強くある自立心というものが、「誰の助けもいらない!」として頑張っていたということです。

誰にも助けてはもらってないと思い込んでいるわけですから、それは感謝の念が生じることがなくても不思議なことではありませんね。

スポーツ選手とか、他の著名人などが何かの賞を受賞したときなどに、「これも応援してくださったみなさんのおかげです。」のようなことを言いますね。

そういった言葉を聞くたびに、何だかうそ臭い言葉だなという思いがしていました。本当に頑張ったのは本人なのにという気持ちが強かったのです。

そういう感謝の言葉を聞くとどうも居心地が悪いというか、偽善の言葉のように思えてしまうということがずっとありました。

それが自分は助けてもらってもいいんだという気持ちになれたときに、とても大きな感謝の気持ちというものを感じることができたのです。

その助けを求める素直な気持ちは、戦闘態勢を解除して無防備になるような心の状態と言うこともできます。無防備は愛を発動させるのです。

そのために、愛の一つの形である感謝という感覚になることができるというわけです。もしも、感謝の体験が少ないなと自覚している場合には、そうした助けを求める純粋な気持ちを見つけ出して下さい。きっと、今まで感じたことのないような感謝がやってくるはずです。

自分を監視する意識

私達の心の中には、意識しているかどうかは別として、自分を行動させる意識とその自分を監視している意識とがあります。

カラオケに行って、大好きな歌を歌わせている意識と、上手に歌えているかなと監視している意識があるということです。

自分の意識を大きく分けるとこのように二つの意識に大別することができます。この二つの意識が二人三脚のようにバランスを取りながら生活しているわけです。

この自分を監視する意識というのは、きっと三歳くらいから生まれて年齢と共に次第に成長していくのですが、その教師となるのが親などの周りにいる大人なのです。

幼い子供にとって親に叱られたり注意されたりした経験、あるいはちょっとした親の心の変化などを敏感に感じ取ったりして、そういった一つひとつの経験が自分への評価だと見るのです。

そしてそういった積み重ねをもとにして、自分を監視する意識というものが出来上がるのです。親の自分への態度がいいにつけ、悪いにつけそうした意識のもとを作るわけです。

従って、親からの干渉がとても大きかった場合や、いつも口うるさく注意されていたような場合には、それに比例して自分を監視する意識も大きくなる傾向にあります。

そうしていつも自分の言動を厳しい目で監視して、作り上げてきたルールを守らそうとするのです。ですから、自由を感じづらい、束縛感の強い人生になりがちです。

大人になって親から離れて、精神的にも独立していると思っても、すでに自分の心の中にそういった親二世とも言える監視役ができてしまっているため、いつも何となく居心地が悪いのです。

こういった場合の解決策は、まず自分を監視する意識の存在をはっきりと自覚することです。そうしておいて、その意識の気持ち、思いを充分に受け止めて認めてあげることです。

そうすると、なぜそんな監視役が必要になってしまったかということが分かってきます。それを感情と共に洗い流してしまいましょう。

そうやって少しずつ、監視する意識から解き放たれていくことができます。この監視役はいなくなることはありません。

その代わり上手に付き合っていくことで利用価値のある大切な意識として共に生きていくことができるようになります。

自分の人生に自由を感じられない、何となく縛られている感じがする、どうも無邪気に何かをすることができない、と言う場合には監視役との関係を見直すことが大切なのです。

泣いたカラスがもう笑う

さっきまで駄々をこねて大泣きしていた幼子が、気づいたらもうケラケラ笑い声をあげていることがよくありますが、大人がそれを面白がって泣いたカラスがもう笑ってるなどと茶化すのです。

少し状況は違いますが、泣く子も黙る、という表現をする場合もありますね。これは、泣いている幼子も泣くのをやめて黙ってしまうくらいに怖いとか、泣いている場合ではないと知って泣き止むことをいいます。

いずれにしても、泣いていた状態からすぐに泣き止むような場合を指しています。本当に身体のどこかが痛かったり、苦しんでいるなら急に泣きやむことなどできないはずですね。

つまり幼子が泣いている場合には、周りの親や大人に何かを訴えている場合が多いということです。だからこそその訴えが受け入れられれば、すぐにでもニコニコ顔になることができるのです。

あれが欲しいと訴えているときに、とても怖い状況がやってきたら訴えてる場合ではないということが分かるために、泣く子も黙ってしまうということですね。

依存心からくる子供のこうした変幻自在ともいえる態度というのは、ある意味微笑ましい姿としてみることができます。

ところが、そうした依存心をそのままにして大人になってしまったような人の場合には、同じように微笑ましいとしてみることは難しくなってしまいます。

周りにどうにかして欲しいという依存心は、大人になると幼子みたいにただ泣くというだけではなく、いろいろな形態をとるようになります。

例えば突然怒って怒鳴りつけるという場合もあるでしょうし、単に感情の浮き沈みが激しいという形となって現われることもあります。

勿論子供の頃と同じように、泣いて叫んで文句をいい続けるような人もいるかもしれません。どれも幼い頃の依存心を強く持ち続けていることが原因なのです。

そしてその依存心というには、求める心であり、自分から進んで解決するのではなく誰かに解決して欲しいと望む心なのです。

したがって、そこから脱却するためには与える心になっていくことだけが唯一の解決法なのです。 与える心は人生の苦悩のすべてを解決してくれるのです。

どっちもイヤ

私達は毎日さまざまな場面で選択をしていますね。お昼ご飯は何にしようかとか、コーヒーと紅茶でどちらを飲もうかなどです。

コーヒーも紅茶も好きで、どちらも飲みたい場合には嬉しい選択になりますね。そう言う場合はいいのですが、どちらもイヤだなという場合もあります。

例えば、適齢期の人が人並みに結婚したいのでいつまでも一人でいるのはイヤだし、だからといって結婚して自由がなくなってしまうのもイヤだなというようなことです。

このようにどっちもイヤだという場合には本当に選択に困ってしまいますね。みなさんはいかがですか?こんな具合にどっちもイヤという状況によく出くわすでしょうか?

目の前にあるおいしそうなケーキを食べずに我慢するのはイヤ、でも食べて体重が増えるのもイヤなどはよく見かけることですね。

せっかく入会したスポーツクラブだけど、今日は雨が降っているから行くのがイヤ、でも行かないで家でゴロゴロしているのもイヤ。

ご近所の嫌いな人に出くわしてしまって、挨拶するのもイヤ、でも挨拶せずに無視するような大人気ない自分もイヤ。

こうして考えてみると、どっちもイヤというシチュエーションはいくらでもあるように思いますね。しかし、これは自分の解釈を少し変えるだけで解決することができるのです。

月並みですが、コップの水が半分入っているのを、まだ半分も残っているとみるか、あと半分しか残ってないとみるかの違いです。

物事を否定的に捉える癖がついている人の場合は、どっちもイヤを経験するケースが多いはずです。そしてその逆も言えるのです。

上記の結婚についての選択の場合には、肯定的に捉えれば一人でいれば自由な人生を楽しめるし、結婚したら新しい家族との楽しい生活がある、という具合です。

状況は何も変わっていなくとも、自分の解釈の仕方を肯定的にすることでこのように変わってしまうということです。

もしも、自分はどっちもイヤということが多いかもしれないと思い当たる場合には、自分の解釈の仕方に注意して、なるべく肯定的な解釈ができるように練習することです。

それだけで、面倒くさい、何となくうまくいかないという印象であった人生が、全く違った楽しめる人生に変わってしまうはずです。

印象的な昔の映画 その3

この映画は幼い頃ではなくて、高校生くらいの時に見たものだったかもしれませんが、大好きな俳優である今は亡きスティーブ・マックィーンが主役でした。

確かテレビで途中から見たのでほとんどあらすじは覚えていませんが、彼が戦闘機のパイロットでその部隊の隊長だったかもしれません。

とにかく、とても厳しい人で本人が有能なため誰も逆らうことができないでいるのですが、この人人格的にどうなの?と思うくらいに激しいのです。

部下たちも表面的には付いていってはいるものの、心の中ではかなり彼を否定的に見ているのです。周りの人たちに疎まがれ、嫌われているのがありありと分かるのです。

映画を見ている自分もこんないやな奴にはあまり出くわしたくないなと思いながら見ていました。そして、映画の最後のほうで、彼は山の中腹に激突して飛行機ごと木っ端微塵になってしまうのです。

なぜそうなったのか理由は忘れましたが、その瞬間に自分の心の中で急激な変化がやってきました。それは、今までずっといやな奴だという思いばかりだったのが、そうではなくなったのです。

そして急にあの人はいい人だった、善良な人だったという思いがこみ上げてきました。きっと好きだったんだと分かったときに本当にこの自分の心の変化に驚いてしまいました。

映画の中でも、残された部下はみんな一様に泣いてるし、生きていたときのように憎んだままの人は誰もいなかったのです。

本当はみんなに愛されていた人だったのです。しかし、なぜこのような心の変化が起こったのかその時には分かりませんでした。

今ではその理由が分かります。彼が生きていたときには自分は彼に傷つけられたくないという思いを抱いて彼を見ていたために、防衛つまり攻撃的な知覚で解釈していたのです。

それが亡くなった途端に、もう彼に傷つけられる恐れはないと知った心が彼に対して無防備になったおかげで、それまで隠されていた愛の目が出てきたのです。

きっと自分は自覚のないままに、彼の愛の部分を自分の愛の知覚でずっと見ていたのだろうということです。亡くなって無防備になった瞬間に、その部分が現われて彼を好きだと思えたのです。

我々の知覚というものがどのくらいいい加減なものか、本当によく分かりますね。その時々の自分が見たいと思うものだけを選りすぐって見て、その上で都合のいい解釈をするということです。