娯楽の必要性

私達は日頃、息抜きとか気晴らし、あるいは娯楽といったような力を抜いて気分をリフレッシュできるようなものを必要としています。

場合によっては趣味に興じるということもあるかもしれません。気の合う人たちとカラオケに行って楽しんだり、お酒やおいしい食事の時間もいい気持ちにさせてくれますね。

旅行が何よりも楽しみという人も沢山いるはずです。そうした時間というものが、毎日の生活の中に適度に散りばめられているとバランスがとれた生活のように感じます。

しかし、そういうものがある程度必要だと言う理由とは一体なんでしょうか?実はその理由はとてもシンプルなものです。

つまり、そうした娯楽の時間、余暇の時間がないと苦しくなってくるからです。それ以外の時間ばかりであると、人生がつまらない、味気ないものに思えるからです。

しかしどんな人であっても、そうした娯楽や余暇の時間が自分の人生のメインテーマであっていいとは思っていないはずです。

でも残念ながらそのメインテーマであるべきことが、自分を疲れさせてしまったり、喜びを感じることができなかったりすると、必要以上に娯楽や趣味などの比重が増えてくるわけです。

逆に言えば、人生のメインテーマであることに喜びや楽しみを見出すことができれば、あとはちょっとした息抜き程度のものがあればそれで事足りるはずなのです。

お休みの日が待ち遠しくて仕方ないとか、自分は趣味に生きるんだと決めてしまっている場合、あるいは年に一度の海外旅行が何よりのエンターテイメントだと言う場合には、大切なメインテーマがないがしろにされている可能性があります。

余暇を最大限楽しむために、日頃苦しさに歯を食いしばって生活するなどということは、まったくもって本末転倒と言えると思います。

娯楽や趣味が悪いのではありません。それがなくては人生がむなしいと感じることに問題があるということです。

その場合には、もう一度じっくり自分の人生のメインテーマであるものを見直してみる必要があるのではないでしょうか。なぜなら、人生の幸せは、娯楽よりもメインテーマの方に深く関連していると思うからです。

不食の奇跡

先日講座にいらっしゃっている方々から、飲まず食わずで長い間生きている人がいるというお話しをお聞きしました。

私は個人的にとても大きな興味を感じさせられました。それでネットで少し調べてみたのですが、確かにその人の記事が詳細に書かれたものがありました。

インドに住むその男性は、何と65年間に渡って一切の水も食べ物も口にせず、さらに全く排泄もせずに暮らしているということです。

インドの医師たちで結成された研究団が、その人を10日間に渡って詳細に検査した結果、全くの健康体であるし、実際にその間の監視により全く飲食と排泄をしないことが認められたそうです。

今後、その医師たちは、NASAに更なる調査を依頼することを希望しているとのことです。また、実際にNASAで研究対象になっている不食の男性もいるようです。

その男性は、毎朝1時間太陽を凝視するだけで、何も食べずに長い間暮らしている人で、水分だけは摂取しているようです。

こうした人物というのは、調べてみると世界各国に相当数いるらしいとの情報もあるようです。こうしたことをどう考えるのか、そこが大切なところだと思います。

現代医学で解明されていない全く未知の人体の神秘と捉えるのが一般的かもしれませんね。インドのその男性は検査の結果、膀胱に尿が溜まることは分かったのですが、膀胱壁で尿が吸収されることも判明したそうです。

しかし、そうしたことをいくら事細かに解明していったところで、きりがないような気がします。それは、私にとっては心の問題を脳内物質を解析することで説明しようとすることに似ているように思います。

なぜいつも身体ありきなのでしょうか?身体の現象として起こることは、心という内的な原因の結果でしかないというように思うのです。

心という目には見えないものを実在するものとすることに抵抗があるのかもしれませんし、この抵抗感は相当強力なものなのだと思います。

しかし、これから少しずつそうした物質中心の考え方に変化が出てくるように思います。そうした人類の内的変化の一つのきっかけとして、不食の人がみんなに知られるという事態になったのではないかと思います。

怒りの抑圧方法

私達はいつも自分の心が平安で穏やかでいられたらいいのにと思っています。しかし、怒りなどのマイナスな感情を感じた途端に、そんな安らかな気持ちは吹っ飛んでしまいます。

それを避けるために、本当は怒りを感じているはずなのにそれを否定することで、平安のままでいるかのようにしてしまうのです。

そうした作業を自覚を持って行う場合もあるでしょうし、全く自覚ないままにしてしまうこともあるのです。いずれにしても感じているはずの感情を感じないようにするのは心にとっては負担となるのです。

そして感じないままに心の奥にしまわれた感情は消えることなくいつまでも残っているため、それが溜まりすぎてくると何らかの形で表面化してきます。

その時に初めて、自分はきっと今まで感情を我慢し続けてきたのだろうということに気づくことになるのです。

私達はさまざまな方法を使って、怒りを抑圧してしまいます。その一つは、恐怖です。強い恐怖を感じると、怒りは簡単に影を潜めてしまいます。

どんなに怒っていようと、怖さがそれを抑え込んで攻撃的な気持ちをなくしてしまう効果があるのです。

また、自己嫌悪や罪悪感も怒りを抑えます。自分が悪いのだからという思いが強ければ、それだけ相手を攻めようとする気持ちがなくなってしまうのです。

相手のことをかわいそうと感じることも、かなりの力で怒りを抑え付けてしまいます。似た感情として哀れみや場合によっては見下し、蔑みなどの感情も怒りを鎮める力を持っています。

そして最後に、理性による理屈も怒りを抑える効果があります。それは大抵、~だから仕方ないというような考えによって、怒りを感じなくしてしまいます。

このような様々な方法によって怒りを沈静化することになるのですが、それは表面上静かにさせることができるだけで、怒りという感情を消滅させたことにはなりません。

怒りは出来るだけ貯めないように気をつけるべきです。怒りを抑圧する習慣がついてしまっている人の場合には、意識的に怒りを感じるように訓練することです。

上記したような方法を使ってないかどうか、いつも自分の心に注意を向けてあげてることが大切です。そうして怒りとしっかり向き合って味わってあげることで、それを溶かすことができるのです。

理不尽さを乗り越える その2

昨日のつづきです。

何があっても理不尽な思いをしなくなったら、どんなに生き易いか想像もできないくらいですね。ですから、理不尽さを克服することは、幸せになるための鍵でもあるわけです。

比較的小さな理不尽さは昨日のやり方である程度は処理することができると思います。ですが、とてもインパクトの大きい理不尽な思いはそう簡単ではありませんね。

元々、理不尽な思いをさせられる自分は悪くなくて、もっぱら相手の言動がひどすぎるだけなんだから、何で自分が何とかしなければならないのか、それが理不尽だと思われるかもしれません。

ですが、相手を責めている限りは、決して理不尽さを乗り越えることはできません。とにかく、理不尽さを乗り越えることだけに集中して考えるほうが得策です。

最近のブログで裁くことについて書いたときにその中で触れましたが、歪んだ知覚によって裁こうとするために、理不尽な思いを起こすのです。

この原理をいつもどこかに記憶しておく必要があります。そして、あいつの言動はどう考えてもおかしいよ、理不尽すぎるよと感じたときにこそ、自分の歪んだ知覚のことを思い出すのです。

そして更にいえば、外側で起きている理不尽な事象というのは、心の中にある自分の歪んだ知覚がそれを投影して起きているように見えるものに過ぎないということです。

したがって、毎日理不尽な目にばかり遭遇してしまうよと思っている人は、繰り返しこのからくりを思い出して、自分のものにしてしまうことです。

そうして理不尽さに遭遇した際には、この理不尽さには実体はないんだと理解することです。知覚を正していけば、本当にないということに気づくということです。

それには、元々正しい知覚を持っている聖霊の知覚の仕方をまねするということです。聖霊の正しい知覚では、裁くという概念がないので理不尽さを全く感じないのです。

理不尽さを感じたら、これをこれ以上感じていたくないので、もらって下さいと聖霊に差し出してしまいましょう。その上で、聖霊の知覚の仕方を練習することです。

漠然と聖霊だったらどんなふうに知覚するのだろうか、それを教えて下さいと頼むような気持ちになって心静かに待っていると、何となくニュアンスが伝わってくるかもしれません。

それが成功すると、きっとそれまで感じていたどうしようもない理不尽な思いは、スーッと影を潜めてくれるはずです。

それともう一つ、自分が相手に与える側の気持ちになっていると、理不尽さを感じないようです。何かを求めていると、あるいは期待していると理不尽な思いはそれだけ大きくなります。

予防線というわけではありませんが、日頃から与える側の立場に立つことを意識してみることは、とても大きな効果があるはずです。

理不尽さを乗り越える

今までにも理不尽なことについては、このブログでも触れてきました。理不尽さは自分が幸せになっていくために、欠くことのできない宝物なのです。

というと語弊があるかもしれませんが、実は理不尽さを自分がどう取り扱うかということが人生を大きく左右するということです。

理不尽さの感覚というものは、自分の感覚や判断などを正しいものとした上で、どうしても納得することができないような状況のことを指しますね。

特に、自分に直接利害が関わってくるような場合には、その思いが大きくなります。例えば、約束を破っても全く謝らない人の話を聞くと、そんな理不尽な人もいるんだというくらいの感覚になるかもしれません。

しかし、それが実際に自分が繰り返しそうした体験をさせられたとしたら、ものすごくやりきれないような怒りとともに、大きな理不尽さを感じるはずです。

つまり、理不尽さとは、自分の判断基準の正しさから逸脱した事象についての反応であると同時に、被害者の立場になればその思いが何倍にもなるということです。

理不尽さを感じて幸せな人は誰もいません。何とかして、その理不尽な思いを克服する方法を考えたいのです。

そのためには、まず自分が何らかの被害に遭ったかどうかということを抜きにして、正しさについてだけを見てみることにします。

そうすると、正しさというものは自分の判断は正しいというものが基準になっていると分かります。その正しさは実はかなりいい加減な作り物であると気づく必要があります。

私達はその正しさで周りの人を裁いているわけですから、その正しさを手放すことにすればいいのです。約束を破って謝罪しないという事象が正しくないという決め付けを手放すということです。

残りは、約束を破られて待ちぼうけさせられたとか、ドタキャンされて計画が壊されたなどの迷惑について考えてみます。

すると、過ぎ去った今となっては物理的な痛手が残っているというよりも、何か相手に文句を言いたい気持ち、つまりわだかまりだけが残っていると分かります。

このように冷静に分析することで、今まで感じていたほどの理不尽さのインパクトがなくなっていることに気づきます。

この手法により、小さな理不尽さは比較的簡単に解消することができます。しかし、大きな理不尽さの場合はどうしたらいいでしょうか?

つづく

信じることが真実になる

「奇跡のコース」の中では、本当の自分はスピリットだと言っています。私達は、そのことを忘れてしまったまま、この今の自分が本当の自分だと信じ込んでいるというのです。

しかし急にそんなことを言われても、はいそうですかと納得できるものでは勿論ありませんね。なぜなら、これが自分だと信じているからです。

ただしここで知っておくべきとても大切なことがあります。それは、私達は信じるものが正しいし、それが事実であり、それこそが本当だと思い込むということです。

ところが、一般的に私達は真実や事実というものは自分が信じることとは別のものだと思っているのです。

つまり、自分が幼い頃に地球が丸いとは信じてなかったとしても、地球が丸いという事実は変わらないということです。

自分が肉体を持った人間として生きているという事実は、別に信じているからそうなんだとは全く思っていないのです。

自分が信じる前にもうすでにそこにそうした事実が横たわっているじゃないかと思っているのです。しかし、そのことをよくよく見つめてみると、やはりしっかりと信じている心があると分かります。

意識的に信じていると自覚できるものとは、事実や真実が明確ではないものに限るのです。逆にそれが明らかだと認識しているものは信じる対象ではないと思っているということです。

だから、例えば神の存在については目で見ることができないので、信じるか信じないかという対象となるわけです。

自分が将来お金持ちになれるかどうかは明確ではないので、信じるか信じないかという範疇となるわけです。

ここが一つの盲点なのです。つまり、自分にとって明確であるものであっても実は信じているということなのです。

そして信じているからこそ、自分にとっては明確な事実や真実として受け取れるのだということです。だとすると、自分が身体を持った人間だということを信じるのをもしもやめることができたらどうなるか、興味深いとは思いませんか?

裁く目的

私達は、一分一秒ごとに誰かを裁いているといっても過言ではありません。つまり、それと気づかずに何度となく裁き続けて生活しているということです。

裁いている時というのは、大抵、相手の言動にイライラしたり、理不尽な思いやはっきりとした怒りを感じてみたり、恐れを感じたり、悪者と断定したり、拒絶をしたりと様々な反応をします。

裁くために我々は自分の知覚というものを歪ませているのです。それは生後まもなく開始して、少しずつ歪んだ知覚を自分に学習させて成長していくのです。

つまり、相手をそのままに見ようとするのではなく、常に裁きの目を通して見ようとするのです。それこそが歪んだ知覚であるわけです。

なぜそれほどまでにして、長い時間をかけて知覚を歪ませて裁こうとするのでしょうか?その目的、メリットとは一体何でしょうか?

相手を裁くということは、相手に罪があるという判断を下すということです。罪というと、言葉が重い印象を受けますが、要するに否定的に見るということです。

その目的は、自分を防衛する体制に入らせるためなのです。防衛状態に入ると、上記したような様々な反応を起こします。

攻撃的な怒りを感じてみたり、拒絶して遠ざかろうとしたりするわけです。どちらにしても、相手が悪くて自分は悪くないという状況を作り出すのです。

つまり、相手に罪があると判断することで自動的に自分には罪がない、あるいは自分の罪を忘れられるというメリットがあるのです。

ということは、自分の中にある罪悪感を隠すということが一つの大きな裁く目的であると言う事ができます。

私達は自分の心の奥に潜ませている大きな罪悪感を感じないように生きるために、裁くという行為を繰り返しているのです。

その目的は、その罪悪感を温存し続けることなのです。見ないようにしているものは、決してなくなることがありません。

そしてその最終的な目的とは、自分を個として周りから孤立させることなのです。そうやって、分離のこの世界が続いていくというわけです。

来月より次期講座が始まります

当オフィスでは、昨年よりいくつかの講座を開講しておりますが、来月6月よりまた新たな講座がスタートします。

従来どおりの「ヒーラー養成講座」及び「カウンセラー養成講座」と並んで、新規に「ヒプノセラピスト養成講座」も始まります。

また、「親子関係を改善する心理講座」と「人間関係を改善する心理講座」は、一つにまとまって「人間関係を改善する心理講座」として再スタートします。

講座を受講されているみなさんは、概ね何らかの内的な変化を自覚されているものと思います。これらの講座は、単に知らないことを聞いて学んでいくというだけではないからです。

講座で話し合う内容そのものが、各自の内面を深く見つめざるを得ないような状態になってしまうものばかりだからです。

しかも、通常のセッションのような自分とセラピストの一対一の関係ではなく、自分以外の受講者の発言や内面を見聞きすることで、思わぬ気づきを得ることもできるのです。

見ず知らずの他人の居る席で自分の内面を話すことなどとてもできないと思っている方も多いと思います。

しかし、何度も同じメンバーで繰り返し心の話をし合っていくうちに、自然と心が開かれて気がつくとふと楽に自分のことを話せるようになっているのです。

また、心理講座以外のすべての講座は、実習を重要視しているため、とても貴重な体験をすることが可能なのです。

個人セッションと比べても費用も割安ですし、このようにいいことずくめの講座です。みなさん、是非勇気を持って参加されてはいかがでしょうか?

きっと多くの価値ある気づき体験を何度もされると思います。ご一緒に学んでいきましょう。講座でお会いできるのを楽しみにしております。

裁かない生活

今まで何度となく「裁き」についてこのブログで書いてきました。なぜなら、それだけ裁かないでいることが難しいことだからです。

そして、裁かないでいられたら、自分の心はそれだけ心地いい状態でいられることも確かなのです。ですから、なるべく裁かないでいられるに越した事はないですね。

最近少し、以前と比べて裁かないでいる方法を体得することができたように感じています。そうは言っても、ほかの人からは気づいてもらえるようなレベルではないはずですが…。

自分の中での変化というのは、ほんの少しでも裁いているときには、ああ、裁いているということを自覚できるようになったことです。

今まで、無意識に裁いていたような小さなことでも、きちんと意識の上にあげて見定めることができるようになったと感じています。

この変化のきっかけとなったことは、奇跡のコースを読みふけっていたときに、相手の知覚が歪んでいると知覚する自分の知覚こそ歪んでいる、ということが明確になった瞬間があったのです。

勿論、理性ではそんなことは分かりきっていたはずなのですが、そのことがとてもしっかりと腹の中にストンと落ちたということなのでしょうか。

それ以来、自分が裁いているということに敏感になったように感じるのです。それは単に裁きたくないという意志というより、裁けるはずがないという感覚かも知れません。

この歪んだ知覚で裁こうとしている自分を客観視したら笑えてしまうというような感覚でしょうか。理由はともかく、そういう変化を今実感しています。

裁いていると自覚していても、どうしても裁いてしまうというのなら、それはそれで仕方ありませんが、気がついたら裁くのを止められるのだとしたら、気づくことの価値は充分にあります。

あとは毎日の練習が大切なのは言うまでもありません。いつも、自分の中の裁こうとする意識を見張っている訓練をすることですね。

そして、裁かない毎日を過ごせるようになったら、本当の幸せを手に入れることも夢ではなくなります。みなさんも実践してみてください。

印象的な昔の映画 その2

やはり子供の頃にテレビで見た洋画でものすごく印象深かったものがもう一つあるのですが、この映画のことは以前ミクシィの日記にも書いたことがあったと思います。

内容の一部しか覚えていないのですが…、ある女性が何かの病気で入院しているのです。ところが、その病院の医者や看護士さんたちがものすごく意地悪だったり、危険な人たちばかりなのです。

無理やり、必要もないような薬を飲まされてしまったり、危ない注射を打たれたりと、本当にありえないようなひどい病院なのです。

たまにお見舞いにくる父親にそのことを告げても、まったく取り合ってもらえず、何度も病院を変えたいと伝えても、聞き入れてはもらえないのです。

彼女は本当に家族に対しても失望していて、もう何もかもがいやになってしまっていました。どうして、こんなひどいことが実際に行われているにも関わらず、誰にもそのことがばれないのか不思議だったのです。

見ている自分も、何てひどい病院なんだろうか、どうして家族はもっと真剣に彼女の訴えを聞いてくれないのかとイライラしたと思います。

ところが、ある日の朝目が覚めてみると、何だか周りの様子がいつもと違うことに彼女は気づくのです。あれほど、悪意のあった医者が今日は妙にやさしい人に感じるのです。

いつもいじわるばかりをしてきていた看護士さんたちも、何だか別人のようにごく普通の看護士さんたちに思えるのです。

そのことを周りの人たちに話してみると、医者や看護士さんたちが、「おめでとう、あなたは回復しましたよ」と言って喜んでくれるのです。

実は彼女が入院していた場所は精神科の病棟だったのです。心が錯乱していた彼女にだけは、あのように周囲の人たちのことが歪んで見えていたということだったのです。

いつも見舞いに来てくれていた話を聞き入れないひどい父親は、実は彼女のやさしいご主人だったのです。二人はにこにこしながら、その病院を退院していきました。

この映画もとても考えさせられるものがありますね。自分の知覚というものが正しいと思い込んでいる人間の盲点を深く見つめさせられた思いがしました。