駄々っ子の気持ち

大人になってから、ふとしたときに自分が子供であった頃の気持ちをすっかり忘れてしまっていると気づくときがあります。

それは街でなにげなく見ず知らずの子供の態度を見ているときなどに、何かが蘇ってくるような感覚になったり、独りでいるときでも何かの過去の気持ちがあがってきたりするのです。

私達は年齢とともに勝手に子供から大人になっていくと思っていますが、実は多くの経験を積むなかで、自覚の大小はともかくとして自分で自分を大人に仕立て上げていくのです。

決して自動的に大人の意識に変貌するわけではないのです。つまり、大人の自分とは必要に迫られて子供の自分が作りこんだモノだとも言えるのです。

分かりやすく表現すれば、子供の自分が大人の自分を着込んでいるということです。単に大人である自分に慣れ親しんでしまっただけで、自分の中心には子供の頃の自分が隠れているのです。

心の癒しを実践していると、そうした子供の頃の自分がしっかりいるなということをつくづく感じてしまいます。

特に自分を防衛しなければならないという気持ちが強くなったときには、その部分を明確に感じることができます。

私の場合には、駄々をこねている幼い男の子が見えます。実はとても恥ずかしがりやだし、寂しがりやだし、それでいて駄々っ子のような、なかなか気難しい子供です。

大人の自分が無理をしたりして、無意識のうちに防衛する方向に心が向かうと、すかさずその子が出てきて駄々をこね出すのです。

場合によっては身体の具合を悪くすることもありますし、周りの人に対して攻撃的になって自分の気持ちを訴えたい欲求が出てきます。

最近では、そんなときには自分の奥にいる駄々っ子の男の子をしっかり受け止めてあげるようにしています。

うまくできたときには、身体の具合は快方に向かいますし、攻撃的ないやな気持ちもふっと消えていってくれるのです。

自分が何となく今大人気ないなと感じたり、急に具合が悪くなってしまったときには、試してみて下さい。きっと短い時間で大人の自分を取り戻すことができるはずです。

歪んだ知覚

私達人間は、自分の身体からくる信号である五感を頼りにして生活しています。超能力的には第六感と言われるような不思議な感覚もあるのかもしれません。

いずれにしてもそうした感覚のことを知覚とも呼ぶのですが、それを頼りにしているというのも、五感のうちの一つでも機能障害を起こすと、途端にとてつもなく不便になることを知っているからです。

つまり頼りにしているなどという言葉では言い表せないくらいに、自分の知覚がすべてだと言っても過言ではないということです。

ですから、自分の知覚を信じてしまっても当然なのです。知覚から入ってくる情報によってのみ、我々は自分の外側の世界を知ることができるのですから。

しかし、実はこの知覚というものは非常にいい加減なものでしかないのです。外の世界の情報を正確に伝えてくれるものと思い込んでいますが、明らかに違います。

なぜなら、知覚には外から入ってきたナマの情報と、それを解釈する部分とに分けられるからです。通常、私達は入ってきたナマの情報をそのまま知覚することはしません。

必ず、独自の解釈を付加したあとに知覚として感じとるのです。あるがままを見るということが難しいのはそうしたことが原因です。

もっと端的に言えば、私達は自分の知覚を歪めて自分に都合のいいようにして使っているということになります。

知覚を歪めないで使うことは相当に困難を伴います。歪める方向は大きく分けてポジティブな向きとネガティブな向きとがあります。

ポジティブな方は、「あばたもえくぼ」のように、より肯定的に情報を歪めるのですが、ネガティブな方は、嫌いな人の場合には笑顔すら気持ち悪いと感じてしまうなどです。

知覚とは、実はそのようにして自分に都合のいいようにすべてを認識するためのツールであると見ることができるのです。

ですから、もしも本当に知覚を歪まない方法で使うことができたとしたら、その時はきっと知覚そのものの存在理由がなくなってしまい、知覚することがなくなってしまうことになります。

「奇跡のコース」では、その時にこそ知覚が知識へと変換されると教えてくれています。この深い意味はこの本を読むと理解できるようになります。ご興味があれば、勉強会に参加してみて下さい。

自分の人生への興味

私は記憶のある限り、できるだけ早くこの人生を終わりにしたいという気持ちを持っていたように思います。

それは自ら自分の命を絶ちたいという能動的な気持ちではないのですが、時間をどんどん進めて面倒臭いこの人生をなるべく早めに終わりにしたいという気持ちだったのです。

過去形で言えるようになった今は少し変化してしまったのですが、それもつい最近のことですので随分と長い間「時間よ速く過ぎ去れ」と思っていたのだと思います。

特に朝は苦手で、また今日も面倒くさい一日が始めるんだと思うと、このままずっと眠っていたいと毎朝思うのです。

自分がどうであれ、この人生に興味を持って毎朝どんな楽しみが今日は待っているかというようにはならないだろうと諦めていました。

今もそういった気持ちは残っていますし、一日が面倒臭いというのは基本的に変わらないのですが、以前と違うのは生きる目的が明確化したということです。

なるべく早く終わりにしたいという思いは今となっては全くなくなってしまいました。かといって、この人生に執着があるということでもありません。

生きている限り、やるべきことが見つかったということですね。それは、この世界で成功するということとはきっと程遠いことかもしれません。

ですが、自分の内面的な満足感を求めて限りなく進めていくということに今は興味津々になることができたのです。

このことは本当に感謝すべきことだと認めざるを得ません。自分の人生や自分自身への興味がこういった形で手に入れられるとは本当に予想していなかったことで、冷静になって考えてみると思いもよらないことでした。

みなさんはご自分の人生に興味を持って生きていますか?駆け足してきたその足をしばし休めて、じっくりとそのことを考えなおしてみるのも無駄なことではないと思います。

心の整理整頓

最近よくみなさんにお伝えしていることの一つに、誰の心の中もバラバラに分離しているということがあります。私達はどうしても自分の心の本音は一つにまとまっているものと思いがちです。

自分はこう考えていたけど、よく考えてみたら本当はこう思ってた、のように本心は一つだと思おうとしているのです。しかし、心の中はバラバラに分断されていて、それぞれは互いのことについて気づいていないのです。

つまり、バラバラな心のそれぞれがすべて自分の本心であるということです。認めにくいことですが、本心が沢山あるのです。

そのバラバラなものを一つにまとめようとしてしまうために、自分の心とはいえ明確に把握することができなくなってしまっているのです。

バラバラなものを無理に一つにまとめようとすれば、それは当然全体をさらっと見渡すような、上っ面をなめるような見方しかできないはずです。

バラバラなものの集合体として出来上がっている心の全体をしっかり理解してあげるためには、一度バラバラなものを他のものと互いに独立させて調べることがどうしても必要です。

なぜなら、どれか一つについて調べようとしても、他のどれかがそれを邪魔しようとしてしまう場合があるからです。

セッションで行っているボイスダイアログはこうしたバラバラな心の一つひとつを個別に深いレベルまで見つめていくことによって、心を整理整頓していくものです。

ボイスダイアログは練習することで、自分独りでも実践することができます。二つの相反する主張をしている心の断片を選んで、それを一人二役で互いに会話していくのです。

こつは、その心の断片に自分がなったつもりで、相手との会話を繰り広げていくことで、知らず知らずのうちに互いの本音が出てきます。

一度、セッションで経験すれば比較的たやすく一人でも実践できるようになるはずです。自分の心を整理整頓して、心の奥に隠し持っていたそれぞれの本音を知ることで多くの問題を解決していくことができるのです。

訴えたい気持ち

随分と昔のことですが、仕事でアメリカに滞在していたときに、夜暇なのもあって英会話教室に通っていました。

自分の希望で毎回同じ先生に来てもらってほぼ毎日のように一対一の授業を受けていました。その時に、アメリカの訴訟社会の実情をいやというほど聞かされたのです。

アメリカでは購入したものは、お客が気に入らなければどんなものでも返却できるというのです。使用してしまったCDであれ、読んだ本であれ、何でもです。

お店側は理不尽だとしても、文句を言えないということでした。消費者側が国によってかなり守られているわけですね。

マクドナルドだったか、そういったファストフードのお店のドライブスルーで購入したコーヒーを運転者が膝にこぼして、その熱さでやけどをしてしまい、当時100億円くらいの賠償金が支払われるという事件がありました。

腕のいい弁護士がつくと、そういうことが可能なわけです。訴える相手が大きな企業なので、そんな大金を払っても大丈夫だからなのか、それにしても常識をはるかに超えていますね。

英会話の先生の話しに戻りますが、彼女のご主人が理髪店に行って眠ってしまった間にあまりにも髪を短くされてしまったといって帰宅したそうです。

彼女はご主人に再度その理髪店に行かせて、散髪代をただにさせたといって喜んでいました。この逸話は以前にもコラムで書いたことがあったと思います。

こうした文化というのは、人が根深くもっている訴えたい気持ちの表れなのです。それは求める心であるとも言えます。

求める心が全開で生きているのであれば、当然与える心は影を潜めてしまっているはずです。それは間違いなく愛のない殺伐とした社会になってしまいます。

社会や国や会社、あるいは周りの人たちに何か訴えたい気持ちを沢山持っているという自覚がある場合には、求める心が優先されていることに気づくことです。

そして、忘れてはならないことは訴えたい気持ちを優先させて生きていると、訴える必要があるようなことが身の上に起きてしまうということです。

たとえ訴えたことが周りに受け止められたとしても、それは一過性の安心を得ることができるだけで決して幸せにはなれません。

訴えたい気持ちは、自分自身の中立な心でそれを受け止めてあげればいいのです。充分にそれができれば、その気持ちは静かになり、与える心が優勢になってくるはずなのです。

その先にしか幸せは待っていてはくれないのです。

心の中は非常識

世の中には常識的な人、非常識な人、その中間くらいの人などさまざまな人たちがいます。そして一般的には、常識的な人が好まれる傾向にありますね。

また大抵の人が自分のことを健全な心を持った人物でありたいと願っているはずです。健全さとは他の言葉を使って表現すれば、善悪のうちの善であるということです。

その善という中に常識的ということも含まれているのです。しかし、表面的にその人が善人であろうと常識的な人であろうと、心の中全体を見渡してみたらそれはもうそんな分け方はできないということが分かるはずです。

私達の心のほとんどの部分は自分を守りたいという意識の集まりから出来上がっています。そして、その目的のためならなりふり構わないというくらいに必死に自己防衛しようとします。

ある意味それこそ命がけで自分を守ろうとするのです。例えて言えば、戦禍の中で生きるか死ぬかという状態であるようなものなのです。

自分がいつ銃弾に当たって死ぬかもしれないと思うような状態では、自分を守ろうとして常軌を逸した行動をとってしまうことがあるかもしれません。

常識的であろうとか、善人であろうとか、そんな穏やかな気持ちはどこかへ追いやられてしまって、生き延びるための鬼と化すのです。

私達の心の奥底にある意識の多くがそのような環境にいるのと同じような感覚で自己防衛のために日夜活動しようとしています。

つまりその結果、心の中の自覚できない部分は非常識だと言うことになるのです。そういった心の部分をある程度表面化してもいいと思うのか、絶対に見せてはならないとするのか、そうした違いが人から見て善人であったり悪人であったりという違いとなるだけなのです。

私達はそういう意味では、どんな人物であろうとも心の中を一皮剥けば防衛のために戦闘態勢であったりして、とても穏やかな常識人ではないということです。

大切なことはそういう自分をできるだけ受け入れて認めていくことです。そうすることによって、罪悪感や抑圧が少なくなってより力を抜いて楽に生きていくことができるようになるのです。

モグラ叩き

ゲームセンターなどに昔からある「モグラ叩き」というゲームがありますね。沢山のモグラがランダムに飛び出してくるのをできるだけタイミングよくハンマーで叩くというものです。

このゲームは反射神経を競うものですが、同時にハンマーで思い切り叩くという要素があることから、日頃のストレスの発散をも兼ねているのではないかと密かに思っています。

私達はこのゲームと同じような事を、実は自分の心の中で日常的にやっているのです。モグラに相当するのは心の中に沢山ある意識の断片です。

それら心の中のモグラは、自分にとって都合の悪いものなので、表に顔を出されたくないために心のハンマーで常に叩いて心の奥に戻してしまうのです。

そういった都合の悪いモグラとは、怒りなどの感情だったり、ダメな自分だったり、ありとあらゆる認めたくない自分の断片たちなのです。

戻された心のモグラたちは、また頃合を見つけては表に飛び出してこようとします。そんなことを延々と繰り返しているということです。

モグラ叩きゲームは時間がくると自動的に終了となるのですが、心の中でのモグラ叩きはそのままでは終わるということがありません。

叩くことに疲れてしまって放ってしまうこともありますが、その時にはそのモグラが表にしっかりと出てきてしまい、自分はそれに乗っ取られてしまうこともあります。

心の中でのこのゲームをやめる方法は一つしかありません。それは、一つひとつのモグラを叩くことをやめるということです。

勿論叩かなければモグラは出てきたままになりますが、それをそのままにするのではなく、しっかり見てケアしてあげるのです。モグラを裁かないようにするのです。

そうすることで初めてそのモグラたちは、自分が受け入れてもらえたという気持ちになっていき、しまいには訴えることをやめて静かになってくれるのです。

あなたは自分の心の中にいる沢山のモグラたちをしっかり見てあげることができるでしょうか?初めはきっと辛いことだと感じるでしょうね。ずっと叩いて潜らせて見ないようにしてきたものなのですから。

でも少しずつでも一匹二匹とそのモグラたちに光を当ててあげると、心の闇の中でうごめいていたモグラたちは、やがて消滅していくことになるのです。

結果が原因を誘起する

昨日は、逃げれば逃げるほど恐怖は増すというお話しをしました。怖いから逃げるのが原因と結果の因果関係なのですが、結果である逃げる行為が原因であった怖いという状態を誘起するということでした。

実はこの原因が結果を誘起するというのは、このほかの様々なことにも適用されることなのです。普通の元気な精神状態の時に、わざと悲しいときに自分が泣くときのまねをしているだけで本当に悲しくなってきたりします。

以前ブログかコラムにも書いたことがあるのですが、気分が落ち込んでいたときに、この気持ちを何とかしようと思ってクルマの中で大笑いをしてみたことがありました。

すると、しばらく続けているうちに楽しい愉快な気持ちに変化することができたのです。何も笑えるようなことなどなかったのですが、笑うという行為によって実際には笑う原因がなくてもお笑い番組を見てゲラゲラ笑っているときのような気持ちになりました。

なぜこのようなことが起きるのかは専門家に聞いてみれば、きっと何らかの科学的な説明をしてもらえると思います。

自分なりに考えたことは、からだや心の条件反射的なものなのではないかと思っています。つまり、普段、可笑しいと思うときには笑うという行動をしているため、それが条件付けされてしまうということです。

そして、その条件付けされたものが、原因と結果という因果関係であるだけでなく片方が起きればもう片方も誘起されるという結果を生むのだと思います。

このことをうまく利用することで様々なことに有効活用できるのではないかと思っています。例えば相手をもっと好きになりたいと思うのであれば、もっと好きになった自分ならきっとこうするだろうという事をすることによって、相手を思う気持ちが強くなるはずです。

求めるよりも与える人生にしていきたいと思うのでしたら、心が伴わずともなるべく与える自分の行動をし続けることで、与える心が誘起されるはずです。

逃げるだけ恐怖は増す

子供の頃に次のようなことを経験したことがありました。暗い夜道を一人で歩いていると、なんだか背後に不穏な違和感を感じ出して、急に怖くなってきたのです。

そのときに、立ち止まって後ろを振り返って確認する勇気がないため、思い切って急に走り出したら、さっきよりもものすごい恐怖を感じてしまって無我夢中で家まで走り続けたのでした。

みなさんはこういった経験をしたことはないでしょうか?この体験には、恐怖というものの特性が現れています。

それは簡単に言うと、恐怖は逃げ出せば減るどころか増すことになるということです。自分が逃げているという事実を体感すると、思い切り逃げていればいるほどそれだけ怖いのだとの認識をより強く持ってしまうことになるのです。

つまり、怖いから逃げるという行為に及ぶと考えるのが通常の原因と結果の関係ですが、逃げるという行為によって、逆に恐怖が誘導されて出てくるということです。

上の例では、元々怖いと感じていたところに、逃げるという行為によって、更に恐怖を上乗せしてしまったということです。

ところが、勇気を持って恐怖と向き合おうとすると、その瞬間は確かに怖いのですが次第に恐怖は少なくなる可能性が高いのです。

なぜなら、恐怖の要素として得体が知れないとか理解できないということが含まれているからなのです。

分からない状態はそれだけで怖いのです。幽霊などが恐怖を感じさせるのもそのためなのです。ですから、向き合ってしまうと対象を理解することになるので恐怖が減ってくれるのです。

この原理は心の中についても同じことが言えます。恐怖から逃げてそれを心の奥に抑圧している間はその恐怖は減ることはありません。

勇気を持って抑圧しているものと向き合ってしまうと、その恐怖の正体がばれてしまうので怖さは半減してしまうということです。

心を癒していくとは恐怖を手放していくということですので、どうしてもどこかでそれと向き合う必要があるということなのです。

気が重くなるかもしれませんが、しかし向き合ってしまえば実は逃げてるときよりも恐怖は減ってくれるというありがたい事実があるということです。

特別な自分

誰にでも自分にとって特別と思える人がいるものですね。それは、両親であったり、兄弟であったり、親友やお世話になった人、恋人などのパートナーや子供など、さまざまです。

しかし、その人が自分にとってどんなに特別な存在であろうとも、特別さにおいては他に絶対にかなわない人が一人います。それが自分なのです。

私達は、日頃自分というものにあまり強い関心を持っていないようにして生活しているかもしれませんが、本当はこれ以上関心を持っている存在は自分をおいて他にはいません。

人は生まれながらにして自分のことを特別扱いしています。幼児のうちは、この世界がすべて自分と区別できない状態で生きています。

そして自分が親とは違う別々の存在だと気付いたあとも、親にとって自分は一番の存在でありたいと願っています。それは特別でありたいと思っているからです。

自分という特別さは他のどんな存在と比較しても格別のものなのです。誰でも自分のことは別格扱いをしています。

例えば、自分を嫌いと思っている人は、その本心は世界中の誰よりも大嫌いと思っているのです。それは勿論他に嫌っている人とは格が違うからです。

また、誰よりも自分のことが好きと思っている人もいます。どんなにあこがれているスーパースターがいたとしても、自分への思いの足元にも及びません。

これがエゴの正体なのです。いいにつけ悪いにつけ、自分は他人とは別格なのです。実は様々な苦悩というのは、この特別でありたいという気持ちがベースにあるのです。

自分が特別だからこそ、他人から傷つけられることに格別に神経質になってしまい、それは過剰とも思える自己防衛をまねくために、やたらと神経をすり減らすことになるのです。

それは様々な神経症を発症することにもつながってしまいます。本当は、自分は大勢の中のただの一人に過ぎないのですが、そうは思いたくないために他人が自分を特別視すると思い込むのです。

自分はいつも緊張していて、人の中にいることが苦痛だと感じることがあるのなら、この特別だと思っている自分の意識を見つめてみることです。

自分と言う存在を人の目から客観的に見ることができると、それほど厳重に自分を守る必要もないのだということに気づいて、とても楽な気持ちになれると思います。