欲すること

自分は何かを必要としていると感じることは、別に悪いことでもいやなことでもないと思っているのが普通ですね。ブランド物のバッグが欲しい、クルマが欲しい、素敵な恋人が欲しい、こういう気持ちで我々は毎日暮らしています。

私たちがいやだな、困ったな、この気持ち手放したいなと思うのは、不安やイライラなどの辛い感情のほうですね。嫌いな人やモノに対する拒絶心も、好ましくはないと一般的には思われています。

何かを欲するのは拒絶ではないですから、その感覚がいやだということにはならないわけですね。しかし、いやだと思って拒絶するのも、何かを欲するのも実はどちらもエゴの産物なのです。

何かを欲する、それを必要と感じるというのは、それが足りないと感じているということですから、それを肯定してしまうといつまでも自分は不足しているというその気持ちを持ち続けることになってしまいます。

英単語で want というのが欲するという意味になりますが、この単語は足りない、欠乏しているという意味としても使われます。I want you! というのが恋人に囁きかけてる言葉だったら、いいニュアンスにもなりますが、私はあなたに欠乏している、としたら依存だと分かりますね。

人は何かを欲するからこそ、それを求めて成長するのだという考え方があります。確かに何も求めなければ、何も手に入れることはできないというのが一般的な見方ですね。

あの学校に入りたいから、一生懸命勉強する。あの人に好かれたいから必死でギターを練習する。素敵なマイホームを建てたいから、まじめに仕事をする、などは当然ですね。

そういった欲する気持ちが、意欲となって人生を切り開いて行く原動力となっているとも言えます。それは確かにその通りなのですが、ではその結果どれだけ満足することができるかということを考えてみる必要があります。

自分が頑張った末に手に入れたもので、本当に自分の人生が幸せになったということはあるでしょうか?幸せとは永続的な心の平安です。変わらずに満ち足りているという自覚です。

本当の幸せは一過性の喜びのようなものではありません。自分が必要だと思って手に入れることができても、永続的な喜びを得られるわけではありませんね。

何かを欲して、苦労してそれを手に入れることを繰り返しているうちに、真に満たされることのないまま人生は終わってしまうことになるのです。

自分の外側に何かを求める、欲する気持ちは本当の自分に相応しくないとして、聖霊に差し出してしまうことです。本当の自分は、すでにすべてを与えてもらっているのですから。そのことに気付くことでしか、真の幸せはやってこないということです。

痛みの正体 その2

昨日のつづきです。

物理的な痛みは絶対的なものではないし、受け入れるだけで緩和されるものだというお話しをしました。なぜ受け入れることができると、緩和する可能性があるのでしょうか。

それは痛みを起こす目的が、分かって欲しいという訴える気持ちの表れの一つの形であるからだと言えるからです。痛みを受け入れるとは、その何らかの訴えを受け入れるということに繋がるのです。

痛みを忌み嫌うものとして、敵対視してしまうのが普通ですが、反発も拒絶もせずにただ受け入れるという気持ちになれたとき、痛みを起こす元になっている訴える気持ちが受け止めてもらえたとして静かになるのだと思います。

常に身体のどこかが調子悪い、あちこちが痛いという自覚症状がある場合には、よくよくこのことを見つめてみる必要があるはずです。

例えば、行きたくないところに行かなければならなくて、それが比較的遠い場所だったりすると、普段よりも過度の疲労を感じたり、歩いていて足がひどく痛くなったりするものです。

でも同じ距離の場所でも自分がとても行きたくて仕方ないところだったりすると、疲れもしないし足も痛くなったりしないということがあります。

子供のときに、おもちゃ売り場にいるときは全く疲れないのに、親の買い物について歩くだけで身体がだるく感じたのを覚えています。

痛みはいやなものだという固定観念を一度リセットして、痛みと友達になってみようとすることです。痛みは幼い子供のようなものです。突然機嫌を悪くしてみたり、駄々っ子のように言うことをきかなかったりで、翻弄されてしまいがちですが、裁く代わりに愛を持って接してあげることです。

痛みを味方にするくらいの気持ちで、何かを訴えるその気持ちをただ受け止めてあげることです。本当にそれができると、きっと痛みは消えて行くはずです。痛みというものには、元々実体がないのですから。

痛みの正体

最近の医療では、ペインコントロール、つまり治癒させることだけではなくて患者の痛みを取ることの重要性も取り上げられるようになったようですね。私たちが病気のことを思い浮かべて一番困るのはやはり痛みなわけですから当然かもしれません。

痛みがなければ、病気や怪我はそれほど怖くはなくなるはずです。昔から痛みというのは一体何なのだろうというのが自分の中の疑問の一つでした。

痛みには身体の痛みと心の痛みがあるわけですが、個人的には大抵胃が痛いとか腰が痛いといった肉体的な痛みのことをいつも気にしていました。

そしてこの痛みというものを何とかできないものか、いつも考えていました。それだけ、痛みというのは自分にとって恐れの対象なわけですね。

コースと出会った事で、痛みも自分の投影として起こしているのだということがはっきりしたのですが、だからといってすぐに痛みを克服できるわけでもありません。

痛みは感覚ですから、やはり触覚の一つだと言えると思います。だからこそ麻酔を打たれれば痛みの感覚はなくなってしまいます。

ところが麻酔を使わずとも痛みを消したり抑えたりすることができる方法があります。深い催眠状態において無痛の暗示をかけることによって麻酔と同じ効果があることはかなり昔から知られています。

ただ催眠状態というのがかなりあやふやであって、100%の効果を期待できないということもあるために、医療の分野では使われないのだと思います。

しかし、比較的簡単な意識のコントロールによって痛みを抑えることができるということは、意外に痛みを克服するヒントになるかもしれません。

少なくとも、物理的な痛みというものは絶対的なものだという固定観念は捨てた方がいいはずです。痛みは怖いしいやだと突き放すよりは、ただただ受け入れることで若干痛みが緩和することは、誰でも多少経験しているのではないでしょうか。

つづく

心の戦争

昨日の8月15日は終戦記念日でしたね。正式には何と言うのか知りませんが、子供の頃は夏休みだというのに、登校しなければならない日だったと記憶しています。

戦争が終わってから60年以上経つ日本では、平和な国であることが当たり前のようになっていますが、世界中のあちこちで内戦や国同志の戦いが今も激しく繰り広げられています。

日本は幸運にも国同志の戦いの渦中にはありませんが、一人ひとりの心の中には戦争を起こす原動力であるエゴの防衛システムはいたって健在なものとしてあり続けています。

戦争は防衛です。自分を守ろうとする力、それは怒りや恐れですが、そういった強い感情が戦争を起こさせることになるのです。この日本でも、人と人の間にはいつも戦争が絶え間なく起きています。

ただ、私たちのエゴは表面的には互いに友好的な態度をとって、相手をけん制しあうような状態、つまり冷戦状態を常としているのですが、それでもひとたび何かきっかけになるようなことがあれば、一発触発の危険をいつもはらんでいると言えます。

私たちは本質的には、怒ったり怖れたりするような理由など一つもないのです。それは我々が本来愛そのものであるからです。エゴにそそのかされて、そのことをいつも忘れてしまっているために、防衛し続けようとしてしまうのです。

防衛しようとするためにエゴが使うネガティブな思いには、嫌われたくない、赦して欲しい、自分を愛して欲しいなどの気持ちがあるのですが、それは自分は嫌われる存在だ、赦されてないし、愛されもしていないといった自己嫌悪、自己否定が元にあるのです。

自分を赦して欲しいのなら、相手をとことん赦すことです。愛されたいなら相手を愛すること以外ありません。嫌われたくないなら相手を嫌わないということです。

自分が相手に与えるものがすべてそのまま自分に与えられるという根本法則を忘れないで、生活のどの場面でもそれを活かすことです。

そして相手に与えたくないと思うようないやな感情などは、すべて一度見つめた後で自分の心の愛の部分である聖霊に差し出してしまうことです。

すべての人の心がエゴから開放されない限り、真の平和はやってこないでしょう。

怖れは葛藤を生み出す その2

昨日のつづきです。

自分の心から葛藤をなくして幸せになるためには、自己防衛のかなめと考えられている恐れを手放すことが絶対に必要だというお話しをしました。

このことは、コースでいう、「防衛しようとしないでいれば安全でいられる」の言葉に通じるものがありますね。しかし、防衛しないで無防備になろうとしたって、それこそ恐れがあるから自分を守りたくなってしまうわけです。

恐れを選択しないという方法は、それこそ恐れがそれを妨害するため、恐れを選択したいという気持ちとの間の葛藤を生み出します。

我々は自分の身を守ることが自分への愛だと思っているのですが、それは全くの間違いです。自分への愛とは、自分は決して傷つかないということを思い出して、無防備になることなのです。

エゴが作ったこの地球上では、すべての生物は種の保存をその目的として棲息しています。自分が生き延びる目的は、子孫を残すこと以外にはありません。だからこそ、自分が生き延びやすいように恐れという感情が使われるようになったとしているのです。

怖れを感じるからこそ、身の危険を察知することができ、自己防衛をすることができて、その結果として種の保存の目的を達成しやすくなるという、エゴの論法なのです。

そのことに私たちはどれだけ騙されてきたことでしょうか。何度も繰り返して言うことになりますが、恐れは自己防衛のためではなく、愛からの分離、愛の欠如そのものでしかありません。

防衛しないこと、恐れのない状態に戻すこと、これこそが愛そのものであるからです。 癒しというのは、自分の心の中に巣食っていると思わされている怖れに気付き、それを見据えることで実際には光の当たらない闇の部分に過ぎなかったと気付くことなのです。

闇という部分はありませんね、それは単に光が当たらない場所のことを指すのみです。それと同じように怖れというものは実在しません。単に愛が欠如している状態を指すのみということです。

だからこそ、癒していくことで、つまり光を当てて行くことで怖れを手放していくことができるのです。しかし、怖れの正体とそのありかを隠すエゴの意識と、その意識そのものを表面意識から隠すという手段によって、通常の意識からは怖れと向き合うことが難しく感じられてしまうのです。

それは言い換えれば、心のどの部分に闇が潜んでいるのか探すことを難しくさせられているということです。その具体的な方法は、愛の欠如、愛からの分離というものを真実だとすることで、つまり大元の怖れを真実だとするために、それをひた隠しにしていると思い込ませられています。

そして、その隠した場所すら分からないように意識下に押しやって、その上に勝手に作り上げた死に対するニセモノの恐怖を新たにこしらえて隠すことを完全なものにしているのです。

恐れという闇に光を当てたいので力を貸してくださいと聖霊にお願いして、結果を委ねることにしましょう。

怖れは葛藤を生み出す

愛から分離したと思い込んだマインドは、その内側にエゴを生み出すことになってしまいました。ですからエゴの世界というのは、愛のない世界であるわけです。

愛だけが真実、実在するものであるなら、愛がない世界というのはまさしく正気を失った幻想の世界なのですが、その幻想の中でのみ愛の欠乏、つまり恐れに満ちている状態になっているのです。

従って、我々の住んでいるこの世界は怖れの世界であると言うことができます。そして怖れが心のベースを作っていると、その心が一つではいられなくなってしまうという事態が起きてきます。

それが葛藤です。葛藤とは相容れない二つ以上の意思が一つの心の中に同時に存在してしまう状態のことを言いますね。

例えば、人を赦したいのだけれど赦せないとか、一人で気ままな旅行に行きたいのだけれど、不安があって行けない、この仕事はもういやで辞めたいけれど、生活していくためには辞められないなど、いくらでも私たちが経験していることです。

これらの葛藤はすべて愛の欠如、つまり恐れが原因で起こるものです。恐れは愛からの分離を象徴しているため、すべてを分離するように導くのです。心そのものも例外ではなく、結果として怖れに占領されてしまった心は引き裂かれた状態になってしまいます。

赦したいのに赦せないのは、相手を赦すことによって自分の正当性を保持することが難しくなってしまうため、自己防衛のメカニズムがそれを妨害するのです。自己防衛は恐れから自分の身を守るためのものですね。

一人旅で自由を満喫したいけど、誰かと一緒じゃないと何かと不安があって楽しめないから実行できないというのも、一人は怖いという恐れが自由を邪魔してしまうのです。

自分の精神を守るためにいやな仕事を辞めたいと思っても、今度は生活を守るためには辞められないとするのも、こうなったらどうしようという予期不安、つまり恐れがあるからに他なりません。

このように、すべての葛藤は恐れが前提となって発生するものなのです。エゴの世界では、恐れがあるからこそ、自己防衛できると思っています。

人は怖いことには近寄ろうとしないし、恐怖という感情は自分の命を守るための大切なものなのだと思い込まされています。しかし、本当はその逆なのです。

恐れを手放すこと以外に、本当の意味で自分を守ることはできないのです。葛藤のない穏やかな心で生きて行くためには、恐れを選択しないことです。

どうしても恐れを感じてしまうのでしたら、心を据えてそれを一度正面から見てしまうことです。その上で、それをそっくり聖霊に差し出してしまえば、闇として存在していた心の部分に光が差し込んできて、もう闇は跡形もなく消えてしまいます。

恐れという闇がなくなれば、心は葛藤がなくなり、心の中が一つになるのです。それがすべては一つという想念である愛の状態なのです。

選択が難しいと感じる理由 その2

昨日のつづきです。

自分は愛を選択したいのに、思ったように選択できないのはエゴがそれを妨害しているからだというお話しをしました。エゴに洗脳されてしまうと、間違った愛を選択して、それが正しいと思うようになってしまいます。

そういった場合には、決して心の平安を得ることはできません。愛はすべては一つという想念です。真実の愛を選択したいと望めば、それは必ず叶えられるはずなのです。

例えば、身体の具合が悪かったり何らかの病気の症状が出ていてその苦痛を取り去って欲しいときに、この状態を選択したのは自分だ、その結果として症状が出てきているのだと認識するまではできますね。

そのあと、この具合の悪さを私は選択しません、と唱えるときに自分の心にエゴの要素が含まれていると、その選択はうまく機能しないかもしれません。

自分の身体のことだけを何とかしたいと願うのであれば、それはエゴだからです。自分の苦痛だけでなく、すべての人の苦痛を選択しないという気持ちが愛に通じるのです。そういった気持ちでの選択が大切だと思います。

相手が何かに苦しんでいるときに、自分がこれを選択してしまいましたが、もう選択しませんと唱える際、相手の苦しんでいる姿を自分がこれ以上見たくないがために選択しないとするのは、エゴです。

ただただこの苦しみから解放されることを選択する、ありとあらゆる同じような苦しみを持った人も同様に開放されることを選択するという気持ちで選択することです。

エゴが選択したものを、同じエゴが選択しないと宣言したところで、それはその時のどちらの意思の力が強いかで結果は異なってしまいます。

選択する時の自分の気持ちができるだけ真実の愛に近くなるようにすることです。そうすれば、実はエゴがどんなに強大なパワーで選択してしまったことでも、愛によって選択するという力が負けるはずはないのです。

自分はエゴを選択してしまっていましたが、今日一日、愛を選択しますと宣言するのはとてもいいことです。その時に上で書いたことを是非意識してみて下さい。つまり、自分はなぜ愛を選択すると宣言するのか、それがエゴから発していないかどうか、できるだけすべてはひとつという気持ちで愛を選択することです。そうすれば、きっとうまくいくはずです。

選択が難しいと感じる理由

こう毎日毎日、選択だ、選択しかないと言われ続けても、できないものはできないし、だからこそ困ってるんじゃないかと思われるかもしれません。そこをすっ飛ばして選択すればいいの一点張りでは無責任すぎるとお叱りを受けるかもしれませんね。

それは確かにそうですね。私自身もそれはよく分かっています。私たちが愛を選択できないというのは、愛を選択しない、もしくはしたくないという意思が裏で動いていて、愛の側に倒すスイッチを倒されないように握り締めている存在が自分の心の中にいるということです。

それが平たく言うとエゴなのです。一旦我々がエゴを選択してしまうと、今度はエゴがエゴそのものを永久に選択してもらうようにと我々をコントロールしてくるのです。その作戦にまんまとはまり込んでしまっているのが私たちだと言えます。

その様子は例えて言うと、生きる望みをなくして失意のどん底に落ちてしまったような人が藁をもすがる思いで、何らかの新興宗教に望みを託してみたところ、つまりそこの教祖さまを選択してしまった結果、ここはもういやだと思っても知らぬ間にそこから脱退できないようにコントロールされてしまうことに似ています。

もっとひどくなると、いやだということも分からなくなってここが一番すばらしいのだと、いわば洗脳されてしまうことにもなってしまいます。洗脳されてしまうと、脱退しようなどと思うことすらなくなってしまいます。

それこそ、エゴと自分の区別がつかなくなってしまっている状態と同じなのです。一体何を心の拠り所にして自分が正気なのか、何かに洗脳されてしまっているのか判断すればいいのでしょうか?

それは愛のことを思い出すしかありません。自分のありったけの想像力と叡智を使って、真の愛のことをイメージしてみて、それと自分の心の在り方がずれているならそれはすべて洗脳されているということです。

自分の心のスイッチが愛の方ではなく、もう一方の方に倒されてしまっていて、それを愛の方に倒し返す力がないとすると、一体どうしたらいいのでしょうか?

つづく

選択 その8

どんな人でも身体の調子がすぐれない時や、何となく具合が悪いなあということがありますね。私は、何のきっかけなのか自分でも分からないうちに、急に体調が悪くなってしまうことがあります。

といっても、その程度は重いわけではなく、ただ体調がイマイチだなと思うくらいなのですが、それでもそれによって気分もかなり変わってしまうわけです。

つまり、自分の気持ちが身体の具合によって大きく左右されてしまうという自覚があります。なんだか、さっきまでいい感じの心持ちでいたはずなんだけど、急に何とはなしに体調が変化してしまったために、いい気分ではなくなってしまうのです。

身体と心では、どう考えても心がご主人様のはずなのに、子分である身体の具合に親分の方が影響を及ぼされてしまうことに理不尽な思いがずっとありました。

ところが、最近その身体の具合の悪いときにこそ、それは自分の知らぬ間に選択してしまった結果でしかないということをすぐに思い出せるようになったのです。

そして、その後すぐにこの体調の悪さを今この瞬間にもう選択しないと心の中で唱えるのです。そして、少なくとも体調が悪くてもそのことに主人である心が影響を受けることを選択しない、いい気持ちを選択するとやるのです。

今までにはなかった発想です。だから、最初はとても無理なことを自分に強いているという感じもしていたのですが、習慣とはそういったことを変える力があるのですね。

少しずつ、確かに気分がよくなるようになってきました。体調が悪い→気持ちが暗くなる、という決まりきった図式を崩すことができてきたということです。

心が身体を支配しているのです。決してその反対ではありません。身体の体調が悪くなるのはただの結果です。その原因は心でそれを選択したということに違いありません。

そのことを忘れることなく、今日もただ力むことなく選択することにしましょう。うまくいけば、何の苦労もせずに快適な気分をすぐに取り戻すことができるのですから。

選択 その7

昨日のつづきです。

自分自身、選択という題名でこんなに続けて書くとは思っていませんでしたが、考えてみたら当然かもしれません。それは人生のすべてが実は自分の選択が招いた結果なんだということだからです。

あらゆることがこの選択の結果であれば、これほど重要なこともないからです。そして、自分が本当に選択できるのは、愛かエゴかの二択だということもお話ししました。

それが意味することは、自分が愛かエゴかの判別がつかないようなことについての選択はするべきではないということです。正しい判断というのは私たちにはできません。

そしてその選択は潔く放棄して、完全に聖霊に任せるべきです。聖霊はどんな選択についても、しっかりと愛とエゴを見分けることができるからです。

聖霊に委ねるということ自体、それは愛を選択するということを意味しますね。聖霊とは自分の心の中にある、神聖な部分、真の愛の部分を指すからです。

そしてもう一つ、覚えておいた方がいいことがあります。それは、抑圧と選択は表面上似ているということです。

例えば、私が怒りを選択しない、というようにして怒りから開放されたように感じたとしても、場合によってはうまく選択できなくて、ただその怒りを心の底に抑圧してしまっただけだったということが起こりえるということです。

特に、今までの人生でそうやっていやな感情をすべて心の奥に押し込んで何とか生きてきてしまった人にとっては、選択するということが難しく感じられるかもしれません。

自分は怒りを選択しないと意識したはずなのに、今までの習慣によって勝手にその怒りを抑圧してしまうだけにしてしまうということです。

怒りを選択しない、ということを上手にできた場合とそれを抑圧してしまった場合の大きな違いは、その後の心地よさです。表面的はどちらも怒りから解放されたかのように振舞うことができますが、心の中は全く違うのです。

選択した後、いつも気持ちがいいのかどうかを感じてみることです。選択は繰り返し実践することで必ずうまくできるようになるはずです。それは単なる心の訓練です。辛い苦行のようなものではありません。

毎日実践して習慣化できるようになるといいですね。