ゲーム感覚

もう20年以上前のことですが、あるセミナーに参加して戻ってきた友人が、やたら明るく人生はゲームのようなものと言っているのを聞いて、ピンと来なかったのです。

というよりも、何だかちょっと不真面目な感じがして気分を害したようになったのを覚えています。

あれって一体何に反応していたのかなと思い返してみると、きっとあの頃の自分は今よりもずっと物事を真面目に捉えて生きていたのだなと思うのです。

正しくあろう、正しく生きているという自負を持ってもいたのかもしれません。だから、ゲームとは何だ、けしからんとなったのでしょう。

今なら何事においてもゲーム感覚というのが大切だと理解できるのです。それは決して人生を軽んじているわけではありません。

ゲーム感覚というのは、深刻にならないという感じですね。深刻さは恐れからやってくるものなので、波動が低い感じがします。

ゲーム感覚というのは、それよりも楽しむことを重視しているという感じなので、恐れよりも愛が多く含まれている感じがします。

いつかは必ず終わるゲームであるなら、正しさよりもできるだけ瞬間瞬間それを楽しむことの方を大切にしたいものですね。

マインドは興味深い

日々クライアントさんとのセッションを通して、人間のマインドの仕組みについて深い学びをさせてもらっています。

学びというのは知識を増やすというよりも、深い理解を得るということの方が大きいと思っています。

最近は、年老いた母親からもマインドのカラクリを教えてもらう機会が増えてきています。先日のブログでも少し触れましたが、それはもうなかなか興味深いものです。

昨夜の母親の訴えは、毎日通っているデイサービスの施設で、自分一人だけお弁当がなくて食べられない、という悲しい物語でした。

その施設では毎日日替わりでお弁当が出るのですが、どうも各自でお弁当を持ってきていると思っているらしく、自分はお弁当を作ってもらっていないと。

だから毎日お昼ご飯を食べられずにいるということでした。完全な妄想の世界の話しではあるのですが、本人はそれが事実だと思い込んでいるので、その気持ちを思うと辛いものがありますね。

母親のマインドを分析すると、元々ある潜在意識の中の不安を使って、夢の中でその不安のネタとなる物語を作り出すわけです。

そして、うたた寝から目覚めた時に記憶のない現実よりもその夢の内容が事実だと思い込んで、本気で困るという事態を引き起こすのですね。

30分ほど母親の話しを聞く中で、半分は共感につとめ、残りの半分は母親の理性を使って自らの矛盾に気づくように促すのです。

そしてようやく理性の方が優勢になったところで、安心して寝てもらうのですが、毎日気づかせてもらえることに感謝ですね。

幸福をぶち壊す

マインドというのは、幸福をぶち壊す仕組みを持っています。今日はこのことについて、書いてみようと思います。

私たちはいつも昨日よりも今日、今日よりも明日はもっと幸せになりたいと願っているのです。

そこまではいいのですが、そのくせ幸運にも幸せに恵まれてしまうと、すぐに明日は大丈夫だろうか?という心配を生み出すのです。

そうやって簡単に今の幸せをぶち壊しにかかるわけです。そんなことを考えても何の足しにもならないはずなのに。

その理由はこれまたシンプルなのですが、マインド(自我)というのは幸福を渇望しているその裏で、そこから落下することをとても恐れているのです。

この世界というのは、いつまでも続くものなど一つもないのです。この事実をしっかりと見つめつつ生きること。

これが宇宙の原理であり、ここから解放される手段はありません。だとしたら、手に入った幸せに執着しなければいいと分かります。

けれども執着をしてしまうのもマインドの特性の一つです。ということで、マインドというのは決して救われることはありません。

ただし、マインドを見つめる側(観照者)になるなら、マインドそのものから解放されることになりますね。

誰もが多重人格

私たち一人ひとりは、ひとまとまりの存在としての体を保ってはいるものの、その中身は非常に分裂しているのです。

あなたが例えば、自分とは◯◯だと言ったとしたら、それはあなたのほんの一部だけを切り取っているに過ぎないのです。

私自身のことを説明するとしたら、私は日本人の男性で、年齢は◯◯で、何処そこに住んでいて、仕事はこれこれです、とは言えます。

けれども、自分の内面を見ればすぐに明らかですが、そんな表面的な言葉では到底説明しきれていない他のものがウヨウヨいると分かるのです。

ちょっと恥ずかしがり屋で女の人が好きな赤ちゃんの自分や、負けず嫌いのくせに弱虫で怖がりの男の子だったり。

要するにこれまで生きてきた自分が一通り全部残ってるわけです。その上で、ほとんど表面には出てきていない人格もいます。

そうしたもののごった煮のようなマインドが、人間としての自分の本性なのです。これは私に限らず、誰でも同じようなものです。

ただこの社会の中で変に思われずに生きていくために、都合の悪いものは奥に仕舞い込んで体裁を作っているに過ぎません。

これがマインドのリアルなあり様です。内側を深く見つめれば見つめるほど、そのことに気づくことができるのです。

ただし、自分をありのままに見守る自分もいて、それがマインドの外側に在る自分の本質(意識)なのですね。

意識(観照者)を思い出す

人生のあらゆる瞬間、あなたが何をしようと何をしまいと、あなたの本質はその外側にい続けるのです。

それはあたかもロールプレイングゲームのように、ゲームの中で活躍する自分とそれを見ている自分にわかれるのです。

どんな人生を生きようと、あなたの本質がそこで傷を負うなどということは決してないのです。

それはどんな血生臭い物語の映画を見ようと、それをただ鑑賞しているあなたが傷を負わないのと同じことです。

だから自分の本質は意識(観照者)だと気づくことができれば、何も解決すべき問題などないと気付けるのです。

意識(観照者)はこの時空の次元の中にあるわけではありません。その上の次元のものなのです。

じゃあどうしたら、その次元の感覚を蘇らせることができるのか、それが分かればいいということになります。

解答はたった一つ、毎日意識的であり続けるように心がける努力をすること。これしかないのです。

どんな悲惨な事件が起きようと、どれほど自分が惨めだと思えたとしても、そういう物語をただ観照しているだけの自分に気づくことができれば、そこにあるのは至福だけなのですね。

他人のことはほとんど知らない

私たちは日頃他人のことをみるときに、その人のごくごく一部しか見えてないということを忘れてしまいがちなのです。

例えば、クライアントさんがセラピストの時の私だけをみて、この人はきっとこういう人間に違いないと作り上げるのです。

芸能人や有名人を見る時にも、同じようなことをやっていることに気づきますね。あの人はいつも誠実な態度で、いい人に違いない。

あれだけ演技がうまいのだから、芸人として立派な芸を持っているから、ミュージシャンとして一流だから。

そんな素晴らしい人なのだから、きっと◯◯に違いないと思い込んでしまうのです。そうやってたった数パーセントだけを知っているだけであることを忘れるのです。

そして残りの90数パーセントの部分を勝手に作り上げしまうわけです。そして作り上げてきた部分と違う人だと気付かされると、裏切られた感じがしてしまうのです。

こんな身勝手な話しはないですね。アスリートとして超一流だからこうに違いない、いつもニコニコしているから穏やかな人だ等々。

他人に対して見えていない部分、知られざる部分に関しては一切の予想や期待をせずにいられるように注意することです。

それができたら、その人が自分の知らない部分を見せてきた時にも、裏切られた感がやってくることもないはずですね。

瞑想中は全ての意味が消える

クライアントさんの中には、幼い頃の記憶がほとんどないと言われる方が時々いらっしゃいます。

その度に、マインドの裏事情をご説明するのですが、つまりは記憶そのものは特別な事故でもない限りは、決して消えないということ。

その上で、その記憶の内容が本人にとって都合の悪いものであると、潜在意識がそれを思い出さないようにしてしまうということ。

無自覚ではあるのですが、思い出そうとしないだけで記憶が喪失してしまったということではないのですね。

一方でそれとは全く異なるのが、瞑想状態で起きていることなのです。瞑想中は思考から離れた状態になるため、記憶を思い出すことがありません。

けれども、それはただ思い出さないだけではなくて、思考がなければ記憶は無意味になるということ。ここが違うのです。

マインドが落ちた状態においては、記憶が残っているとか残っていないということに意味がないということです。

それは認識しない限り、存在の有無に意味はなく、ただ不定ということと同じなのです。

ということは、このブログの内容も読んでいる時には意味を持つのですが、瞑想の中ではどのブログの記事も何の意味も持たなくなるのですね。

意識的であることの重要性

先日の深夜、階下にいる93歳になる母親に呼ばれて、何事かと思って行ってみたら、国民学校に行っていたが卒業証書をもらってないので困っているとのこと。

落ち着いて聞いてみると、国民学校というのは遥か昔(80年以上前)に通っていた小学校のことかなと。

きっとベッドで寝て目が覚めて、夢と現実がグチャグチャになった状態で、不安だけが大きくクローズアップされたのだろうと。

私自身も未だにあるのですが、夢の中で大学の授業にあまり出ていなかったことで、中間、期末試験をどう乗り切ったらいいのかという不安と焦り。

夢から覚めてしばらくして、ああ今はもう学生ではなかったと思い出して一安心するのです。

母親は、短期記憶がないので小学生の頃の記憶ばかりがクローズアップされてしまい、現在の状況を思い出して安心することができずにいたのでしょう。

その時の母親の状態を見てもわかるのですが、夢の中であろうと夢から覚めていようと、完全に無意識の状態であると言うこと。

もしも母親が若い頃から意識的であることを心がけて生活してくれていたら、どうなっていただろうと思うのです。

きっと記憶力が欠如してしまったとしても、意識が目覚めた状態でいれば今この瞬間にいることができるので、問題はなかったのではないかと。

人生で一番大切なことは、何をしたかと言うことではなく、いかに意識的であったか、観照者としてあったかと言うことなのだと思いますね。

大きな落差がショックを生む

人が真に求めていることとは、自分の気持ちを受け止めてもらうこと、分かってもらうことなのです。

それは必ずしも希望を叶えてもらうこととは違うのです。ところが、ここのところの違いをしっかり把握できていないことがままあるのです。

例えば、親が子供の気持ちを受け止めるということと、子供の言いなりになってしまうこととは、全く異なることだということです。

子供のどんな言葉であれ態度であれ、親がそれを受け止めてあげることは最上級のプレゼントなのです。

一方で、子供の言うことを何でも聞き入れて言いなりになってしまうことは、百害あって一利なしなのです。

なぜなら、子供のその王様のような環境というのはそう長くは続かずに、いずれは現実を知ることになるからです。

その時に、その落差を体験することで子供はひどく惨めな思いをすることになり、受け入れ難いと感じてしまうのです。

これは悲劇を生みますね。成長して大人になっても、心の奥にはその時の惨めさ、ショックが色濃く残ることになるのです。

一番辛い思いをするのは、本人なのです。誰もそれを助けてあげられないのです。本人自らそのことに気づいて、過去の傷を癒す努力をする必要があると言うことですね。

起きることが起きる

私たち人間は、自分の人生を自分の意志と決断によって、自由にコントロールしていると感じています。

確かに私自身もこれまでの様々な人生の場面で、その時々においては、自分の判断や決心によって、人生を切り盛りしているという実感があったのです。

ところが、今になってあらゆる人生の場面を思い出してみて分かるのですが、自分が舵を切ってきたという感覚が乏しいのです。

何か新しいことを思い立つことがあったとしても、それがどこからやってきたものかは不明のままなのです。

その都度、選択して決心したと思ってはいるのですが、すぐ後になってそれがどのようにして起きたのかは皆目分からないのです。

こうなると、もう誰が何と言おうとただ起きることが起きるのだとしか説明することができないのです。

そしてきっと、この先の人生も違いはないはずです。だとしたら、過去へのどんな後悔もできないし、未来への不安もバカバカしいのみです。

結局、大船に乗ったつもりで悠々と日々を過ごすことしかできないということになり、それは本当に恵まれているということですね。