カルマは実在しない

みなさんも「カルマ」という言葉をご存じだと思います。あまりいい印象を感じられないのは私だけでしょうか?

カルマというのは、要するに「過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる。」という因果応報の法則のことです。

自分の身に何か都合の悪いことが起きると、これはカルマを解消していないからだというように考えたりするわけです。

輪廻によって何千年も何万年も生きてきたとしたら、それは誰だって良い行為も悪い行為も無数にやらかしてきたわけです。

一体どうしたら、完全にカルマを解消することができるのか?都合の悪いことが起きるたびに残っているカルマのことを考えるのは、かなりバカバカしいと思うのは私だけでしょうか?

そもそも良い行為とか悪い行為というようなものが、この世界に本当に実在するでしょうか?

そのように良し悪しを判断するのは単に思考でしかありません。つまり、思考の中にのみ在るように思えるだけなのです。

ということは、カルマは思考、自我の世界でだけ通用するということです。瞑想状態になって思考から解放された瞬間、カルマのカの字も消えてしまうのです。

実際、自我が落ちて覚醒してしまうときには、あらゆるカルマが一斉に燃えて全てが灰になってしまうのですね。

だからもうカルマに怯えるのはバカバカしいことだと気づくことですね。

人生の節目

何事にも節目というものがやってくることがありますが、人生にもやはり節目というのがやってくる時があるのですね。

節目というのは、“物事における区切りとなる大切なところ” という意味です。ここで、「大切な」というところが特に重要なのです。

ただの区切りであれば、わざわざ節目などと表現しなくてもいいからです。では節目の大切さとは一体なんなのでしょうか?

それは、これまで自分ではいくら頑張っても変えることのできなかったものが、その節目の威力によって変化させられてしまう、と言ったことです。

例えば私の場合であれば、全く望んでいないにも関わらずガンを患ったことがあって、それが人生の節目になったのです。

人生をより良い方向へと向かわそうとしても自分の力ではどうしていいの分からなかったのですが、病気によって勝手に新たな方向へと舵を切ることになったからです。

大抵の場合、人生の節目で起きることは、本人にとってはあまり歓迎できるようなことではないかもしれません。

病気になって身体を壊してみたり、仕事がこれまでのようにうまくいかなくなってみたり、大切な人との別れがやってきたり…。

そうした苦難がきたときには、人生の節目としての大切な気づきがやってくる可能性が高いのだと思えばいいのですね。

孤独から逃げない

私たちの本質は純粋な意識であって、それを全体性の感覚として体感することができるようになると、世界が変わって見えてきます。

その一方で、この世界で自我として生きているつもりであるなら、私たちは完全なる孤独、どんな環境においても独りなのです。

多くの人々が、このどちらも認めることができずに生きているのです。特に、絶対的に独りだということはみたくないのです。

そのために、家族、友人、パートナー等々の孤独を紛らしてくれる人々を周囲に必要とするのです。

これは私の考えですが、独りであることを100%認めるためには、その真逆の全体性の感覚を持っていると非常に有利なのです。

なぜなら、自我の孤独というのはかりそめの姿の一時的なものでしかないと理解することができるからです。

自我が消えて全体へと吸収されてしまえば、孤独というものは意味をなさなくなってしまうからです。

もしも私たちが自我の孤独から逃避することがなくなったなら、つまり孤独を紛らすための他者依存がなくなったなら、誰かと共にあることの問題が消失していく可能性が大でしょうね。

内奥の中核に目覚める

osho の次の言葉を一緒に見てみましょう。

『あらゆるものがすばやく過ぎ去ってゆく、それは流転だ。私たちは朝露に似ている–太陽が昇ると、私たちは消える。それが起こる前に、ただひとつのことをやりなさい、あなたの内奥の中核に目覚めるのだ。朝露が消える前に、あなたの内奥の中核に目覚めなさい。』

↑これを読んだだけでも、すごく穏やかな中心が据わるような気持ちになることができます。

あらゆるものがすばやく過ぎ去っていく…、これは気持ちがいいですね。どこにも留まることなく、執着なくスムーズに過ぎていくのですから。

仕事をしている人にとっては、仕事が順調であったり、人生がうまくいっているときは幸せな気持ちになれるものですね。

けれども、それとは全く次元の異なる深々とした至福感というものがあって、それはこの世界で起こるどんなものとも関連がありません。

生きている間に、あなたの内奥の中核に目覚める…、その次元を体感することこそが最大の気づきであり、唯一の起きるべきこと。

人生は思いの他短いのです。太陽が昇ってしまえば人生が終わり、朝露のように私たちは消えていくのです。

そのほんのわずかな間に、内奥の中核に目覚めるなら、再び朝露としてやってくることもなくなるのでしょうね。

バカバカしさに気づく

私たちは毎日の生活の中で、物事を善悪や正不正のような概念を使って判断するように習慣づけられてしまっています。

あの人の行いは良いことであり、また別の人の行為は悪いこと、のように評価しています。

だからこそ、申し訳ないことをしたなと思えば、得意の罪悪感に苛まれることになるし、不正を正さねばと感じれば深刻な気持ちになるのです。

けれども、この世界には悪いことがあるのではなく、バカバカしいことがあるだけなのだと気付けばいいのです。

そこに合点がいけば、何であれ深刻になることも激減するはずです。あるいは罪悪感もそれほどは気にならなくなるのです。

昨日のブログの記事をここで持ってくるなら、最も表面的な私の自我さんは結構真面目で、時として深刻になったり罪悪感をつらく思うこともあるのです。

ただ、その奥にある自我はあらゆることの中にあるバカバカしさに気づいているので、かなりの部分を達観することができるのです。

そして最後の意識に近い部分は、起きることがただ起きているだけだという淡々とした見方をしているので、善も悪も消えている状態なのですね。

内側をしっかり見つめる

クルマを運転していると、歩行者や自転車などの交通ルール、マナーを無視した姿を見かけることが多くなったように感じています。

基本的には、もしも自分が歩行者や自転車の側だったなら、運転者がなるべくブレーキをかけずに済むように心がけると思うのです。

けれども実際には、1日のうちに何度もブレーキをかけさせられてしまうのです。そしてそのことに対して歩行者自転車組は何も感じていないようなのです。

運転しながらも、私の自我は密かになんで平気なのだろう?と憂う気持ちになるのです。他にもあります。

ウクライナの悲惨な状況を見れば、明日は我が身だと分かるはずなのに、非核三原則は絶対に守らねばならないという、政府の方針にも呆れてしまうのです。

そして私の自我はそんな政府を絶対に許してはならないと息巻いているのです。こうした私の自我は、至極まじめに日本人の内面を心配しているのです。

この自我は私の自我の中でも一番表面的なもので、曲がったことが大嫌い。日本人よ、目覚めなさい!と言っているのです。

ところが、そうした自我の後ろ側にはもう少し冷静な自我があって、それは表層の自我に対して、「気持ちは分かるよ」という感じで余裕があるのです。

そしてさらにその後方には純粋な意識に近い部分があって、そこはただただ見守るのみなのです。

大雑把に分けて、この三つの部分がそれぞれの立場から同時に一つの人生を見つめているというのが私の内側なのです。

みなさんの内側もどうなっているのか見てみるといいです。それを見ようとするだけでも、人生に飲み込まれないようになる効果があると思いますね。

恐怖に負けると損をする

私たちは知らないものに対して主に二つの反応をするようです。一つは、それを恐れ、もう一つは好奇心を抱くのです。

知らないということは危険だと判断するなら、それを恐れることになるのです。一方で、知らないということで新鮮さを感じるなら、そこに興味を持つわけです。

その二つの反応のうち、自分はどちらをメインに使って生きているのか、よく見つめてみることです。

概して敏感なタイプの人は、怖がる傾向が強くなるのかもしれませんね。敏感ではない人の方が、面白がることができるとも言えます。

ところで、この二つの反応というのは、もしかしたらどちらか一方だけというよりも、常に同時に起きるのかもしれません。

その際、恐れが強い人はその恐れが際立ってしまうために、好奇心が影に隠されてしまうだけなのかも。

要するに、恐れの大きさ、あるいは恐れに対して必要以上に拒絶感を持たなければ、好奇心や興味が際立ってくるということなのでしょう。

ということは、恐れに立ち向かっていく傾向をより強く持つことができるなら、未知なるものに対しての探究心をいつも感じられるようになるのですね。

なんだか今更ながらですが、怖がりの人の人生がなんとも勿体無いものに思えてきましたがどうでしょう?

哲学は自我のゲーム

大学生の頃まったくの趣味で、ある哲学書を読んでいた記憶があります。それは、フッサールという人の「現象学」という本でした。

何やらとても難しいことがまた面白く感じたりして、自分はこんな難解な本を読んでいる、ということで悦に入っていたのだと思います。

とはいうものの、思い返せば「存在」ということを探求していたのだろうなと思うので、今自分が感じていることと関連がないわけではないかなと。

けれども、今と全く違っていることが一つあって、それはどれほど思考を巡らして存在の究極に迫ったとしても、それはただの思索に過ぎないと分かってしまったのです。

その思索が止んだ時に初めて、真理の近くにいくことができるのです。人類史上フッサールのように天才と言われた哲学者は数多くいます。

ただ彼らの誰一人として覚醒した人はいないのです。それは当然のことであり、哲学はどこまで行っても自我のゲームに過ぎないのですから。

哲学者が瞑想をすることで、それまでの思索が馬鹿馬鹿しいものだったと気づくことになったら、それはそれですごいことだなと思うのですね。

執着と理解は反比例する

一般論としても執着は良くない、ということは分かっているのですが、それでもマインドというのはすぐに執着してしまう傾向が強いのです。

執着というのは、しがみつきのことなので、執着の対象に対する距離がゼロになってしまうのです。

密着して距離がゼロになってしまうと、それを見守ることができなくなってしまうのです。悪くすれば同化してしまうこともあり得ます。

見るためにはある程度の距離が必要だからです。そして対象を理解するということは、距離を置いて見ることが必須なのですね。

結果として、執着してしまうと理解することができなくなるということになるのです。「執着大=理解小」ということ。執着と理解は反比例するということです。

マインドというのは、不安から執着心を起こして、物事を深く理解することを妨げるようにするのです。

私たちの誰もが自分自身の内面を深く理解できずにいるのは、自分自身に強く執着しているからだと言えるのです。

意識的であろうとすることは、自分の内面を見ようとすることであり、その結果マインドとの距離ができて、理解を深めることに繋がるわけですね。

満ち足りたら消えてしまう

以下の osho の言葉をじっくり味わってみてください。そして、それを自分の身に当てはめることです。

『マインドは満ち足りると存在できない。それは飢えていなければ存在できない。マインドは飢餓状態でなければ存在できない。あなたが、すっかり満たされ、渇望も飢えもなく満足していたら、マインドは朝日のなかの露のように消える–あなたは二度とマインドを見出すことがない。』

いまだにあなたの自我(マインド)が健在であるとしたら、それはあなたが満ち足りていないということです。

つまりは、世界中のあらゆる人について、その人が個人として生きているつもりになっている限りは、その人は満ち足りていないということ。

だからどれほど羨ましいと感じる人がいたとしても、その人もあなたと同様に満ち足りてはいないことを思い出せばいいのです。

あなたの自我(マインド)は何が足りないと訴えているのでしょうか?そのことにしっかり気づいてあげることです。

愛が足りないと思っているのか?認めてもらうことが足りないのか?楽しいことが足りないのか?お金が足りないのか?充実感が足りないのか?

何が足りないのかは人それぞれなのです。その足りなさこそが、あなたの自我の生命線だったということです。

そうしたことをひた隠しにしつつ、私たちは自分が満たされるためにはどうすればいいのかで日々闘っているのです。

その馬鹿馬鹿しさにつくづく気づいてしまえば、あとは力が抜けてちょうどいい具合に人生を楽しんでいられるようになると思いますね。