「見る」ということのもう一つの体験

私たちは普段、自分の周りにあるものを見るときに、そこに光が介在しているということを忘れてしまい、見える通りにそこに見ているものがあるのだと思い込んでいます。

けれども、実際にはそこにあるものを見ているのではなくて、それに光が当たって反射して返ってきた反射光をただ見ているに過ぎません。

私たちが見ているのは、どんな場合にせよ光なのです。光以外のものを見るということは不可能なことです。それは、まぶたを閉じてしまえば何も見えなくなるので明らかです。

肉体の目に入った光を脳が感知して、その光を「見える」というように認識しているのですね。これが、主体と客体による観察をベースとして成り立っている科学による論理的な説明です。

こうした科学の説明は、確かに正しいのですが、それはあくまでも2人称、3人称の世界での話しです。本当は、それとはまったく異なる真実もあるのです。

真実は、常に1人称の世界です。肉体の目でそれ自身を見ることはできないということでも、知覚の限界、つまり科学の限界を簡単に知ることができます。

あくまでも1人称で自己を深く見ていくと、自分が透明な大きな目であるということが分かります。その目は、外の世界を見ているのではなく、自分自身を直接見ているのです。

直接という意味は、へだたりがないということ。自分自身との隔たりなどあるはずがありません。それは不可能なことです。直接見るためには、光など必要ありません。

私がいつも「見る」と言っているとき、この直接的な体験のことを意味しています。つまり、「見る」とは自己に気づいていることなのです。

あなたが何かを見ている時、それは肉体の目で知覚しているのと同時に、あなたの本質がそれ自体を体験しているのだということに気づいていることです。

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