人の関心は物語性に向く

人はどんなことに対しても興味を持って見ることができる能力があります。それはどんな時かといえば、対象となる物事に物語性を同時に見い出せる場合なのです。

事実がただ淡々と目の前に現れ続けても、そこになんらかの物語性を感じることができなければ、心が動かされることがなく、つまらない対象でしかありませんね。

本当は、物事はただ起きているだけです。それ自体には一切の物語性など存在することはありません。

けれども、そこに思考という解説者が現れることによって、自由自在の物語を作り出すことができるわけです。

私の子供の頃、あれほどまでに歴史という教科が嫌いだった理由は、もうはっきりしています。それは、歴史の中に物語性を見出すことができなかったからです。

それを学校の授業や教科書のせいにすることは簡単ですが、本当の理由は私自身が自分のことにしか興味を持つことができなかったというのが真の要因です。

そうであれば、授業は退屈であって、苦痛でしかなかったのですね。けれども、その歴史の中に物語性を見出すことができるようになって、その感覚は一変してしまいました。

私が今一番関心を持ってみている物語とは、日本人の思いの変化です。戦前までの日本人が全体主義的であったとするなら、戦後は個人主義的傾向が強くなったのです。

その変化は、まさにドラマチックというのか、理不尽というのか、とにかく物語としては非常に心に迫ってくるものがあります。

日本が関わった戦争が侵略戦争だったと誤解することで、日本の軍国主義を否定している平和主義者が大手を振って生きている時代が今なのです。

有色人種の中で、唯一白人の人種差別に真っ向から立ち向かった日本、命を投げ打って戦ってくれた先達には感謝してもしきれません。

それなのに、そういった事実を全否定するような戦後の教育と、それに洗脳された戦後の日本人のマインドを思えば、これほど理不尽きわまりないこともありません。

ここに、とても大きな物語性を感じずにはいられません。こんな見方ができるようになったのは、間違いなく本当は物語などはないということがベースとしてあることが分かったからなのだと思うのです。

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