個人という不可思議な思考

この世界で最も理不尽で風変わりな思考は、個人としての自分がいるという思いです。このことは、少し踏み込んで物事を見てみれば分かるのです。

例えば、自分には存在価値がないと感じるとしたら、それは自分がここにいるという思いが前提となっているのは明白です。

あらゆる感情的なものを脇に置いて考えてみれば、存在に価値があるとか価値がないなどということ自体、無意味なことだと分かります。

なぜなら存在に点数などつけられるわけもなく、存在はただ存在しているだけなので、評価対象とはなり得ないからです。

ところが、個人として存在する自分というものが確固としてあると思っているからこそ、自分という存在に対する価値判断をしてしまうことになるわけです。

もしもあなたが、どうして自分の人生はこうなんだろうとか、私は今回たまたまこの家に生まれたと思っているなら、それも個人としての自分がいるという思考が招いた「まやかし」なのです。

小麦粉をこねて、様々な型に入れていろいろな形のダンゴを作るとします。あるダンゴは球型になり、別のダンゴは星型になり、また楕円形のダンゴもできるのです。

仮に一つひとつのダンゴに自我が芽生えて、自分はなぜ球型なんだろうとか、私はたまたま星型に生まれたなどと言うかもしれません。

けれども、そもそも大きなひと塊りの小麦粉を、いろいろな型に入れて作っただけであって、なぜ?だとか、たまたま、などという問題ではないのです。

あなたは、たまたまあなたになったわけではなく、あなたという個人はいないというのが真相なのです。伝わればいいのですが…。

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