梯子のことは忘れること

仏教の教えによると、悟りというものには段階らしきものがあるそうで、全部で52段なのだそうです。

そして最上級である52段目の悟りを得たものは、お釈迦様しかいないのだそうで、それを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と表現するそうです。

ブッダが最上級の悟りを得たということに異論はありませんが、それ以外の人はそこまで到達したことがないというのはどうなのでしょう?

さらにいうと、物事には段階があるという概念は、自我のものだと思うのです。自我はレベルという考え方が大好物なので。

完全に自我が落ちるという意味での悟り、覚醒にレベルがあるというのは私にとっては不自然な気がしますね。

osho も次のように言っています。「エンライトメント(覚醒)は梯子の最終段ではない。

覚醒は梯子から降りること、永久に降りて、2度と梯子を求めないこと。自然になることだ…」と。

一つはっきりしていることは、覚醒してしまったら覚醒などというものはないというところにいくのでしょうね。

2 Replies to “梯子のことは忘れること”

  1. OSHOは、覚醒する準備は出来るが段階的に覚醒に近づくことは出来ないと言った旨のことを言ってますね。
    坐禅中に居眠りしてた人に向けられた注意を横で聞いてて核心を得た道元、カラスの鳴き声で気づいた一休、そしてただ座ってリラックスしていた仏陀。
    悟りを開いた瞬間のエピソードに共通してるのはそれは突然起こり、起こるきっかけは何でもないことだったりしてて興味深いです。
    幸せの青い鳥のように気づけばすぐそこに当たり前にあったものなのかもしれませんね。
    気づくに至るまで猛烈な求道心でそれぞれの方法で一生懸命なのも共通してるポイントですが、それが準備になってたのかな?とか思いますけど、古今の覚醒したとされる人のエピソードが伝わってる現代において、そこまで肩肘張らずに遠回りする必要はないよと教えてくれてるように感じてます。
    梯子を登るような努力の幻想を脇に置いてOSHOの言うように究極の自然でいられるようにリラックスしていることが一番の近道な気がする今日このごろです。
    ま、自らリラックスから遠ざけようとしてしまうのが凡夫の凡夫たる所以ですが…

  2. 自力から他力に移るときは瞬間的だということですね。自我の力で自我を滅することはできないという当たり前のことかもしれません。

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