直接知るとは?

私たちはこの世界の物事のことをどうやって知るのでしょうか?私はあなたの名前を知っているというような表面的なことだけを話題にしようとしているのではありません。

もっと本質的なことです。例えば、「水」についていろいろな知識を持っていますね。しかし、それはあくまでも知覚によって体験したり、学習した結果として知ることになっただけです。

それは、水とはこういうものだとして概念化することによって知るということであり、またそれを基にして今手に触れているのは水だと認識するわけです。

ですが、本当にそれが水を知っていることになるのでしょうか?それは、厳密に言えば、知覚によって、そして思考による概念化、観念化によってただ情報として知っているに過ぎません。

それは私という主体が水というものを対象として知っている、分かっているということを指します。あるいは、他のものと水とを見分けることができるという程度のことです。

それは残念ながら間接的に知っているということを意味します。私たちが沢山の事柄について知っている、分かっていると思っていることとは、実はすべて間接的なことであり、それは信じているということと同義語なのです。

信じるとは、本質的には知らないことをそうに違いないとして、知っているということにしてしまう心の行為のことを指します。

もう少し詳しく言えば、信じるとは、一般的にはその裏に疑いの意識が残っている場合に使われる言葉ですが、疑う余地がない、あるいは疑う必要性がないときには、信じていることが知っているということに摩り替わるのです。

本質的には、自分自身が水そのものにならない限りは直接知るということは不可能なことなのです。では、主体である私は私自身のことを直接知ることができているのでしょうか?

そもそも直接知るということとは、主体がそれ自身を客体としてではなく知るということです。だとすれば、ほとんど何も自分自身について知らないということになってしまいます。

私が私自身のことを直接的には知らないとは、一体どういうことでしょうか?何とも奇妙なことだとは思いませんか?

結果として、私たちは自分以外のことも間接的にしか知りようがなく、そして私自身についても同様にして直接的には何も知らないのです。何一つ、知らない、分からない、これが真実なのです。

それはなぜかと言うと、直接的に知ろうにもその実体が何一つないからなのではないかと思うのです。だとしたら、この私とは一体何なのでしょう?

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