瞑想とは私が消えること

今月は、今日7日(日)と27日(土)の両日に、瞑想会をやります。といっても、いつものことながら、何か特別なことをするわけではありません。

ただ、集まった方々とご一緒に、しばらくの時間、目を閉じて心静かにしているだけです。無念無想などを目指そうとするものでもありません。

元々、瞑想というのは行為ではないのですから。もっと正確に言えば、瞑想という行為をしている誰もいなくなることです。

要は、自分がいなくなればいいのです。ですから、何も静かに座っている必要もありません。時には、踊ったり、飛び跳ねたり、寝転がったっていいのです。

踊っている自分がいなくなり、踊りそのものになってしまうということです。場合によっては、体を動かしているときの方が、よりリラックスすることで行為者である自分が消えてしまうという可能性もあるのです。

みなさんは、瞑想という言葉からは、おそらく思考を止めるというようなイメージが浮かんでくるのではないでしょうか?

実は、必ずしも思考が止まっている必要はないのです。繰り返しになりますが、思考が働いていたとしても、思考している自分がいなければいいのです。

「私」という思考が介在しない思考というものは、誰もがごく普通に経験しているはずです。たとえば、囲碁や将棋のプロの方々が対戦しているときなど。

いくつ先の一手まで見通すのか知りませんが、そうした予想というのも思考の働きによるものと言えますが、名人ともなると試合に勝ちたい、負けたくないという自己がいなくなっていることが多いのではないでしょうか?

「私」という思考が勝ち負けを意識するようになってしまうと、純粋な思考の邪魔をしてしまうために、勝てる相手に負けてしまうということもあるかもしれません。

楽器の演奏者の場合も同じようなことがいえます。演奏している自分が消えて、演奏そのものになれる人こそが、すばらしい演者なのだと思います。

それも瞑想と言えますね。うまく演奏できるかどうかという思考が発生した瞬間に、瞑想からはずれてしまい、芸術に水を注されてしまうかもしれません。

瞑想とは、このようにいついかなる状態であろうと関係なく、ただただ「私」(という思考)が消えさえすればいいということです。

こんなシンプルなことなのですが、「私」というのはシンプルなことほど苦手なのです。更に付け加えれば、瞑想などに興味もないという人もいるかもしれませんね。

その理由もいたってシンプルです。それは、「私」が常に存続していたいと思っているからです。けれども、苦悩の大元は間違いなく、「私がいる」という思考なのです。

「私」が消える瞬間、「私」を守ろうとする思考もなくなります。そのときにこそ、本質の自由と一つになることができるのですね。

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