退屈を徹底的に追求する

人は何もすることがなくなると、すぐに手持ち無沙汰というか、退屈な感覚に襲われてしまいます。その退屈って一体なんだろうかと考えたことがありますか?

退屈さを感じてみると、そこにはいろいろな思いや感情が混じっていることに気づかされます。例えば、何もしない自分には価値を見出せないという否定感だったり。

あるいは、少しの時間でも何もしないでいると、過去の思い出したくない事柄が頭に浮かんできてしまって都合が悪い感じがしたり。

また、何もしないでいる自分が、周りから取り残されていくような不安を感じるかもしれません。自分だけが生産的なことを何もしていないとか。

全く進歩をしていない自分への駄目出しだったり。ほんの少しでも時間を無駄にしてしまっているという罪悪感だったり。

こうして書いていて分かったのですが、何もしないでいると自己肯定感を感じにくくなると同時に、自己否定感がヒシヒシとやってくるようです。

つまり、人は自己否定感や罪悪感を隠すために、あるいは紛らすために何かをやっていたいと思っているのかもしれませんね。

表面的には、何か自分の好みの刺激を求める傾向があるということも分かります。これは、味のないものを食べるより、好みの味付けがされた食べ物を食べたいということと同じです。

つまり、快楽を求め続ける人間の習性でもあるわけです。最近、私は何もすることがなくなると、すぐに瞑想を始めるクセが出来上がっています。

本来、瞑想とは何もしない、瞑想している主体がなくなることがその目的なのですが、「瞑想している自分」がしっかりいるので、これも退屈から逃れる術として使っているわけです。

肉体的にはともかく、心理的にあるいは精神的にどんなに退屈でも何もしないでいるということの中にいてみると、どうなるのかなという興味があります。

そうした精神活動の徹底的な停止こそが、今まで自分が一度もやったことのないことなのだろうなと思うからです。

ただし、このことに興味を持っている自分がいる限りは、そこに精神活動が存在してしまうのでそれもやめることになるのですね。

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