リーダーシップ

この日本では民主主義の原理が基本となって社会全体が成り立っていますね。民主主義とは、「個々人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。」ということだそうです。

それぞれの人びとが自由に発言して、最終的には多数決を持って物事を決めていくというものです。それが平等というものを意味しているわけです。

それに対して一党独裁のような、あるいは君主制とも表現されますが、ある特定の人や考え方によって物事が決められてしまう世界もあります。

確かに悪行を重ねる君主の言いなりにならねばならないような社会よりも、みんなで投票によって代表者を決めるほうがいいに決まっています。

しかし、人の心の中はどうでしょうか?私達の心の中には沢山の考え方や思いの違う意識が存在しており、それぞれが互いの存在に気付いていないような状態なのです。

ですから、必ずリーダーシップを発揮するリーダーの役目をする存在が必要です。もしも、そのリーダーが不在であったり、役目を充分に果たさないでいると、その時に一番力のある意識に心がのっとられることになります。

もしも、そののっとった意識が悪行を重ねる君主のようであると、心は全体として悲惨なことになってしまいます。

リーダーは心の中のすべての意志や思いに対して受け止めてあげるという大切な役目があります。リーダーが民意を受け止めるということです。

しかし、ここからが民主主義と心の中との大きな違いがあるのですが、実は心が安定するためには民主主義のような多数決で物事を決める方法ではうまく行きません。

リーダーの役割は心の中の民意を汲み取ることと、もう一つは独断で意思決定をすることなのです。ただし、独断のベースとなるものは愛である必要があります。

つまり、全員の気持ちを汲み取るところまでは民主主義と心は同じですが、最後の結論を出すところは君主的に決定するということです。

そういうリーダーを心の中に育てていくことこそが、いつも心が安らかで愛を選択できる人物になる方法なのです。

謝ること

もう随分前の事ですが、ある有名な芸能人の男性に道で出くわしたことがありました。その人は私よりも20歳くらい年上ですから、今は70代半ばになっているはずです。

その頃からワインが好きでその人が素敵なワインバーのようなお店を出したという話しをどこかで聞いていつか行って見たいなと思っていたのです。

ですが、今のようにネットですぐに検索して調べられるような時代ではありませんでしたから、本屋さんに行くたびに情報が載ってないかなと探したりしていたときでした。

その人と出くわしたときに、そのことを思い出してお店がどこにあるのか聞こうと思い、「あの~、ワインのお店行きたいと思っていろいろ探したんですけど、なかなか見つけられなくて…」のようなことを言ったと思います。

すると、その人は頭をペコリと下げて、「ごめんなさい!」と言ったのです。私は思わず笑ってしまいました。まさか、謝られるとは思ってもいませんでしたので。

元々気さくでやさしそうな感じがにじみ出ている方でしたので、私も気軽に話しかけられたのだと思いますが、その時ある番組でその人が言っていた言葉を思い出したのです。

「私はすぐ謝っちゃうんです。謝っちゃえばいいんですよ。」この言葉は本当だったんだなあと。そして、この「ごめんなさい」をごく普通に見ず知らずの私に言えるのはすごいなと思いました。

これはシンプルな言葉ですし、簡単そうに思えるのですが、いざとなるとなかなか言えないものです。それだけ、「ごめんなさい」という言葉を言うことに何がしかの抵抗があるということですね。

きっと白旗を揚げることをよしとしていないということです。何か勝負に負けるような気持ちになるからでしょうか。そんなくだらない自己防衛を手放して、気軽に「ごめんなさい」を口に出せるようになりたいものです。

もしも、この「ごめんなさい」を久しく言ってないなあという自覚があるのでしたら、今日から率先して言ってみてはいかがでしょうか?きっと気持ちが楽になってすがすがしい感じがしてくると思います。

苦難が大好き

我々はみんな苦しいことは嫌いですし、苦しみから逃れようとこそすれ、苦痛を望むなどということはないと思っていますね。

それなら、なぜゆっくりと柔らかなソファで寝転んでるばかりではなく、厳しい雪山に登山しに行く人がいるのでしょうか?

そこに山があるからだというのは有名な言葉ですが、それでは本当の理由を説明してはいないことは明らかです。

頑張って諦めずに登った末に頂上に立ったときの何とも言えないあの気持ちを味わいたいから苦痛に耐えて登山をするのだと言う人もいます。

確かにそういうことはあるでしょうね。私も頑張って長距離を連続で泳いだり、そのあと100℃のサウナで汗を流すのは、その後のビールがおいしく飲めるからというのがありました。

しかし本当にそれだけでしょうか?登山の過程がどれほど苦しくても頂上に着いたときのやり遂げた感や征服感を味わうことだけが本当の目的でしょうか?

私はそうではないと思っています。目的を達成するまでの過程における頑張りや苦悩、そこにこそ麻薬のような魅力があると思うのです。

それは言って見れば、自分は『何か意味のあることをしている』という充実感であったりするわけです。ただ安楽にのんびりしているだけでは不安があるということです。

過程における苦しみや辛さが半端じゃないものであればあるほど、そこに価値を見出すことができるのです。それが麻薬なのです。

それが社会的にも意味のあるもの、例えばオリンピックで金メダルを獲得するとか、ノーベル賞を受賞するとかの結果を出せば、その麻薬的な魅力は社会的な成果を生むものとして認められるのです。

しかし社会的にも何にしてもその意味を認めてもらえないようなもの、例えばただのやせ我慢だったり、ただ本人の心の中で苦悩しているような場合には、ただひたすら苦しい人生を送っているということになってしまいます。

なんだか人生が辛い、苦しい重荷を背負っているような気がするというのでしたら、苦難に耐え続けることに意味があると思っている心の部分があることを疑ってみて下さい。

その意識の存在に気付いてあげて、もういいよと丸ごと認めてあげることができたら、本当に重かった巨大な荷物を降ろして軽やかな人生に変えることができるのです。

幼い頃の決意

私達は日々、小さな決意や決断を沢山しながら生活していますね。時には大きな決断をすることも勿論あります。

毎年元旦にその年の決意を新たにするということを恒例にしている人もいるかもしれませんし、この人と結婚をするという場合でも大きな決断をしているわけです。

しかし、私達は何も大人になってからそうした決意や決断をするようになったわけではなく、意外にも幼い子供の頃であっても、さまざまな決意をしているものです。

親にこうしなさいと躾けられた事などは、それを守ろうと小さな決意をするかもしれません。男の子は泣くものではないと言われたり、実際に泣いたらもっと怒られたりという経験をしたら、もう絶対になくもんかという決意をしてしまうかもしれません。

そして実は、そうした子供の頃にした決意というのは非常に強力なのです。通常、大人になってからした決意は何かの理由でそれが続かなくなってしまったりすることはよくあることですね。

しかし、子供の時にした決意は余程のことがない限り、あるいは相当なことがあったとしても死守しようとするのです。

それは大人になっても続いている可能性がとても高いです。絶対に泣くなと言われた子供がそれを決意してしまうと、普通の子供が泣いて当たり前のようなことが起きても我慢してしまうのです。

言って見れば、幼い頃の決意は命がけであると思ってもいいくらいです。命がけですから、臨機応変に対応するということができません。

それは硬直した生き方を作ってしまう危険性があります。融通が利かなくなるというか、誰かに助言されたとしても頑なに態度を変えないということにもなるわけです。

自分の心の中をゆっくりと探ってみて、小さい頃に何か決意した守りごとはないかどうか調べてみて下さい。そしてもしも、未だにそれを守っている自分がいると気づいたなら、それを守らねばならない理由を考えることです。

幼いころの理由は考えてみればきっとすぐに見つかるはずです。そこには、必ず恐れや不安といったものが絡み付いているはずです。

大人の自分はもうすでにそうした決意を守らねばならないような理由はないはずです。いくら泣いても親に怒られるような心配もありません。

何か自分の人生は融通が利かなくて生きづらいと感じているとしたら、このことを試してみることをお勧めします。小さな頃に自分にした約束をもういいよと言ってあげられると、心が緩んできて楽になってくるはずです。

人生のからくり その3

昨日の続きです。

なぜ自分が望まないようなことを、心の奥に潜む部分が望むのかというと、それは私達の心が分裂しているからなのです。

それも一つや二つではありません。すごく沢山の心の部分に分断されているのです。そして、それらはそれ自体のこと以外、つまり他の分断された部分についての認識がありません。

沢山に分断した各々が互いに認識しあってはいないということです。つまり、自分の心というのは自覚できる自分とは別に、自覚できない心があってそれ自体が細かく分裂していて、それらの間に意思疎通がない状態なのです。

これが人の心の実態です。その自覚できない奥に隠れた心の部分の一つひとつがこの現実を作る「からくり」として働いているのです。

その一つひとつは互いに相容れないような主張をしていたり、真逆の考え方を持っているという具合に、まるで無作為に選んだ複数の人たちの集まりのようなものです。

でもその一つひとつの心の断片には、それ自体が心に宿る理由がありますし、それらが何を訴えているのかについてもレッキとした理由があるのです。

そのすべてが自分の心の一部であるということです。ですから、本当に自分を深く知るということはその一つひとつの心の断片を拾いあげて知ってあげる必要があります。

実は自覚のある自分よりも、それらの方がよほど自分自身を色濃く表していると言えるくらいなのです。私達はそれくらい、自分というものをほとんど知らない状態で生きているのです。

それらの一つひとつを詳細に調べるために、瞑想したりすることも有効ですが、最も簡単なことは自分の身の周りにどんなことが起きているかを見ればいいのです。

なぜなら、それらが自分の人生の「からくり」としてすべての事象を起こしているからです。もしも、風邪をひいたならそれを起こした心があるのです。

もしかしたら、風邪をひいて身体のデトックスをしたかったのかもしれません。足を捻挫させた理由は、その日にどうしても職場に行きたくないと思っている心の断片がそうさせたのかもしれません。

自分の身に起こること、自分が体験すること、それによって自分の心が反応する様子、そういったものすべてが深いところにある自分の心の一つひとつを解明していく鍵となるのです。

そういう意識で毎日を生活してみて下さい。いろいろなことが分かってくるにつれて、自分や自分の人生、そしてこの世界にとても興味を持つことができるはずです。

人生のからくり その2

昨日の続きです。

目に見えるものは「からくり」ではありません。例えば、寒い思いをしたので風邪をひいたというのは、自覚できる理由があって風邪をひいたので「からくり」ではありませんね。

でも自分が風邪をひくという現実が起こるのには、やはり自覚できない陰の理由、つまり「からくり」があるということです。

自分が朝寝坊をしてしまい、遅れそうになって駅までの道を駆けていたときに何かにつまずいて転んで足を捻挫してしまったとします。

この場合も捻挫した理由は自覚できるのですが、裏では捻挫するような「からくり」が働いているということです。

この「からくり」が現実という中で起きるすべての事象をコントロールしているという感覚があります。そして、驚くべき事は、その「からくり」とは実は自分自身の心の奥に潜んでいるのです。

心の奥ということは勿論自覚など到底できないような、潜在意識や無意識といった内奥の部分に「からくり」があるということです。

そして私達が日々、見たり聞いたり体験しているあらゆる一切合財がこの心の部分によって引き起こされているのです。

そして更に言えば、その心の部分が望んだ通りに現実が引き起こされるということです。それこそが、「からくり」の正体なのです。

けれども、自分が風邪をひいたり、足を捻挫したり、そういった通常決して望まないようなことをなぜ、その心の部分は望むのかと疑問に思われるはずですね。

電車に乗っているときに、隣にちょっと変な人がいていやだなと思うことがあります。まさか、そんなことを心のその部分が望むわけがないと思いたいですね。

でもこの心の部分が「からくり」となって現実を起こすことには例外はありません。ではなぜ、そんないやだなと思うことを望んでいる心の部分があるのでしょうか?

実は、そこを見ていくことで自分でも気づいていない自分の本当の正体に近づいていくことができるのです。

つづく

人生のからくり

学校教育のどこをどう紐解いても、この世界という現実について何か「からくり」のようなものがあるとは教えてもらっていません。

日々、物事が雑然と起こるに任せてその中で個々人の人生が進んでいくというだけです。物質的なあるいは物理的な法則のもとで、一日24時間が毎日規則的に繰り返されることだけが分かっていることです。

自分の身に起きていることの理由も分からないですし、未来に何が起こるのかということも全く分からぬままに日々が過ぎていくのです。

すべては偶然の産物であって、将来のことをある程度予測できるとしてもそれはあくまでも努力によって実現する可能性を高めることができるというだけの話しです。

そう思っている自分も確かにいるのですが、しかし一方ではどういうわけか、そして誰に教わったわけでもないはずなのに、この現実には「からくり」があると思っている自分がいました。

一体いつからそんな感覚が芽生えてきたのか、今となっては覚えてはいないのですが、それは今では確信になってしまっています。

「からくり」というのは、表面上は見えないようになっているのですが、内部に隠されたメカニズムのようなもののことであって、それによってすべてが起こされ、動かされているようなものです。

この思いは、「奇跡のコース」という本と出会ったおかげで、確信になっただけではなくて、より明確化されたとも言えます。

そのことだけでも、本当に心が穏やかでいられるようになりました。なぜなら、それはすべての事象には理由があって起きているのだという洞察が得られたからです。

私たちの心にとって、わけが分からないことほど怖いものはありません。明日自分の身に何が起こるか分からないということには違いがないのですが、何が起ころうともその「からくり」によって動かされているだけだという安心感のようなものがあるのです。

つづく

自分で消化する その2

昨日のつづきです。

心の中に多くの未消化な感情が溜め込まれてしまうと、食べすぎや飲み過ぎが度重なって、胃もたれやひどい二日酔いになるのと同じようにして、精神状態を悪化させることになります。

自分ではなぜだか分からないままに、何だか気持ちよく毎日を過ごすことが難しくなってしまうのです。そして残念ながら、心に効く薬というものがありません。

一時的な効果を期待するのであれば、余暇を楽しんだり、誰かに自分の気持ちを聞いてもらったりすることで、気分を穏やかにすることもできます。

しかし、それは一時のことでまた明日になると、いつもの気持ちよくない毎日に戻ってしまいます。それは勿論未消化なものがそのまま心の中に残ったままになっているからです。

実は私たちには消化しきれないものはないはずなのですが、簡単に消化できないとすぐにお手上げ状態になって、消化しようとすることを放棄してしまうクセがあるのです。

未消化なものを抑圧して感じないようにしてしまうことで、今日を楽に生きようとする習慣があるということですね。

心の中の未消化な感情や思いは、必ず人生を悪化させる要因となるのだということを決して忘れないことです。

そうして、一度に消化できなくても構わないので、少しずつ繰り返して消化するように自分を仕向けてあげることです。

どんな大きな未消化なものでも、時間と根気を持って向き合うことで、少しずつ消化していくことができます。

その時のコツは、未消化なものを否定しないことかもしれません。ただ淡々と味わって消化することに徹することです。

それを続けることが心の訓練なのです。心の筋トレは地道なそして地味な作業ですが、それこそが気持ちよく生活するためには欠かせないことなのです。

自分で消化する

調子に乗ってつい食べ過ぎたり飲みすぎてしまったりすると、自分の胃や肝臓がそれ自身の力で充分に消化することができなくなって、もたれたり悪酔いしたりということになります。

そんな時に、胃の薬を飲んだり、二日酔いの薬を飲んだりして消化を助けてあげるわけです。食べ物や飲み物の場合にはそれで済むのですが、心の場合はどうでしょうか?

心の中に入ってきた様々なショックな出来事や衝撃などは、それがある程度のレベルのものであれば自分の力だけで消化してしまうことができるでしょう。

少し泣いたり、落ち込んだりしながら時とともに緩やかに消化されて心は元の健康な状態へと戻ることができます。

しかし、その衝撃の度合いがもう少し大きなものであった場合には、自分一人での消化する能力を超えてしまうことがあります。

そうすると、心はそれをなかったことにしてやり過ごそうとしてしまいます。成功すると、本人は衝撃をあまり感じることなく平静を取り戻すことができます。

但し、未消化なままの衝撃は例えば恐怖や怒り、絶望などの感情となって心の奥に残留することになるのです。

食べ物でいえば、食べ過ぎて完全に消化できなかった昨日の食べ物が胃袋の底に滞留したままで生活するようなものです。

そんなふうにして溜め込んでしまった未消化の感情も、それが何度となく繰り返されることで膨大な量に膨れ上がっていくことになってしまいます。

食べ物でいえば、もうこれ以上胃袋の中に未消化な食べかすを残したままにはしておけないという状態になっているのに、その上からまた食事をするような毎日のようなものです。

いつかは、その未消化の感情が何かのきっかけによって外側へと放出されるときがきます。そうなると、本人の理性ではそれを簡単に抑える事は難しいでしょうね。

心の未消化に効くような胃薬のようなものがあればいいのですが、残念ながらそんなものはありません。

つづく

もっと頑張れる

人生がうまく行ってないという思いを何とかしようと決意してセラピーにいらっしゃるクライアントさんの中には、「自分はもっと頑張れる」という気持ちを強く持っていらっしゃる方が時々います。

過去を思い出して、あの時もっと頑張ることができたはずだと後悔もしていますし、今ももっと頑張れるはずなのにどうしたわけか思うように身体と気力がついてこなくなってしまったと訴えてくるのです。

そして、これからももっと頑張らねばならないので何とかして欲しいと思っているのです。ご本人は、その頑張ってきた結果が今出ているということに気がつかないのです。

ご本人の理屈では、もっと頑張ることができれば現状うまく行ってないこともうまく行くようになるはずだと思っているのです。

しかし、頑張ろうと思えば思うほど、気力が低下して身体がだるくなってしまって以前のように頑張ることができなくなってしまっているのです。

これはちょうど、北風と太陽のお話しに出てくる北風と同じ原理だということに気づけばいいのです。北風は頑張ろうとする気持ちであり、風が強くなればなるほどコートをしっかり押さえることが、自分をそれ以上頑張らせないようにする意識に対応します。

もっと頑張れる、もっと頑張りたいという気持ちを一旦脇に置いて、もう頑張るのはいやだという気持ちがあることに気づくことです。

頑張りたくない自分など認めるわけにはいかないという気持ちも一旦脇へ置いて、ただただこれ以上頑張ることを拒絶している気持ちに耳を傾けることです。

ダメ出しをせずにその正直な気持ちを受け止めてあげるだけで、少し気持ちが穏やかになるはずです。

そしてなぜ頑張りたくないのかをじっくり聞いてあげて理由がはっきりしたら、それを充分に認めてあげることです。

そうすると、頑張ることだけが大切なことではないということに気づくことができます。頑張ること、努力することは人生でとても大事なことですが、そのことだけを追求しても旅人は決して自分からコートを脱ごうとはしてくれないのです。

もしも、自分の心の中にこの「もっと頑張れる」があると自覚できる場合には、その真逆の気持ちをしっかり見つめてあげることです。

そうすることで、人生の路線を切り替えていい方向に向かわすことができるようになるのです。押してもだめなら引いてみようという心の余裕が必要だと思います。