理性的な自分と情動的な自分

昨日は、ダイエットを目的として食事制限しようとする意識と食べてしまいたいという意識の間の葛藤を例にとって、能動的な選択の重要性についてお話ししました。

このとき、食事制限しようとする理性的な自分と食べてしまいたいと思う情動的な自分では、理性的な自分が正しくて、情動的な自分は幼稚でダメな自分と思ってしまいがちですね。

しかし、実はこのどちらの自分も与える心ではないのです。つまり双方ともに求める心であるということができます。

食べてしまいたいという気持ちは、確かに求める心であるというのは分かりやすいのですが、食べないようにとしている理性的な自分がなぜ求める心なのかは分かりにくいと思います。

それはなぜダイエットをしたいと思っているのかという根本的な理由を探っていく事で理解できるはずです。健康上の問題は例外として、大抵の場合はダイエットによって他人からの評価を上げたいという気持ちがベースにあるはずです。

それはつまり、他人からのいい評価を求める心であるという事がいえますね。決して与える心ではありません。

結局、理性的であろうと情動的あるいは感情的であろうと、その違いにはあまりこだわる必要はないのです。なぜなら、大切なことは与える心か求める心かという一点にあるからです。

そして、与える心になれるのは、昨日も触れた唯一中立な意識だけなのです。昨日は、心の中にいる中立な意識だけが本来の選択をすることができるという説明をしました。

この意識、この中立な心だけが食べるのを控えるか、食べてしまうかという直接的な選択をするだけではなく、もっと大切な求めるのか与えるのかの選択をすることができるのです。

人は与えることによってのみ心の平安を得られ、幸せな状態になることができます。与えることは、必ず与えられるからです。

逆に求める心は一過性の安心を得ることはできますが、その意識の元になっているのは欠乏感や恐怖なのです。

理性的であろうと、情動的であろうとどちらも大して違いはありません。そこに注意を向ける必要もありません。与えるという選択こそが幸せへの鍵なのですから。