恵まれた人生

今ふとサラリーマンを辞めようと決意した頃のことを思い出していました。それは今からちょうど10年前の4~5月のあたりだったと思います。

それからあっという間に人生が変化して、今のような仕事をする毎日になったのです。会社員だった頃と比べると随分と経済的に危機的な状況ではあるのですが、ある意味とても満たされてもいます。

不景気のせいなのか、ほとんどセッションの予約が入らなくなってもう一年以上経つのですが、そのために自由にできる時間が沢山あるのです。

予約が立て込んでいたときには、買い物に行く時間もなくて困ったこともありましたが、それと比べると今は散歩でも買い物でも好きなだけできます。

また個人的にやっているボランティア活動にも多くの時間を割くこともできますし、何と言ってもライフワークになってしまっている「奇跡のコース」をゆったりとした気持ちで読むこともできます。

潜在意識では今だに結構な拒絶があるようで、すぐに眠くさせられてしまうのですが、うまくそれを乗り切ってあげることができると、とても気持ちよく読み続けることができます。

そんなときに、ふっと自分の人生の幸福を感じることができます。物質的には豊かとは言えないにしても、なんと恵まれた人生なのだろうと思うのです。

毎日の時間のすべてをほとんど思うがままに過ごすことができるし、自分の生きる目的に沿って日々の時間を費やすこともできる人生で本当によかったという気持ちが湧いてきます。

きっと人は究極的には何もなくてもいいのでしょうね。内面的な満足感さえ感じることができたら、もうそれは最大限の恵みに満ちた人生なのだと思うのです。

人生は自分の思い通りになると思います。そうは思えないという場合でも、必ずそうなっているはずです。

もしもどうしても納得がいかないのであれば、自分は本当に幸せになることを望んでいるのかどうか、そうではない意識がないかどうか、心の中をよく観察してみることです。

人間とは関係性そのもの その2

昨日のつづきです。

自分を個体として見るのではなく、他との関係性そのものとして見るということについてお伝えしましたが、なぜそうした見方が大切なのかということについてお話しします。

自分を個として見てしまうと、どうしてもその大切な個を守ろうとする意識が出てきます。つまり個体を防衛しようとするということです。

それは言葉を変えると安心や願いを求める心であると言えます。そうした心というのは、他との関係性をすべて求めるため、防衛するために使おうとしてしまうのです。

しかし、自分を個として見る比重を小さくしていき、代わりに関係性を重視するようにしていくと、個としての自分を守ろうとする気持ちも小さくなっていきます。

防衛が少なくなれば必ず与える心が増えてくるのです。与える心は個を見つめるのではなく、他との関係性の中にこそ息づいているのです。

関係性をもっと重要視すればするほど、個への注意が小さくなっていくことになります。そうなってくると、昨日描いた丸と線の図の様子が大きく変わってくるのです。

自分や他人を個として描いた丸が点のように小さくなるのと反比例して、丸同士を結んでいた関係性を表す双方向の線が束のように太くなり、しまいには隙間がないくらいに大きく点と点を結ぶようになるはずです。

そうなると、点はあってもなくても同じになって、関係性だけの図が出来上がることになるのです。その関係性とは与える心である愛で埋め尽くされるはずなのです。

そして関係性だけになるということは、すべての心が一つであるという意識として互いに分かち合われることを意味します。

それこそが究極の姿であり、関係性を作ってきたコミュニケーションが終わるときなのではないかと思います。

人間とは関係性そのもの

人間とは何かという最も素朴な質問に対して、自分の中でここ数年とても大きなパラダイムチェンジが起きました。

自分が自分であるために最も必要なものは、自分以外の人との関係なのだということが分かったということです。

勿論、自分が生存し続けるためには、空気や食物や太陽など、必要不可欠なものは沢山あります。しかし、自分自身がそうしたもの自体ではないということは自明のことですね。

人との関係性というのは、そうしたものとは全く異なる次元で必要だといっているのです。必要というよりも、関係性が自分自身であるとも言えるということです。

生物としての自分は日々個体としての活動を繰り返しているわけですが、その活動の一つとして他者との関係性があるということではないと言っているのです。

個として自分を見るというよりも、関係性そのものが自分であるという見方をするようになってきたということなのです。

例えば、個体としてみた自分を一つの丸として描き、その周囲に複数の他人をそれぞれが別々の丸として描いたとします。

関係性とは、個体としての自分である中心となる丸から、他人である周囲の丸に向かって放射状に延びている線を意味しています。

放射状に延びる線は出て行く向きと入ってくる向きの両方があるはずです。その時に、自分とは中心の丸で描かれたものではなく、その双方向の線として描かれた関係自体だと言っているのです。

個体としての生物として物質的に見れば、中心にいる丸が自分であると言えますが、自分とは心だとすると線で描かれた関係性であるということです。

この気づきは私の心の中ではとても大きなインパクトがありました。関係そのものが自分であるということから、どんな大切なことが導き出せるのかについて説明していきたいと思います。

つづく

罪悪感と向き合う

私達の心の中心には、幼いころから築き上げてきた信念や信条、あるいはルールのようなものがどっしりと居座っています。

そういったものに背かずに従順に生きていくことで自分を守れると信じているのです。しかし、ときにはそのルールを勇気を持って見直さねばならないときが来ます。

例えば、子供のときに大好きな親の言うことは出来る限り守ることにしよう、大切な親の期待にはできるだけ応えるようにしようと思っている人は沢山います。

その人が親の期待に逆らって、自分がやりたいと思う道に進もうとするときには、必ず心の中に強い葛藤を感じることになってしまいます。

そして、自分の思いを優先して人生を進めていくことを想定すると、親の期待を裏切ることからくる激しい罪悪感に苛まれてしまうことになるのです。

その決断のときに、罪悪感に打ちのめされてしまうことに恐怖を感じて、親の意向に沿った人生を選んでしまうと、後々後悔することになったり、場合によっては親を恨んでしまうこともあるかもしれません。

親の気持ちを優先するべきか、自分の思いを実現させるべきか、この選択にはどちらが正しいという決まりはありません。

しかし、自分の希望する道を進もうとするときに発生する罪悪感と向き合うことから逃げるべきではないのです。

どちらを選択するにしても、罪悪感と対面してそれをしっかり受け止めてあげることがとても大切なのです。

罪悪感は恐怖と非常に類似したただの感情ですので、それを正面から見つめて感じ尽くすことができれば、乗り越えることができるのです。

その上で、選択をしても遅くはありません。どんな場合でも、罪悪感から逃げずに向き合うことを習慣付ければ、いずれは罪悪感そのものを大敵とはみなさなくなってくるのです。

それは自分のことも他人のことも許すという愛の心へのパスポートなのです。

駄々っ子の気持ち

大人になってから、ふとしたときに自分が子供であった頃の気持ちをすっかり忘れてしまっていると気づくときがあります。

それは街でなにげなく見ず知らずの子供の態度を見ているときなどに、何かが蘇ってくるような感覚になったり、独りでいるときでも何かの過去の気持ちがあがってきたりするのです。

私達は年齢とともに勝手に子供から大人になっていくと思っていますが、実は多くの経験を積むなかで、自覚の大小はともかくとして自分で自分を大人に仕立て上げていくのです。

決して自動的に大人の意識に変貌するわけではないのです。つまり、大人の自分とは必要に迫られて子供の自分が作りこんだモノだとも言えるのです。

分かりやすく表現すれば、子供の自分が大人の自分を着込んでいるということです。単に大人である自分に慣れ親しんでしまっただけで、自分の中心には子供の頃の自分が隠れているのです。

心の癒しを実践していると、そうした子供の頃の自分がしっかりいるなということをつくづく感じてしまいます。

特に自分を防衛しなければならないという気持ちが強くなったときには、その部分を明確に感じることができます。

私の場合には、駄々をこねている幼い男の子が見えます。実はとても恥ずかしがりやだし、寂しがりやだし、それでいて駄々っ子のような、なかなか気難しい子供です。

大人の自分が無理をしたりして、無意識のうちに防衛する方向に心が向かうと、すかさずその子が出てきて駄々をこね出すのです。

場合によっては身体の具合を悪くすることもありますし、周りの人に対して攻撃的になって自分の気持ちを訴えたい欲求が出てきます。

最近では、そんなときには自分の奥にいる駄々っ子の男の子をしっかり受け止めてあげるようにしています。

うまくできたときには、身体の具合は快方に向かいますし、攻撃的ないやな気持ちもふっと消えていってくれるのです。

自分が何となく今大人気ないなと感じたり、急に具合が悪くなってしまったときには、試してみて下さい。きっと短い時間で大人の自分を取り戻すことができるはずです。

歪んだ知覚

私達人間は、自分の身体からくる信号である五感を頼りにして生活しています。超能力的には第六感と言われるような不思議な感覚もあるのかもしれません。

いずれにしてもそうした感覚のことを知覚とも呼ぶのですが、それを頼りにしているというのも、五感のうちの一つでも機能障害を起こすと、途端にとてつもなく不便になることを知っているからです。

つまり頼りにしているなどという言葉では言い表せないくらいに、自分の知覚がすべてだと言っても過言ではないということです。

ですから、自分の知覚を信じてしまっても当然なのです。知覚から入ってくる情報によってのみ、我々は自分の外側の世界を知ることができるのですから。

しかし、実はこの知覚というものは非常にいい加減なものでしかないのです。外の世界の情報を正確に伝えてくれるものと思い込んでいますが、明らかに違います。

なぜなら、知覚には外から入ってきたナマの情報と、それを解釈する部分とに分けられるからです。通常、私達は入ってきたナマの情報をそのまま知覚することはしません。

必ず、独自の解釈を付加したあとに知覚として感じとるのです。あるがままを見るということが難しいのはそうしたことが原因です。

もっと端的に言えば、私達は自分の知覚を歪めて自分に都合のいいようにして使っているということになります。

知覚を歪めないで使うことは相当に困難を伴います。歪める方向は大きく分けてポジティブな向きとネガティブな向きとがあります。

ポジティブな方は、「あばたもえくぼ」のように、より肯定的に情報を歪めるのですが、ネガティブな方は、嫌いな人の場合には笑顔すら気持ち悪いと感じてしまうなどです。

知覚とは、実はそのようにして自分に都合のいいようにすべてを認識するためのツールであると見ることができるのです。

ですから、もしも本当に知覚を歪まない方法で使うことができたとしたら、その時はきっと知覚そのものの存在理由がなくなってしまい、知覚することがなくなってしまうことになります。

「奇跡のコース」では、その時にこそ知覚が知識へと変換されると教えてくれています。この深い意味はこの本を読むと理解できるようになります。ご興味があれば、勉強会に参加してみて下さい。

自分の人生への興味

私は記憶のある限り、できるだけ早くこの人生を終わりにしたいという気持ちを持っていたように思います。

それは自ら自分の命を絶ちたいという能動的な気持ちではないのですが、時間をどんどん進めて面倒臭いこの人生をなるべく早めに終わりにしたいという気持ちだったのです。

過去形で言えるようになった今は少し変化してしまったのですが、それもつい最近のことですので随分と長い間「時間よ速く過ぎ去れ」と思っていたのだと思います。

特に朝は苦手で、また今日も面倒くさい一日が始めるんだと思うと、このままずっと眠っていたいと毎朝思うのです。

自分がどうであれ、この人生に興味を持って毎朝どんな楽しみが今日は待っているかというようにはならないだろうと諦めていました。

今もそういった気持ちは残っていますし、一日が面倒臭いというのは基本的に変わらないのですが、以前と違うのは生きる目的が明確化したということです。

なるべく早く終わりにしたいという思いは今となっては全くなくなってしまいました。かといって、この人生に執着があるということでもありません。

生きている限り、やるべきことが見つかったということですね。それは、この世界で成功するということとはきっと程遠いことかもしれません。

ですが、自分の内面的な満足感を求めて限りなく進めていくということに今は興味津々になることができたのです。

このことは本当に感謝すべきことだと認めざるを得ません。自分の人生や自分自身への興味がこういった形で手に入れられるとは本当に予想していなかったことで、冷静になって考えてみると思いもよらないことでした。

みなさんはご自分の人生に興味を持って生きていますか?駆け足してきたその足をしばし休めて、じっくりとそのことを考えなおしてみるのも無駄なことではないと思います。

心の整理整頓

最近よくみなさんにお伝えしていることの一つに、誰の心の中もバラバラに分離しているということがあります。私達はどうしても自分の心の本音は一つにまとまっているものと思いがちです。

自分はこう考えていたけど、よく考えてみたら本当はこう思ってた、のように本心は一つだと思おうとしているのです。しかし、心の中はバラバラに分断されていて、それぞれは互いのことについて気づいていないのです。

つまり、バラバラな心のそれぞれがすべて自分の本心であるということです。認めにくいことですが、本心が沢山あるのです。

そのバラバラなものを一つにまとめようとしてしまうために、自分の心とはいえ明確に把握することができなくなってしまっているのです。

バラバラなものを無理に一つにまとめようとすれば、それは当然全体をさらっと見渡すような、上っ面をなめるような見方しかできないはずです。

バラバラなものの集合体として出来上がっている心の全体をしっかり理解してあげるためには、一度バラバラなものを他のものと互いに独立させて調べることがどうしても必要です。

なぜなら、どれか一つについて調べようとしても、他のどれかがそれを邪魔しようとしてしまう場合があるからです。

セッションで行っているボイスダイアログはこうしたバラバラな心の一つひとつを個別に深いレベルまで見つめていくことによって、心を整理整頓していくものです。

ボイスダイアログは練習することで、自分独りでも実践することができます。二つの相反する主張をしている心の断片を選んで、それを一人二役で互いに会話していくのです。

こつは、その心の断片に自分がなったつもりで、相手との会話を繰り広げていくことで、知らず知らずのうちに互いの本音が出てきます。

一度、セッションで経験すれば比較的たやすく一人でも実践できるようになるはずです。自分の心を整理整頓して、心の奥に隠し持っていたそれぞれの本音を知ることで多くの問題を解決していくことができるのです。

訴えたい気持ち

随分と昔のことですが、仕事でアメリカに滞在していたときに、夜暇なのもあって英会話教室に通っていました。

自分の希望で毎回同じ先生に来てもらってほぼ毎日のように一対一の授業を受けていました。その時に、アメリカの訴訟社会の実情をいやというほど聞かされたのです。

アメリカでは購入したものは、お客が気に入らなければどんなものでも返却できるというのです。使用してしまったCDであれ、読んだ本であれ、何でもです。

お店側は理不尽だとしても、文句を言えないということでした。消費者側が国によってかなり守られているわけですね。

マクドナルドだったか、そういったファストフードのお店のドライブスルーで購入したコーヒーを運転者が膝にこぼして、その熱さでやけどをしてしまい、当時100億円くらいの賠償金が支払われるという事件がありました。

腕のいい弁護士がつくと、そういうことが可能なわけです。訴える相手が大きな企業なので、そんな大金を払っても大丈夫だからなのか、それにしても常識をはるかに超えていますね。

英会話の先生の話しに戻りますが、彼女のご主人が理髪店に行って眠ってしまった間にあまりにも髪を短くされてしまったといって帰宅したそうです。

彼女はご主人に再度その理髪店に行かせて、散髪代をただにさせたといって喜んでいました。この逸話は以前にもコラムで書いたことがあったと思います。

こうした文化というのは、人が根深くもっている訴えたい気持ちの表れなのです。それは求める心であるとも言えます。

求める心が全開で生きているのであれば、当然与える心は影を潜めてしまっているはずです。それは間違いなく愛のない殺伐とした社会になってしまいます。

社会や国や会社、あるいは周りの人たちに何か訴えたい気持ちを沢山持っているという自覚がある場合には、求める心が優先されていることに気づくことです。

そして、忘れてはならないことは訴えたい気持ちを優先させて生きていると、訴える必要があるようなことが身の上に起きてしまうということです。

たとえ訴えたことが周りに受け止められたとしても、それは一過性の安心を得ることができるだけで決して幸せにはなれません。

訴えたい気持ちは、自分自身の中立な心でそれを受け止めてあげればいいのです。充分にそれができれば、その気持ちは静かになり、与える心が優勢になってくるはずなのです。

その先にしか幸せは待っていてはくれないのです。

心の中は非常識

世の中には常識的な人、非常識な人、その中間くらいの人などさまざまな人たちがいます。そして一般的には、常識的な人が好まれる傾向にありますね。

また大抵の人が自分のことを健全な心を持った人物でありたいと願っているはずです。健全さとは他の言葉を使って表現すれば、善悪のうちの善であるということです。

その善という中に常識的ということも含まれているのです。しかし、表面的にその人が善人であろうと常識的な人であろうと、心の中全体を見渡してみたらそれはもうそんな分け方はできないということが分かるはずです。

私達の心のほとんどの部分は自分を守りたいという意識の集まりから出来上がっています。そして、その目的のためならなりふり構わないというくらいに必死に自己防衛しようとします。

ある意味それこそ命がけで自分を守ろうとするのです。例えて言えば、戦禍の中で生きるか死ぬかという状態であるようなものなのです。

自分がいつ銃弾に当たって死ぬかもしれないと思うような状態では、自分を守ろうとして常軌を逸した行動をとってしまうことがあるかもしれません。

常識的であろうとか、善人であろうとか、そんな穏やかな気持ちはどこかへ追いやられてしまって、生き延びるための鬼と化すのです。

私達の心の奥底にある意識の多くがそのような環境にいるのと同じような感覚で自己防衛のために日夜活動しようとしています。

つまりその結果、心の中の自覚できない部分は非常識だと言うことになるのです。そういった心の部分をある程度表面化してもいいと思うのか、絶対に見せてはならないとするのか、そうした違いが人から見て善人であったり悪人であったりという違いとなるだけなのです。

私達はそういう意味では、どんな人物であろうとも心の中を一皮剥けば防衛のために戦闘態勢であったりして、とても穏やかな常識人ではないということです。

大切なことはそういう自分をできるだけ受け入れて認めていくことです。そうすることによって、罪悪感や抑圧が少なくなってより力を抜いて楽に生きていくことができるようになるのです。