自由への欲望

昨日のブログでは、私たちの生活のほとんどすべてが、快楽への飽くなき欲望と、苦悩を排除しようとする恐怖で成り立っているということをお話ししました。

そして欲望そのものが決して悪いことではなく、いたって正当なことだということについてもお伝えしました。欲望は決してなくならないものです。

あらゆる欲望は、一口で表現すれば、足りないものを手に入れたいという欲求であることが分かります。その欠乏感にはきりがなく、完全に満たされるということはないのです。

したがって、欲望のエネルギーが尽きることもないというわけです。健康な身体を持ちたい、人から高い評価を得たい、何かを成し遂げたい、欲しいものを手に入れたい、好きな人と一緒にいたい等々、挙げればきりがありませんね。

でもそれらを求めるあまりに、その反対方向である苦悩がやってくることになるということを私たちは決して忘れるべきではありません。

欲望(快楽)と恐怖(苦悩)とは、必ずコインの裏表のように一対になっているのです。その往復運動から抜け出すために、一つだけ特別な欲望があります。

それは、真の自由への欲望です。このいつ果てるともなく続く往復運動から、開放されるということ以外に真の自由はありません。

したがって、それを求めることが、自由への欲望であると言えるのです。これは、他のあらゆる欲望と違って、最終的には苦悩から脱出することを可能にするのです。

なぜなら、何が自分の自由を奪っているのかということについて、探求することになるからです。そしてその結果は、欲望と恐怖の往復運動を強いているものの正体を突き止めることになります。

それが、「私」という想念です。この「私」がここにいるということこそが、あらゆる束縛の大元であるのです。

「私」が人生の中心人物であるということこそが、「私」という名の牢獄に閉じ込めている張本人であるということです。

もしも、その架空の牢獄から脱出することができたとしたら、その瞬間に「私」そのものが単なる想念であったということに気づくことになるのです。

そして、後に残るものは、永遠の中で実在する真の自己としての気づき、それを何と呼ぼうがそれこそが、本当の本当の自己であり、生まれることも死ぬこともない真実の私たちの姿なのです。