私は決して傷つかない

私たちは誰でも自分が傷つくことを恐れています。それは当然のことですね。ころんで怪我をしたい人はどこにもいないし、他人に侮辱されて喜ぶ人もいません。

肉体を痛めたりして傷つけてしまうことと、精神的にダメージを負ってしまうことと大きく二種類の傷があるということも明らかです。

肉体が傷つくというのは、実際に擦りむいたりして血が滲めば、何らかの傷を受けたことは明らかですし、病気になって身体の一部の機能が損なわれるのも傷の一つです。

このことは客観的事実として、つまり自分だけではなくて他人の目から見ても明らかな傷であるということができると思います。

ところが、精神的な傷の方はというと、そうではありませんね。客観的事実というものはどこにもあるわけではありません。

でも自分にとっては心が悲しいとか、イライラするということは明らかな自覚があるわけです。それを他人に証明することは難しいかもしれませんが…。

ここで、ちょっと考えて見て欲しいことがあります。それは、「私は悲しい」という場合、本当に私は私の悲しみによって傷ついているのでしょうか?

私の心は悲しみでいっぱいであるかもしれませんが、それは私の心のことであり、私の悲しみについての事実であって、私自身についてではないと気づくことです。

私の心が悲しいと私に訴えてきているという言い方もできますが、その場合に訴えられている私が傷ついているわけではないということです。

もっと端的に表現すれば、「私は悲しい」あるいは、「私は傷ついている」というのは、悲しみ、あるいは傷ついているという情報を提示されているということであって、提示されている私自身が悲しみや傷ではないということです。

また、いつもこのブログでも触れているように、私は決して身体ではないと分かれば、身体が傷つくことはあっても、私自身が傷つくことはないと分かるはずです。

肉体的な傷であれ、精神的な傷であれ、いずれにしても傷そのものと私自身を同一化しないことです。傷ついていると思っている私を見ている私は間違いなく無傷なのですから。

これは、分かりづらいかもしれません。もっと上手な表現方法があるはずだと思いますので、また考えて見たいと思います。