全方向の自分を受け入れる

自分を切磋琢磨して、より優れた自分に成って行こうとすることは、決して悪いことではありませんし、この世界では奨励されていることです。

今、ロンドン五輪の真っ最中ですが、スポーツに限らずどんな世界でも、一芸に秀でた存在になるためには、血の滲むような努力が必要なことは間違いありません。

メダルを獲得できようができまいが、結果はともかくとして、精進し続けることにこそ価値があるということは誰もが認めることです。

けれども、その頑張りの裏に、否定的な自分、駄目な自分をなくそうとする欲望が隠されている可能性があるのだということに、気づかなければなりません。

もしも認めることができない自分の部分を消しゴムで消すことが、努力の原動力であるとするなら、結果がどうであれ、その人は苦悩から解放されることはありません。

なぜなら、私たちの否定的な部分というものには、限りがないからです。醜悪な部分と美しい部分、悪魔の部分と天使の部分が共存しているのが人間だからです。

究極の場合として、覚醒した賢者の場合であっても、そのことはゼロではないのです。インドのラマナ・マハルシは、どんな賢者であってもエゴは何度でも起こるものだと言ったのです。

賢者と我々凡人との違いは、賢者はたとえエゴがぶり返したとしても、そのことを何とも思わないというところなのです。

私たちは、とにかく自分自身の駄目な部分をいつも何とかしようとしてしまうのです。惨めな自分、情けない自分、卑怯な自分、強欲な自分、卑屈な自分、意地悪な自分、こうした自分を持っていない人は一人もいないのです。

自分の心の中に棲んでいるあらゆる自分を丸ごと見ることです。もう自分に隠し立てする必要などありません。人に見せるのではなく、自分が見るだけなのですから。

それが可能だということを腹の底から分かることです。全方位の自分をただただ見続けたその先に、本当の真実の自分との出会いが待っているのですね。