自己想起について

私がセッションで行っていること、催眠療法などを含めたいわゆる心理療法とは、クライアントさんが感じている不自由さの根っこを探って行き、原因となっている過去の歪みを正すこと。

そのマインドの歪みというのは、無理な我慢や度を超えた頑張りなど、あるいは自己表現や感情表現を抑圧することで、多くのマイナスの感情を溜めてしまうことです。

そうした感情から目を背けてきたことに気づいて、正面からそれを味わうことによって、必ずある程度の癒しは進んで行くものです。

止まることのなかった思考は、ほどほどになって行き、凝り固まった自分をダメにする多くの信念も緩んでくるのです。癒しによって、心身ともにリラックスすることができるようになるのです。

けれども、そうした過去のマインドの分析をベースとした癒しには、終わりというものがありません。いくらでもやり続けることができてしまうということも知っておいて欲しいのです。

そして、ある程度の癒しの先にあるものに、いずれは目を向ける必要があるのです。それは、心理療法がやっていること自体が、私たちのマインドが作った物語の一部に過ぎないからなのです。

人生が、あまりに辛く苦しい物語であるのなら、少しでもそれを和らげて、気持ちのいい物語へと変えて行くことは大切なことなのです。

ただし、それだけではいつまでたってもマインドが作った物語の登場人物であり続けてしまうのです。本当の私たちは、決してマインドでも、それがこしらえた物語の登場人物でもありません。

それを体験として見抜くことができなければ、心理療法で助走してきた意味も全部が無駄になってしまうでしょうね。本番は癒しの先に待っています。

そこでは、自分が常に物語の目撃者である必要があるのです。目撃者で在り続けることができたなら、マインドの物語から抜けて、真の自己がその姿を顕すことになるはず。

目撃者であるとは、意識的であるということ。仏教の言葉で言えば、物語とその登場人物である自分を「観照」するということ。これは地道な作業だし、とてもシンプルですが継続はすごく難しい。

グルジェフの言葉を借りれば、自己想起(self-remembering) ということです。常に憶えていて、自分に意識を向け続けるということ。

私自身、この自己想起に関しては、ずっと挫折し続けてきているので、マインド(エゴ)がそれを阻む力は半端ないことを知っています。これは、瞑想よりも継続することが難しいのです。

目撃者であること、観照すること、意識的であること、自己想起すること、どんな言葉でもいいので、できる限り継続させること。挫折しても挫折しても構わない。

自然との調和

あなたは、自分の生き方をどのような基準で選択するでしょうか?一番いいのは、そうしたいかどうかということをまず優先的に見るということです。

それが正しいことなのかどうかとか、常識的にみてどうなのかとか、人により認めてもらいやすいかどうか、あるいは価値があるかどうか等々…。

こういったことを気にして生きるのであれば、いつかはそのつけがやってくるはずです。言葉の誤解を恐れずに表現すれば、真の正しさとは自然かどうかということなのです。

自分がそうしたいかどうかは自然なことですね。誰かに強制されたわけでもないし、自分の内側から自然発生的に起きて来るものだからです。

自然であること、これはほとんどエネルギーを使わずに済むのです。不自然なことほど、それを維持するためには相当なエネルギーを浪費してしまいます。

不自然さは、自然に逆らっているために、その状態をエネルギーによって強引に堅持しなければならないからです。もしも、あなたの内面が疲労しているのなら、不自然な生き方をしているという証拠です。

自然でいれば、おのずとリラックスするはずですね。なぜ不自然な生き方になってしまうのかというと、自然のまま、自分自身のままでいいということが分からないからです。

自然のままでいたら、自分は沈没してしまうと信じているのです。だから、不自然とも言える無理な方法を使ってでも、不安を安心に変えようとするのです。

人間のマインドに不安があるのはごく自然なこと。孤独感も同様に自然なことです。なにせ、人間だけが自分は個人だと思い込んでしまったのですから。

それこそが、私たちが不自然になってしまったたった一つの究極の理由です。自然であることと闘わずにいて、自然の芳香を味わってみるのです。

どれだけ不自然に生きてきてしまったかに気づくことになるかもしれません。そうなったらチャンス到来です。自然の流れに気づいて、ただそれを見ていることができるなら、もう自然と調和したということです。

自分のマインドを信じるな!

私たちのマインドというのは、真に新しいものをとにかく拒絶したがるのです。見知らぬものに対して、必ず批判的になってしまうのです。

なぜなら、元々思考というのは決して新しいものを取り扱うことができないからです。思考は、過去すでに知っているものによって、判断し、場合によっては批判するのです。

マインドの中にある、それまでの基準、常識、正しさ、こういったものを総動員して、その枠から逸脱しているものに対しては否定するのです。マインドを信じてしまっているからです。

このことに気づくことができなければ、その人は何十年生きようと新たな気づきを得ることはできないでしょうね。古いルールに縛られているのですから。

そこにいれば、自分は安心、安全でいられると信じているからこそ、それをやめることができなくなるのです。マインドの思考をフル回転して自己防衛に嵌るとは、そういうことです。

人が気づくためには、自分の中にはなかった新たなものに対して、開いている必要があるのです。それはとても勇気のいることです。

なぜなら、それまでの自分の考え方や正しさを否定されてしまうかもしれないのですから。けれども、その恐怖に負けて安心を求めるなら、何世に渡って人生を生きても、すべてが無駄になってしまうでしょう。

自分のワールドにはない何かを見聞きした時に、それに興味を持つことが先決なのです。そして、それをすぐに一刀両断してしまう代わりに、そこにはどんな気づきの種があるのかを見ようとすること。

人間が潜在的に求めている真理とは、元来あなたのマインドにとって決して納得できるものではないのです。それは、思考を超えたところにあるので、矛盾に満ちた非論理だと捉えられてしまうからです。

ブログの事

2009年の3月からこのブログを書き始めたので、8年目に入ったのですが、ほとんど毎日更新してこれたのは、自分としてもちょっと驚きなのです。

何かを始めてそれが続いた試しがないものだから、きっと私の人生で初のことだと思っています。

続けてこれた理由の一つは、何としても続けて行こうというような野望?のようなものが自分にはこれっぽっちもなかったということ。

あともう一つは、きっと誰の為でもなく自分に向けた内容ばかりを書いてきたということだと思うのです。

誰かに賛同してもらおうとか、誰かの役に立とうとか、そんな大それた願望も持っていなかったからなのだろうと思っています。

とにかく、自分に対して大切だと感じることだけを書いてきたのです。あらゆる常識を無視して…。

だから当然のごとく、内容に違和感を感じたり、とても受け入れがたいと感じる人が出てきても不思議ではないのです。

そういう人はきっと沢山いるはずでしょうね。興味深いと思って下さる方にのみ、読みに来てもらえたら一番嬉しいのにと思うばかりです。

内容についてネット上で議論するつもりは毛頭ありませんし、正しさを訴えたいとも思わないのです。その逆に、できる限り思考を使わないような読みかたがもしできるなら、理想なのです。

如何なる、主義主張もそれが思考である以上、たかが知れているからです。

いつまで続くか全くわからないし、ある日突然やめてしまうかもしれないブログですが、興味を持っていただける方とだけ、どこかで繋がっているという感覚が持てたら嬉しいですね。

マインドの自作自演 その2

少しだけ、昨日の補足をしたいと思います。昨日は、マインドが問題とその対処の製作者だということを書きました。そのことをもっと明確にしたいのです。

この世界では常に何かが起きています。ですが、そこにはどんな問題も存在しません。なぜなら、問題というのは思考が介在して初めてあり得ることだからですね。

あなたにマインドがなければ、この世界に何が起ころうとも、そこに問題を見い出すことは不可能なことなのです。マインド(思考)がなければ、理不尽さも惨めさも何もありません。

このことを深く理解することです。誰もが知ってる有名なヒット曲がありますが、それでもそれはマインドの中にしか存在しないということです。

私たちが知覚を使ってこの世界を認識するとき、純粋な外からの情報を取得した後、「必ず」マインドがそこに独自の解釈をしてしまうのです。

その解釈が済んだ後にようやく、本人にその情報が通達されるというわけです。その時に、ヒット曲であることの認識や、自分が理不尽なことを言われたとか、惨めな目に遭ったとか、問題が発見されるのです。

外からの情報をただ取得しただけで、どんなマインドの後処理もなければ、そこにはどんな問題もあるはずもなく、そしてその時に初めて私たちはあるがままのこの世界を見ることができるのです。

起きてる状況の中に問題はないということ、何があろうとです。あなたのマインドが存続するためだけに、あなたに自己防衛をそそのかす、それが問題と対処の連鎖なのです。

そうしたマインドの罠から抜け出すためには、外側を見る代わりに、自分の内側にあるマインドを見続けること。マインドの働きに注意を向け続ければ、マインドはしっぽをつかまれて居心地が悪くなるのです。

問題があっても内面的な対処をせずにいることができるなら、マインドは力を失うことになるはずです。

マインドの自作自演

私たちのマインドというのは、一つのことにかかりっきりになっているのです。そのマインドの仕事とは、自ら問題を創っては、それを対処するということ。

問題をどう作るかというと、現実という物語をせっせと紡ぎ、その中に探せば無限にころがっている問題を見つけ出すという寸法です。

だからこそ、マインドは物語の住人であって、物語なしでは存続できないと言ったのです。物語そのものがいい悪いではなく、そこに無数の問題を見つけ出すことこそが本当の目的なのです。

そうやって、見繕った問題への対処法には、大きく分けて二種類のものがあるのです。一つ目は、問題と向き合って闘うこと。姿は勇ましいのですが、決して何も解決できません。

そしてもう一つは、その問題から目を背けて逃げること。どちらの対処法であったとしても、所詮は自己防衛であることに違いはありません。

マインドは、寝ている間にも問題を生み出すプロです。寝ている間の思考を夢と呼び、起きている間の思考を現実と呼ぶのです。

夢であれ、現実であれ、どちらの物語からも必要となる問題を創り出しては、対処する。これこそが、マインドの生存をかけて日夜続けていることなのです。

所詮は、マインドの自作自演だったということに、深く深く理解することです。そして、次に必要なことはどんな対処も放棄することです。

闘いもせず、さりとて逃げもせず。ただ問題だと思い込んでいることと一緒にいること。それについて、何もしないでいることができるなら、問題⇔対処のループから抜けることができます。

そうやって餌を与えないようにして、マインドを弱らせておいて、物語を外側から見れるように訓練するのです。それで一丁上がり。マインドの自作自演は終わりを迎えるはず。

プラクティス #6

先日、ゲシュタルトを変えるというプラクティスを書きましたが、それと同じ効果を期待できるプラクティスです。

部屋に独り坐っていて、その部屋の空間を見るように言われたら、その空間を見ることができるでしょうか?実際には、壁とか床、天井や窓を見てしまいますよね?

なぜなら空間は見ることができないからです。それでもめげずに、その空間を見るような感覚でいると、どこにも焦点を合わすことなく虚空を見つめることができるようになります。

その時、どんなゲシュタルトも使わずにいることになるのです。目をパッチリ開けたまま、何も見ずにいるということができるようになると、その瞬間何かが変化するのを感じます。

それが全体性を感じている瞬間であり、すべての物語から抜け出ている瞬間なのかもしれません。そのとき、自動的に思考も緩むので、瞑想が苦手な人にもお勧めのプラクティスです。

よかったら、是非試してみて下さい!

簡単瞑想プラクティス #5

自分のマインドに意識を向けて、やって来る思考に無関心でいる。それがどうであれ、そのようにさせておく。

決してその思考の中身を見ようとせず、自分はどんな思考とも同化しないでいる、その一点に注意を向け続ける。

きっとそのうち、思考とそれを見る側の自分との間にちょっとした隙間があることに気づくはず。

よかったら試してみて下さい。

理解は深まる

人は何かを理解することが好きですね。分からずにいるよりも、分かってしまったらスッキリした気持ちになれるからかもしれません。

理解とは単純なことのように捉えられがちです。それは、分かるか分からないかのどちらかだろうと思えるからですが、実は理解には深さというものがあるのです。

何故そんなことがあり得るのかというと、人のマインドが一枚岩でできてないからです。表面的に理解したつもりであっても、マインドのもっと奥では理解していないということが起きるのです。

そして、理解できるかできないかという観点から見ると、難解なものほど理解が難しくなるのは当り前なのですが、客観的にみてたとえ難しくなくても、理解しづらいということもあるのです。

それは、純粋な理解ということよりも、認めにくさという要素が入ってくるからです。本人が認めたくないと感じることは、たとえそれが安易なことであろうと理解はしづらくなってしまうのです。

セッションにおいて、クライアントさんにお伝えするようなことは、決して複雑なことでも難しいことでもないはずなのですが、理解にはそれなりの時間が必要となることが多いのです。

一度分かったつもりになっていたことでも、繰り返しそれを聞いたときに、それまでの理解が浅かったと実感できるなら、その時には理解がより深まったということなのでしょう。

私自身、最近 osho の本を読んでいて、理解していなかったと思うことはほとんどないのですが、理解が深くなったと実感することが増えました。

理解が腹の底まで伝わったという感覚ですね。同じ内容でも何度でも味わうことで、その理解がマインド全体へと広がることがあるということですね。

あるがままを見るプラクティス #4

ゲシュタルトを変える練習:

<形を見る代わりに背景を見るようにする>

私たちの知覚(特に視覚や聴覚)は、一瞬にして個を見分けるために、それぞれのゲシュタルトを作っています。それを用いることで、個の一つひとつのパーツを見ずに個を認識するのです。

そのゲシュタルトによって、目に映るあらゆる形の個体をそれ以外のものと区別して見分けることができるようになっているのです。

けれども、それが原因でこの世界の真の姿、個の集合としての全体ではなく、一つの連続体としての全体を見ることができなくなってしまったのです。

あるがままの世界を見るために、ゲシュタルトを変えるのです。一つ一つの個の形を見る代わりに、全体としての背景を見るようにするのです。

背景に意識を向けることができるようになると、全体性を実感できるようになるはずです。よかったら、練習してみて下さい。

何か今までとは異質なものを感じられるかもしれません。きっと、マインドは戸惑いを感じるでしょうね。