身体という牢獄?

私たちは、肉体に閉じ込められています。自分の身体という牢獄の中に入りこんで、そこから抜け出すことができなくなっているのです。

それなのに、そのように感じながら生きている人は少ないのではないでしょうか?なぜなら、私たちは自分が行きたいところに、身体が連れて行ってくれるからです。

もしも、身体の一部が例えば家の柱にでも結び付けられていたなら、その場合には閉じ込められてる感が起きてくるはずなのです。

身体ごと移動することができるからこそ、身体を牢獄のようには感じないということなのです。そしてもう一つは、身体と自己同化してしまっているということ。

自分が身体の内部にいるというよりも、身体自体が自分の一部のように思っているからこそ、やはりそれを牢獄とはみなさないわけですね。

身体との同化を見抜いたとしても、やはり身体の外へは通常出れないのですから、そこはとても不自由なのです。その不自由さを感じてみて下さい。

と言っても、身体は決して悪者ではありません。それどころか、身体という神秘を体験させてもらっているということに驚くことができるなら、そこには感謝しか残りません。

結局、その不自由さは身体からやってくるのではなく、自我からくるものだと気づけばいいのです。自我、つまりマインドとの自己同化こそが本質的な不自由さの張本人だということ。

身体を牢獄と感じるところまできて、初めてそれがマインドによるものだと気づいたときに、やっぱりどうしてもこの現実という夢から目覚めたいと、今日もそう思うのでした。流れとしては、

身体が牢獄とは感じない → 身体との同化をはずす → 身体が牢獄と感じる → マインドとの同化をはずす → きっと自由と不自由が消滅する…

夢と現実は同じ その2

昨日のブログで、夢と現実は本質的に違いはないということを書きました。そのことをつくづく感じていると、やっぱりこの現実から目覚めたいという気持ちが強くなるのです。

朝目が醒めたときに、ああこんな夢を見たな、あんな夢を見たなと思い返すことが多々あるのですが、ずっとその夢の中にい続けたいなどと思ったことはありません。

それはきっと誰にとっても言えることなのではないでしょうか?すごくいい夢であったとしても、また悪夢であればなおのこと、夢からいずれは醒めてくれないと困るのです。

どんな夢であろうと、朝がくれば自然に目が醒めると信じているので、夢から醒めることができなかったらどうしようなどと考える人はいないのです。

でも本当に延々と夢の中を堂々巡りすることになったら、それは絶望的な気持ちになるはずです。勿論夢の中では、それが夢だと気づいていないので大丈夫なのですが…。

この現実でも同じことが言えるのです。これが夢と同じだと気づいていないからこそ、この現実の中で何とかして幸せになろうと頑張るわけです。

けれども、これは現実という名の夢なのだと理解すれば、やっぱりここから目覚めたいという気持ちが強くなるはずなのです。

この夢から真に目覚めるためには、夢を見ている自分のことを思い出す必要があるのです。そのためには、物語(外側)にばかり向かっていた意識をできる限り内側へと向けること。

その最奥に在って、目覚めている自己と出会う瞬間に、私たちは消えて行くのです。なぜなら、私たち自身が現実という夢の住人に他ならないから。

真に目覚めている自己、それこそが全体性なのですね。

夢と現実は同じ

私たちが睡眠中に見る夢と、目覚めているときの現実は真逆だと誰もが思っています。夢の方は、仮想のものであり、現実は事実だからですね。

けれども、どちらも全く同じ素材でできていると知ることは、とても意義あることなのです。だって、互いに対極にあるもの同士をひとくくりにできるのですから。

実はどちらも思考という素材で作られているのです。眠っている間にも、思考が物凄く働いて、夢を紡ぎ出していることは周知の事実です。

一方私たちが現実だと思っているこの世界での出来事も、実は思考を通して解釈された結果なのです。現実がないわけではないのですが、思考を通して現実を見ているということ。

夢の中でも、私たちはこの現実と全く同じように、深刻になったり、もがき苦しんだりします。夢は目が醒めたら全てなくなるのですが、現実も同じなのです。

私たちが真に目覚めたなら、この現実を形作っているすべての物語がなくなるのです。地球上には自分も含めて誰もいなかったことに気づくことになるのです。

いやいや、夢の中で誰かに殺されたとしても、目覚めれば自分が無傷であることに気づくだけだけど、この現実で死んだらもう終わりだろうと考えるのが普通ですね。

けれども、これについても同じことが言えるのです。この現実という物語の中で死ぬと、私たちが自分だと思っていた身体と自我は消滅するのですが、本当の自己は永遠の実在として在り続けるのです。

夢と現実は本質的には違いがないということに気づかされると、深刻さがどこかへ行ってしまうはずです。そしてもっと気楽に、悠々と生を楽しむことができるはずですね。

死なないし…

人は、追い詰められて、切羽詰まって、テンパって、非常に視界が狭くなって、考えが膠着してしまうようなことってありますよね。

そんな時、大抵は何度も同じことをグルグル考え続けてみたりして、そのくせ何も解決せず、一向に晴れやかな気分にはなれなくなってしまうものです。

そういうときに私なりの打開策があるのですが、それは「どうせ死なないし…」と自分に言ってあげるのです。死ぬわけじゃないだろう、そう思うだけで気分が楽になるのです。

クライアントさんとのセッションの時にも、気が付くとよくそれを使っている自分に気づくことがあります。セラピストは往々にして、クライアントさんに癒しを実践してもらおうとして、追い詰めてしまうこともあるのです。

そして困ってしまったクライアントさんに対して、結果どうなったところで死なないでしょ?と言って突き放すのです。若干冷たい感じもしますが、それでも大丈夫。

所詮は、死ぬわけではないのですから。何がどうなったところで、死なないし…。そうやって、深刻になって玉結びみたく固くなったマインドをほぐしてあげるのです。

そうすると、ふっと楽になって、突き詰めていた考えが沈静化してくるのです。その方がかえって名案が浮かんだりして、よい結果が出る可能性もあるのですね。

例えば、明日職場で上司に言いづらいことを伝えなければならない、気が重いし、できるかなあと考えながら寝る代わりに、何であれそんなことでは死なないし…をやるだけで、寝やすくなるはずです。

よかったら、みなさんも是非試してみて下さい。

心が消耗するとき

人が疲労を感じるとき、通常は肉体的な疲労と精神的な疲労が入り混じっているのです。そして、肉体的な疲労だけの場合には、一晩寝れば概ね回復してしまいます。

ところが、精神的な疲労は寝ても休んでいても、なかなか癒えるということがありません。心が消耗してしまった場合、回復には時間がかかるのです。

なぜ心が消耗するかというと、実はあらゆるネガティブな感情はエネルギーを必要とするからです。悲しみの中にいれば、他に何もせずともエネルギーが奪われていくのです。

気が進まないこと、やりたくない仕事を無理やりし続けたりすると、意識下では盛んにネガティブな感情を発生させて、それをやめさせようとするのです。

その感情がエネルギーを必要とするために、本人は消耗して疲れ果ててしまうのです。逆に、ポジティブな感情はエネルギーを発電することができるのです。

だからこそ、大好きなことをいくら頑張っても、やればやるだけエネルギーが充電されて、疲れ知らずな状態に自然となってしまうというわけです。

つまり内面の消耗度というのは、ある種のリトマス試験紙のような役割を果たすことができるのです。人は自分を騙すことが得意です。

もしも自分を欺いて、気に入らないことをやりたいことだとして自分に強いた場合には、自動的に消耗が激しくなってしまうということです。

訳の分からない疲労感やなぜか消耗しているなと感じる場合には、心を静かにして自分の本音に耳を傾けてみて下さい。びっくりするくらいに我慢させていたことに気づくことになるかもしれません。

「どちらでもない」が最強

最近、「どちらでもない」という感覚が自分の中で定着してきたように思っています。自分の仕事は好きですか?と聞かれたら、好きでも嫌いでもどちらでもないと答えます。

先日、あるクライアントさんに神を信じますか?と唐突に聞かれて、信じてるわけでも信じてないわけでも、どちらでもないと答えたと思います。

あなたは今幸せですか?と聞かれたら、間違いなく幸せでも不幸でもどちらでもないと答えるはずです。このどちらでもないという態度は、一般常識的にはアウトかもしれませんね。

私たちは幼い頃からずっと、しっかりとした自分の意見を持つようにと教わってきたからです。何食べたい?と聞かれて何でもいいよと言ったら、大抵は若干嫌われるでしょうね。

どこに行きたい?と聞かれても、どこでもいいし、どこにも行かなくてもいいというのが本音なのですが、こういうのは優柔不断なダメな奴と判断されるのです。

けれども、本当は最強なのです。どちらでもないという真の意味は、その両方を含み、超越しているということだからです。どちらかに決められない優柔不断というのとは根本的に違うのです。

私は実はずっとそのような自分をあまり良しとしてきませんでした。自分は絶対これ!という決断というか、思い入れの強さのようなものが欠如しているからです。

それがようやくこれでいいんだということが分かってきたのです。人には嫌われるかもしれませんが、仏陀が中道と呼んだ生き方に近い感じがするからです。

人は自分に対する評価というものが、いつか変わっていくものなのですね。

幸不幸は思考が作り出す

かつての思い出に浸って、あの頃はよかったなあという人がいれば、いや今が一番いいという人もいるでしょう。何だか幸せ過ぎて怖いという人がいれば、不幸の真っただ中と思っている人もいます。

ところで、瞑想中に自分は幸せなのか不幸なのかを見ようとしたらどうなるでしょうか?実は瞑想が深ければそれだけ幸不幸から離れてしまうのです。

つまり、幸福でも不幸でもないという状態になるということ。どうしてかというと、幸福感も不幸な感覚も、どちらも思考と共にしかあり得ないからです。

もしもあなたが、不幸を感じているとしたら、不幸を作り出す思考が動いているということです。思考が過去を思い出して、自分の望みとは真反対の体験をしたことを考えているかもしれません。

あるいは、思考を使って未来に起きそうな不都合なことをグルグルと考えているかもしれません。過去も未来も思考の中にしか存在しない架空のものです。

その架空の中でしか不幸というものはないのです。勿論幸福も同様です。だからこそ、瞑想の中に入って思考から離れることになると、幸不幸が消えてしまうのです。

今この瞬間に不幸な人というのは絶対にいません。なぜなら、今この瞬間の中では思考は動くことができないからです。ほんの少しの過去と未来もなければ、思考は停止するしかありません。

自分は不幸だと断言できるなら、思考を止めてからもう一度確かめてみることです。その不幸な感覚が幻想に過ぎなかったと気づくはずです。

思考を止めることが難しいなら、練習をすることです。それも難しいのでしたら、まずは癒しを進めて行って感情を解放することができたら、自然と瞑想の中へと入っていくことができるようになります。

期待が消えて行くと…

世の中には、引き寄せの法則と呼ばれるものがあって、いろいろ話題になったりしますね。その詳細は知らないですが、自分では願うと叶うということを知っています。

私の個人的な経験で言えば、強く願うというよりもリアリティを持って願うということ。それも継続的に願い続けることで、願望が実現するのです。

これは私の場合のことなので、どれだけ普遍性があるのかどうかは分かりません。人によって、ただ強く願う方がより効果があると言う場合もあるのでしょうね。

ただし、これだけは間違いなく言えるのですが、どんな願望が叶ったとしても、その結果自分が以前よりも満たされるということはないということです。

勿論その瞬間は嬉しいし、新しい体験は快適なものかもしれません。それでも、それはただそうなだけで、自分の内側深くにまでそれが届くわけではないのです。

何をしても、どこへ行っても、何を手に入れても、誰と一緒にいても、深くまでそれが侵入できるわけではないということです。それだけは明らかなこと。

快適でない暮らしよりも、快適な暮らしの方を望むのは当然ですし、好みの仕事や好みの人たちと一緒の方が嬉しいのは当り前です。

けれども、それはただそれだけで私の実存を揺らすような事柄では決してないということは確かなことなのです。そのことに身を持って気づくことができれば、人生への過度な期待は消えて行くはずです。

そしてあらゆる期待が消滅していくなら、その時にはあるがままで完全に満たされている自己に気づくことになるのです。

所有と実存

 

昨日のブログで、防衛か無防備かという二つの生き方について書きました。osho は、そのことを違う言い方で表現しています。それは、所有と実存です。

防衛の中の多くは所有によってなされようとするために、所有に焦点を絞った言い方となったのだと思います。

私たちは、不安感や不足感、寂しさや不満を外側の何かを所有することで、何とかごまかそうとするのです。それはお金だったり、家だったり、パートナーだったり、家族だったり、仕事だったり。

けれども、よく見つめてみれば理解できることですが、そういう外側のものを所有するということは不可能なことなのです。私たちが真に所有できるのは、自分自身でしかありえません。

偽物の所有だからこそ、どれだけ所有したところで満たされることは決してないのです。そのことに気づけた人だけが、虚しい所有から離れていくのです。

その人は、自分自身の実存へと意識が向くようになっていくのです。所有という虚しい防衛から離れて、実存へと向くとき、それは同時に無防備な自己へと変化するのです。

あなたの内側深くに在る実存こそ、完全なる無防備な状態だということです。そこで初めてすべての苦しみから解放されるのです。

防衛か無防備か

あなたはどんな時に、楽しい気持ちになったり嬉しくなったりするでしょうか?どんなことがあったら喜び溢れることになるでしょうか?

それはきっと人それぞれに違うのかもしれませんね。けれども、実はそうした何か本人にとって特別なことがあったから嬉しい気持ちになるのでは本当はないのです。

起きたことは実はきっかけに過ぎないのです。何のきっかけかというと、無防備になるためのきっかけだったのです。ここが今日お伝えしたい部分なのです。

つまり、あなたの気持ちが素晴らしい状態になるのは、きっかけはともかくとして、無防備な状態になったからこそだということです。

他人から見て、それがどんなに羨ましいことであったとしても、当の本人が無防備なマインドの状態になることがなければ、喜び溢れることはできないのです。

逆に、大したことが起きたわけでもないはずなのに、物凄く気持ちのいい心の状態になれたのなら、それは無防備な状態がやってきたからだということ。

逆に、何が起ころうとも、防衛に凝り固まっているなら、残念ながら喜び溢れる状態になることは決してないのです。そのことに、深く気づくことです。

もしもあなたが素晴らしい気分になりたいと願っているなら、どんなきっかけがなくとも、自分のマインドを無防備な状態へと持っていくことができるなら、その願いは実現するのです。

最大の無防備とは、自分のことをすっかり忘れてしまっているとき。もっと言えば、守るべき自分がいないと感じるときなのです。

その状態に持っていく練習をすることができます。それが瞑想を積み重ねることですね。