四十九日の法要を終えて

昨日は、亡くなった父親の四十九日の法要を行なった日でした。極力少人数の身内だけで、なるべくシンプルにということで執り行ったのです。

納骨堂の一フロアを貸し切りにしていただき、とても静かな空間の中で、頼んでおいたお坊さんの読経の声がとても心地よかったのです。

ジ~ッと聞き入っていると、何となく真理を表現しているような言葉が入って来たりするのですが、それでもほとんどは何を言っているのか分からないのです。

ところが不思議なことに、何を言っているのか分からないということが、逆に何か崇高なことが行われているような気がしてくるのです。

きっと、何だか分からないということ、つまり理解できないということが思考を停止してくれるのですね。それが心地よさを連れて来るのです。

そして、なんとなくその崇高なことを執り行ったのだという妄想が、故人に対する愛情表現のような、そんな気持ちがするのかもしれません。

丁寧なお坊さんなのか、お経が終わった後に、四十九日の法要の意味などをかいつまんで説明してくれたのです。そして、すべての法要が故人のためになること。

更に、故人は残された家族全員を見守ってくれるので、みんなのためにもなるということを言葉巧みに伝えてくれたのです。

なんて、商売上手なんでしょう!あのお経を上げる透る声は、確かに一種の職人さんなのだなと感慨深い気持ちにもなったのです。