独り言を言わない

この世界は二元性だとよく言われますが、実際のところそうではありません。世界をそのように解釈している思考こそが、二元性を形成しているに過ぎないのです。

思考とは分離を意味するのです。ひとたび思考すれば、あらゆるものが分離されて、その結果として二元性の世界を映し出すというわけです。

思考の申し子である言葉を使えば、当然のこと二元性の世界しか表現することはできません。それなのに、誰かに何かを伝えようとすれば、言葉はどうしても使わざるを得ないのです。

そうやって、人間社会では言葉が流通することで、この世界こそが二元性なのだと思えるようになってしまったということです。

「私は…」と切り出せば、その裏には「あなた」があるし、「好き」と言えば、「嫌い」が必ずついてくるのです。「好き」だけなら、「好き」は消えていってしまうはず。

だから、「私」は私だけが存在する世界では、消えていく運命なのです。そうやってすべてが消えていった先に残るもの、それが非二元の世界です。

思考にまみれている私たちにとっては、非二元というと何か特別な不可思議な世界のように感じてしまうけれど、それはまったく真逆なのです。

非二元こそがあるがままの自然なこの世界の姿なのです。思考は便利なツールには違いないのですが、その一方で分離を避けることができないのです。

分離がエゴを生かし、この世界に物語性をもたらし、そして私たちに苦しみをももたらすのですから、独りでいられるときくらいは、なるべく思考から離れていることです。

独り言をやめるだけでなく、マインドの内側でもうっすらつぶやいているあらゆる言葉を使わない練習をしてみることですね。

意識的であれば目覚める

ごくたまにしかないことなのですが、夢の中の自分が、「ああ、これ夢だ!」と気づくことがあるのです。そうなると、間違いなく夢から目が覚めてしまうのです。

すぐに覚めることがほとんどですが、しばらくは夢の中にいつづけようとしたこともありましたが、それでもほんの少しの間だけで、結局は覚めてしまったのです。

ということは、夢というのは気づきと共には成立しないということなのですね。それはなぜかということ、夢というのは無自覚、つまり無意識であることが前提だからです。

前提というよりも、無意識状態こそが夢の成り立ちそのものなのです。無意識の状態で、思考を働かせることこそが夢の正体なのです。

だからこそ、その夢自体に気づいて、意識的になった瞬間に夢は成立しなくなって、その結果として目が覚めるということになったのです。

実は、この現実の中で生きていると思っている私たちのマインドのほとんどは無意識状態なので、これもやはり夢のようなものだということ。

少しは意識的な部分があるために、寝ているときの夢とは若干違うだけで、夢としての特徴を色濃く持っているのです。

だからこそ物語だといつも言っているのです。リアルな実在には、物語性は全くありません。この現実が夢だからこそ、その夢の住人であるエゴが活躍できるのですね。

現実が夢ということではなく、リアルな実在の上にあなたがこしらえた物語というベールをかけて、それを現実だと思っているということです。

そのベールをとるだけで、リアルワールドがあなたの目の前に広がることになるのです。それには、意識的であること。無意識を撲滅すれば、目覚めてしまうのですから。

「私」が不在の方がもっとうまく生きられる

 

「私」というエゴは、空想上のものであって実在しない、という情報を知っているという人が増えてきたように思います。そういう情報が溢れてきているからですね。

けれども、これは情報ではありません。だから今まで沢山培ってきた知識の延長上にある、新たな一つの知識のように捉えてはならないのです。

このことを知識として捉えてしまうと、少し変なことになってしまうのです。例えば、覚醒して「私」というエゴが落ちたときには、私の人生はどうなるんだろう?とか。

私の能力を発揮することができなくなってしまうのではないか?といった疑問が出て来るのです。なぜなら、「私」がいない状態でどうやって私の能力を発揮できるというのだろう?と考えてしまうからです。

そもそも、「私」は存在していないのです。その状態で、今の人生が起きているわけですから、「私」が落ちたとしても基本的には何も変わりません。

むしろ私と一緒に自己防衛も落ちてしまうので、元々持っていた能力が今まで以上に如何なく発揮されるようになると考えられるのです。

私がなくなったら、どんな体験もできなくなると考えている人もいるかもしれませんが、体験や経験というのはただ起きているのです。

それを、「私」が勝手にこれは私の体験だと思い込んで、それをそのまま記憶の中へと溜めていくので、エゴは肥大化してしまったのです。

体験するのに「私」は不要だし、歩くのにも「私」は不要なのです。勿論、あなたの人生を生きるのにもあなたの中にいる「私」は不必要だということです。

私の中にいるエゴが落ちても、このブログを書くための能力は少しも損なわれることはありません。ただし、「私」が不在になってもブログを書き続けるかどうかは、そうなってみないと分からないことですけどね。

「私」とは有用なツール

あるとき、ナニモノかが身体の中に入り、身体と自己同化したのです。それは、マインドとも自己同化することによって、「私」が作られました。

その「私」がこのブログを書いているわけですが、それでも「私」は実在するものではなく、その本当の姿はこの身体とマインドに自己同化したナニモノかなのです。

そのナニモノかにとって、この「私」は非常に便利な道具なのです。この社会で生きていくためには欠かせないとても利用価値のあるツールなのです。

問題は、ツールであるはずの「私」が、自意識を持っているために、これが本当の自分だと認識することになってしまったことなのです。

そうなると、今度はオリジナルのナニモノかを思い出すことができなくなってしまったのです。思い出そうという発想すらなくなってしまったのです。

そのナニモノかは、「私」を生きながらも自分自身を思い出そうとしているのに、「私」がそれを邪魔するためにいつまでもこの状態が続くのです。

なぜ邪魔をするかというと、思い出した途端に、存在すると信じて疑わなかった「私」が一瞬にして消滅してしまうからですね。

本当は、その方が自然なのです。なぜなら、そのナニモノかは「私」のふりをしてこの社会で生きることもできるし、本来の実在としてのナニモノかに戻ることも自由自在になるのですから。

「私」と言う存在が、ただのふりだったと気づくことができれば、あらゆる「私」の苦悩が消えて、すべてがOKになるのです。

自分自身でいる

あなたが、

「私は他の誰でもない、自分でいよう。どんな犠牲を払おうと、私は自分自身でいるのだ」

と決めたまさにその瞬間に、

あなたは大いなる変化を目にするだろう。

あなたは活力を感じる。

エネルギーがあなたの中を流れ、脈打つのを感じるだろう。

by osho

自分は一まとまりの存在ではない

私たち人間は、自分のことを一まとまりの存在だと思い込んでいます。それは、肉体との同一化をしてしまっているからに違いありません。

身体は一つしかないために、自分を一人の人間とみなすことになったのです。それだけでしたら、人が苦悩することはなかったはずです。

なぜなら、苦悩とは自己の分裂からやってくるからです。その分裂とは、マインドのものなのです。私たちはマインドとも自己同化しているため、そこに苦しみが根付いたのです。

マインドは想像以上に複数に分裂しているのです。敢えて表現すれば、縦の分裂と、横の分裂です。縦の分裂とは、表面意識と潜在意識の分裂です。

意識的な部分と無意識の部分といってもいいのですが、都合の悪いことを無意識の部分へと抑圧することで、防衛してきた結果、そのような分裂が起きたのです。

また、横の分裂というのは、さまざまな人格あるいは副人格としてのまとまりがあって、それらは互いに分裂を生むことになるのです。

最も分かりやすい例で言えば、大人の自分とインナーチャイルドですね。自分は職場に行きたいと思っても、インナーチャイルドがいやだと思っているかもしれません。

どちらのパワーがそのときに勝るかで、行くかどうかの結果が変わるのです。マインドの中で綱引きしているような状態なわけですから、苦悩するに決まっています。

だから、まず自分とは一まとまりの存在なんかではないということを、はっきり自覚することです。その自覚できた自分だけが、癒しを進めていくリーダーになりえます。

自分の内側は大所帯だと分かれば、それぞれの言い分に対して聞く耳を持つこともでき、深く受け止めることができるなら、少しずつまとまりもできてきて、苦しみは減少していくはずなのです。

自分自身を笑う

私たちは、他人のことをいろいろな意味で笑うことがありますね。態度や表情がただ面白くて笑うこともあるし、くそ真面目ぶってる人も笑う対象です。

けれども、他人のことを笑っているうちは、まだ物語の中の住人だと思えばいいのです。自分自身のこと、自分の人生について笑うことができるなら、そのときには物語と距離ができたということです。

どうにもこうにも、自分が人生を生きている様が面白くて、滑稽で仕方なくなるのです。そうなると、もう決して深刻になることができません。

なにしろ、一番滑稽なのは深刻に思い悩んでいる自分だからです。自分のことを笑うといっても、蔑んだり否定的なニュアンスはありません。

ただただ、微笑ましく感じて、優しい気持ちで見守っているだけなのですから。物語の中の自分は、何とかして不安で仕方ない自分を励まそうとしてあらゆる手段を講じるのです。

いい人になろうとしたり、相手にとって役に立つ人物になろうとしたり、どんなことをしても元々の自分という存在の価値が変わることなどないのに。

それでも、他人からの評価を少しでも高く保とうとして孤軍奮闘するのです。それも本当に幼い子供の頃からそれは始まるのです。

それがどんな物語であれ、いつかは終わりを告げて、跡形もなく消えていくのですから、しょせんは他愛のないことなのですね。

物語との距離感を示すバロメーターは、自分を笑えるか、深刻さがなくなっているかということですので、いつもチェックしてみて下さい。

優しく見守る

グルジェフが提唱していた自己想起とは、常に自分に意識を向けるということです。自分という存在に気づいているということ。

なぜこれがそんなに大切なことかと言うと、この方法だけが人生という物語から抜ける唯一のものだからです。自分をただ見ることによって、自分との間に距離が生まれるのです。

もしも自分に意識を向けずに生きているなら、自分との距離は常にゼロであって、それが自己同一化を継続することになってしまうのです。

一般的に、私たちは自分のインナーチャイルドの存在には気づいていません。なぜなら、今この肉体を持った自分だけが現実の自分だと信じて疑わないからです。

けれども、エネルギー的には、過去を丸ごと引きずって生きているので、目には見えずともインナーチャイルドの存在を内包しているのです。

もしもあなたが、インナーチャイルドに意識を向けることができるなら、そのときにはインナーチャイルドとの間に距離が生まれて、それに乗っ取られることがなくなるはずです。

それと同じようにして、現在の自分に意識を向けているならこの自分との同化が外れて、自分が生き場としている物語からも距離を取れるようになるのです。

そうなったら、自分の身に何が起ころうと物語を見ている側としての余裕ができるのです。人生に一喜一憂している自分を優しく見守ることができるようになるのです。

自分を優しく見守ることができるなら、他の誰のことも同じようにして優しく見守ることができるようになるでしょうね。

言葉にできないアレのこと

私たちは、多忙な一日のちょっとした合間に、ふと我に戻って自分に意識を向けるとき、通常自分の存在とはこの身体だったり、マインド(思いや気分や気持ちなど)だと思うのです。

あるいは、肉体や内臓などのあちこちからやってくる無数の感覚だったり。こうした慣れ親しんだものの総称を「私」と呼ぶようになって久しいのです。

けれども、そうした集まりを表に残して、意識をもっともっと奥へ奥へと向ける練習をしていくと、何かが変わり出すのです。

それは、決して言葉にすることのできない自己の実在、いつも気づいている個人としての「私」とはまったく異なる、不動の何かへの気づきがやってきます。

本当はいついかなる時でもそれは常に在り続けているのですが、この「私」が活躍しているときには微妙過ぎて気づけなくなってしまっているだけなのです。

敢えて表現すると、形も大きさも色も位置も何もない、「何か」とも言うのが憚れる感じのモノ。「無」と言ってもそれも違う感じがします。

結局は、すべてがそれであって、それでないものは一つもない。「私」がそれに気づけないでいるというバカバカしさを思い出せたり、思い出せなかったり。

ふとしたときに、いい人生だなあと感慨深く感じていると、すぐにそれを飲み込んで消してしまう計り知れないモノ。人生なんてものはないと気づかせてくれるのです。

だって人生の主人公だと思っている「私」がないのですから、人生もあるはずがありません。「私」というエゴは、現象という表層にいるのです。

時間の流れの中で起きている現象の割れ目の中へと入っていくことができるなら、時間は消えてただすべてが在るだけだと気づくのですね。

メリハリが大切

セッションに来られるクライアントさんの中には、かなりの割合で緊張が続いている方がいらっしゃいます。定常的なために、自覚があまりないという人もいますね。

そういう方にとって、自分が緊張していると気づくときには相当な強さで緊張しているわけで、だから発汗が激しくなったり、身体が震えたりするのです。

緊張というのは、ある種の戦闘態勢とも言えます。いつもの私の表現を使えば、自己防衛しているということです。本人の自覚とは裏腹に、かつての幼い自分がマインド深くで緊張しているのです。

だからこそ、大人の自分の理性では決してコントロールすることができないのです。緊張そのものは、別に悪いものではありません。必要な時には、しっかりと適度の緊張状態は必要なのです。

けれども、リラックスしようと思ったときにそれができずに、あるレベルの緊張が残ってしまうことこそが大問題だということです。

思考についても全く同じことが言えます。思考そのものは決して悪いものではないばかりか、非常に便利なツールだと言えるのです。

けれども、無思考になってマインドをリラックスしようとしても、できずにいつまでも思考が働き続けることが大問題なのです。思考が動き続けるのは、自己防衛のせいです。

身体の緊張もマインドの思考も、メリハリをつけられずに常に一定の状態が継続するなら、奥深くに巣食っている不安を安心に変えようとする防衛が原因だと気づくことです。

不安から逃げずに、安心を求めることから足を洗うことができたなら、心身ともに弛緩した状態になることができるのですね。