比べてしまう習慣

私たちは物心がついた頃には、もうすでに他人と競うということを覚えさせられるのです。子供の時に大の苦手だった幼稚園の運動会。

あの駆けっこが、大人から見れば何と可愛らしくて、またいじらしい姿なのかと思うのでしょうけれど、本人としては必至なわけです。

小学校に入れば、自ずと勉強の成績で順位づけらしきものがもう既に始まっていて、図工などの教科で作らされる様々な作品も友達と競わされる。

優秀作品には何かの賞が与えられて、廊下や教室の後ろに張り出されたりするのです。親もそういう目で子供を評価するのが当たり前。

だから大人になった頃には、もう充分過ぎるほど他人と競うということが性根に組み込まれてしまうのです。その結果、いつも自分と人を比較する習慣が出来上がるのです。

その一方で、比較することは良くない事だとかなんとか、まことしやかなことを言われて憤慨しても、もう手遅れというものです。

他人と自分を比べて一喜一憂するクセはあなたのせいではありません。誰もが大なり小なり幼少の頃から社会や大人たちによって組み込まれてしまったのです。

私たちにできることは、比較してしまう自分を否定せずに優しく見守ってあげることです。とにかく負けて落ちこぼれないように必死なだけなのですから。

老子のありがたい言葉

かつて有名なお笑い芸人の方で、「読まずに死ねるか!」というのを口癖にしている人がいました。死ぬまでにできる限り本を読みたいということでした。

それこそ毎日、5冊も10冊も本を読み続けていて、読まずに死んでいく本があることが残念でならないということなのでしょう。

それと似たようなことで、世界各地の観光名所と言われるところに訪れることなく死にたくないと、感じている人は結構いるのではないでしょうか?

その気持ちも分かるのですが、結局は世界中のありとあらゆる本を読むことは不可能だし、全ての観光名所を巡ることも全く不可能なことです。

さらに言えば、どれだけの本を読もうと、どれだけの名所に訪れようと、結局は満足するということがないのが人間(自我)なのです。

そこをしっかり見極めたところで、見るべき場所を設定し直すことです。私の大好きな老子の言葉で次のようなものがあります。

『真理を見出すために部屋の外に出ていく必要はない、扉を開ける必要すらない、目を開ける必要すらない。真理とは、あなたの実存だから。』

自らの内側に意識を向けること、意識的であり続ける事。煩悩が邪魔をするのを承知の上で、少しずつ意識を目覚めさせてあげたいものですね。