繊細なところに出る

社会の中で立派に仕事をこなし、人生に立ち行かなくなった経験のない人もいます。

もちろんその反対に、人生がうまく行ってないと感じて、自らセラピーの門を叩く人もいます。

前者は癒しが必要ではなく、後者はそれを必要としていると捉えがちなのは分かりますが、実はそうとばかりは言えないのです。

親が前者で子供が後者のような場合、親は自分たちは問題ないので、子供だけセラピーを受けさせようと考えるのです。

けれども本当にセラピーが必要なのは、その自覚がない親の方だと言えるのです。

家族の中に内在している問題がある場合、それは家族の中で一番繊細で脆いところに顕在化すると言う傾向があります。

つまり、親の内面に問題があったとしても、親本人の人生には表出せずに子供の人生にその皺寄せが出てしまうことがあるということ。

こうしたことは稀なことではないのです。ただし、親の側にそのような自覚がないので、実際のところ伝わりにくいのです。

そうなると子供が親と一緒に暮らしている間は、セラピーを進めることが簡単なことではないのです。

子供の方もセラピーに興味があるわけではないので、その状態で癒していくことは難しいことになるのです。

子供が成長してある程度の年齢になって、自発的にセラピーを受けようという気持ちになるのを待つということになるのかも知れないですね。

正しさを押し付けない

お子さんの不登校の問題で悩んでいらっしゃる親御さんは、思っているよりもとても多いのが実情ではないでしょうか?

何を隠そう私自身は、その道の先駆者なのです。幼稚園を最初の半年間、登園拒否した実績の持ち主なので。

あまり誇れたものではないのですが、それが実は単なる問題行動だったと知ることになったのは、この仕事をするようになってからなのです。

不登校の原因は、自覚できるものと、無自覚のものとに分けられます。自覚できるものとしては、友達との関係がうまくいってないとか、学業の自信喪失等々。

ただ自覚できる原因というのは、実はほとんど大したものではないのです。それはほんの飾りのようなもの。

本当の原因は、全く自覚できていないところにあるのです。それは、自分のことを問題視して欲しいがためにとる行動、つまり問題行動にあるのです。

幼い頃のおねしょや、アトピーや喘息などのアレルギーを利用した病気などと同じ。不登校というのは、親に対する不満を訴える気持ちがその原動力なのです。

どんな不満かというと、自分の気持ちを分かって欲しい、受け止めてほしいという切実な思いなのです。

親が自分たちの正しさを子供に押し付け過ぎれば、子供の側は当然のこと自分は分かってはもらえないのだという強い不満と反発を感じるのです。

子供が問題行動を起こせば起こすほど、親はそれを正しさで裁こうとしてしまうため、悪循環に陥ってしまいます。

全国のお父さんとお母さんに、声を大にしてお伝えしたいこと。それは自分の正しさは自分のためにだけ使うこと。

決して大切な子供に自分の正しさを押し付けないでほしいということ。ホント、お願いします! 

無防備さを思い出す

生まれたばかりの赤ちゃんというのは、生物としての人間ではあるものの、まだほとんどは他の動物と同じ本能の管理下で生きています。

それはそれは無邪気なままの赤ちゃんは、まだ「私」がいないので、どんな心理的防衛もすることはありません。

この状態をオリジナルと私は呼んでいます。要するに、無私の状態、つまりは愛の状態にあるということです。

それが早い子だと2歳くらいから、少しずつ防衛することを覚えていくのです。突然無邪気さが消えてしまうということはないにせよ、愛の塊のような生き方はできなくなっていくのです。

あるがままではいけないという感覚が芽生えて、それまでの超快適な毎日が遠ざかっていくとても悲しい出来事がやってくるのです。

私たちは大人になって立派な社会人として生きていくことを求められているので、遅かれ早かれ無邪気さは隠されていくのです。

この「自分のままではいけない」という洗礼が大きければそれだけ、自我の防衛も大きなものとなってしまいます。

心の癒しというのは、オリジナルの頃のあの無防備さを思い出し、無私という愛の状態をなるべく生活の中に織り込むようにしていくことなのです。

なんでこんなシンプルなことがそれほど簡単にはできないのかというと、無防備な自分では生きていけないという強烈な思い込みが残っているからです。

無防備さは死を意味するからです。これは、実際オーバーに聞こえるかもしれませんが、本気でそう思っているのです。

そのことを見抜いて、できる限りその恐怖を受容してあげることができれば、少しずつ隠されていた無防備さを使って生きることができるようになるのですね。

他人のことを考えない

グルジェフが、弟子たちにいつも言っていたこと。それは、「人のことを考えるな。さもなければ、あなたはけっして成長しない」と。

これはセッションでも時々話題になることなのですが、私たちが日頃どれだけ他人のことを考えているのか、気づいたらびっくりするほどなのです。

そしてなぜ、他人のことを考えるな、とわざわざ言われなければならないのかというと、その思考のほとんどが防衛に費やされているからなのです。

防衛している時間というのは、自分の本質に気づくことがない時間になってしまうということですね。

元々自我というのは、他人との関係性の中でのみ活躍できるように作られているのです。それは他人との関わりによって作り出されたものだからです。

自我は決して独りではいられません。そのくせ、本性は孤独そのものでできています。

もしも、立て続けに他人から「相当に具合が悪そうだから医者に行った方がいい」と言われたら、誰でもきっと本当に具合が悪くなってしまうでしょうね。

そのくらい他人の言動に依存しているのが自我なのです。だからこうした事実を知って、できるだけ他人のことを考えるのをやめること。

そして意識を自分の内側に向けているように練習することですね。グルジェフの弟子ではなくても、とても大切なことだと思います。

マインドの理解が最優先

マインドというのは、これが自分だと思っている内面的なものの総称です。ということは、自分のことや他人のことを理解したいなら、マインドを理解する必要があるということです。

マインドがどのような経緯によって作られてきたのか、それがどのような仕組みによって活動しているのか等々。

ひとたびマインドの内部事情が分かってしまえば、自分や他人のどのような言動であれ、ある程度の納得をすることができるようになります。

なぜなら、マインドは地球上の誰のものであれ、そのメカニズムは同じだからです。一度クルマのメカニズムを理解してしまえば、乗用者であろうとバスであろうと、トラックであろうと理解できるのと同じです。

だからこそ、どんなマインドを持ったクライアントさんがいらしても、セラピストはセッションができるのです。

マインドの理解が、毎日の生活にもとても大きな影響を与えるのですが、特に癒しを進めていく上では欠かせないものなのです。

そのため、私のセッションではできるだけクライアントさんにマインドを深く理解していただけるように心がけています。

マインドを知らずに、一つひとつの問題に場当たり的に解決を試みるのは、本当に愚かしいことだと感じています。

マインドを深く知るための秘訣は、シンプルですがマインドに興味を持ってもらうのが一番いいのですね。

所有という幻想

私たちのこの社会は、所有という仕組みなしには成り立ちません。ところが所有という事実は本当のところ、どこにもないのです。

このクルマは私の所有物だ!、そう声高に言ったとしてもそれを証明するものがなければ、その声明はほとんど役に立ちません。

なぜなら所有というのはあくまでも概念であって、事実ではないからです。だからこそ、みんなの合意を必要とする証明書のようなものが必須となるのです。

つまり所有という概念をみんなで共有することで、お互いにそれを認め合うことで、この社会が出来ているのです。

人類の歴史上途絶えることがない領土争いなんていうのは、所有を認め合わないがために起きているのです。

概念というのは思考であって、それはイマジネーション(幻想)に過ぎないのですから、相当に危なっかしいものだと言えますね。

まだ現物として実際に目に見えるもの、触れられるものに対する所有権は分かりやすいです。この家とか、このクルマとか言えるので。

一方で、実体のないネット上にデジタル化されて存在しているものの場合は、その所有権を証明するのは難しくなるのです。いくらでも完全コピーができるので。

人類は賢いので、それを可能にするブロックチェーンといった技術を開発して、仮想通貨などの仕組みを作ったのですね。

このようにして、所有というのは自我が作った社会の土台のようなものですが、ひとたび自我を見つめる側に立ってみると、所有からも離れたところに立てるはず。

そうして自分を丸裸にしてみると、なんだかとても清々しい感じがしてきます。誰が何を持っているとしても、どうでもいいことに見えてくるからですね。

自己流の落とし穴

人生になんらかの問題が起きていて、自分自身を癒す必要があると気づいたとしても、具体的にはどうすればいいのかを私たちは学校で教えてもらっていません。

ある人はセラピストのところに行こうとするし、またある人は無数に出版されているその道の本を読むかもしれません。

今では様々な有用な本が手に入る時代なので、自分に合った本を探し出してそこに書かれていることをしっかり実践すればいいのです。

これでうまく癒しを進めていくことができれば、とてもお手軽でいいのですが、そこには落とし穴も隠されています。

というのも、癒しを進めていく上で大切なことの一つは、見たくない記憶や感じたくない感情とも向き合わなければならないということです。

そのため、ともすると自覚しないうちにそこを通り過ぎようとしてしまうことが多々あるということです。

特に感情を感情として、思考を混ぜることなく感じる必要があるのですが、そこをいろいろな理屈をつけて避けてしまうのです。

そうなると、自分としてはもう癒しは一段落ついたと思ったとしても、実はまだしっかりと感情のエネルギーが残されたままになっているということが起きます。

他者目線で自分のことを客観視できる場合はいいのですが、そうでなければ中途半端な癒しの結果で癒しを終わらせてしまうかもしれません。

自分なりに癒しを進めてこれたはずなのに、なぜかあまり人生が変わらないと感じているなら、上記のようなことを疑った方がいいかもしれませんね。

本物がいい

動物には本能としての様々な感情が備わっています。それが人間ともなると、喜怒哀楽のようにかなり複雑に進化していますね。

喜びや感動、楽しいなどのポジティブなものから、不安、恐怖、悲しみ、孤独、怒りなどのネガティブと言われるものまであります。

一般的には、ネガティブな感情というのは人迷惑だし、できれば表現しないでいる方がいいということになっています。

けれども、だからと言ってポジティブな嬉しいとか楽しいの表現としての笑顔が本物でないとしたら、きっと気持ちの良いものではなくなってしまいます。

偽物の笑顔、作った笑いに比べたら、本気の、本物の怒りの方が余程いいのです。腹の底から湧き出るものは純粋だからです。

防衛の手段として、自分の自然な感情を抑圧して、代わりに作り込んだ偽物の感情表現をし続けていると、必ずそのツケがいずれやってきます。

作り物は自己犠牲を伴うからです。無理をして自分も相手も騙すので、相当なエネルギーを浪費してしまうのです。

ポジティブであろうとネガティブであろうと、より自然にあるがままの感情を感じてあげれるようになれば、人生は自動的に変化し出すはずですね。

傍観者でいる

順を追って見てみると、まず初めに自我が発生し、それとともに分離という不可能な概念を作り出すのです。個という概念が分離を作るのですね。

その分離感が、不安や孤独感といった原理的にどうしようもない感情を作り出すことに繋がります。

それは、自分は惨めだという思いと重なるのですが、そこから脱出しようとすることで欲望が生まれるのです。

そしてその欲望がある限り、自我は安泰となるのです。欲望はそれを使えば使うほど、私たちをその本質から離れさせようとするのです。

そんなこんなで、自分が本当は何者なのかということなどすっかり忘れてしまい、目の前にやってくる出来事と戦い続けることになるのです。

欲望は起きてくることを、それ自身にとって都合の良いことと、都合の悪いことに仕分けします。

その結果、都合の悪いことが起きたと判断した時には、冷静さを欠いてより一層戦いの中へと入っていくことになります。

そんなことを繰り返しているうちに、人生は終焉を迎えることになるのです。少しオーバーに聞こえたかもしれませんが、これが現実です。

さてどうしたらいいのか?できることは特にありません。ただ傍観者でいることを練習するしかないですね。

焦りと心配

購入したばかりのスマホがフィッシング詐欺に遭い、完全に使えなくなってしまったトラブルを経験して、気づいたことがあります。

それは焦りと心配が人の波動をものすごく下げることになるということ。ここのところ、自分で対処しようとすればするほど、ドツボにハマるという体験をしました。

そうなると、早く何とか手を打たねばという焦りと、この先どのようになってしまうのかという心配が、怒涛のようにやってきました。

その焦りと心配のせいで、普段の何倍もの思考が押し寄せてきて、多少なりとも正気を失わせるのです。

普段なら間違わないような判断も狂わされてしまいます。夜寝る前に思考から離れようとして、静かな空間の中にいるようにしても、15分もすると思考が忍び込むのです。

そしていつもだったら遭遇しないような、全く別のトラブルも同時にやってきた時に、ああこれ自分のまとってる波動がかなり低下してるなと気づくのです。

自分が頑張れば何とかなることは楽ですが、自分ではどうすることもできない事態になると、焦りと不安がやってきて思考に巻き込まれるのです。

今は新しいスマホを購入して一段落していますが、また事態が進むごとに何かしらの問題がやってくるように思います。

その度に、自我は自分を思考で絡め取りたくてウズウズしているんだなと思って、できるだけ静かな見物人でいられるようにしようと思います。