起きることが起きる

人間というのは欲深いものなので、自分の人生にどんなことが起こって欲しいか、どんなことが起こって欲しくないのかをいつも気にしています。

本当は何が起きたとしても、それも自分の生の一部だと理解することができれば、何の問題もないのでしょうけれど。

とはいうものの、今実はトホホ…の状態になっておりまして。3週間近く前にアップルIDをフィッシングされたことから端を発して、中々とんでもない状態になっていまして。

そのせいで、これを書いているちょっと前からケータイの電話が使えなくなってしまいました。結構辛い。

それとこれは直接クライアントさんにも影響が出てしまうかもしれませんが、メールの送受信ができるのが、自宅のみとなってしまっています。

家を出てから帰宅するまで、オフィスにいる間も含めてメールが使えません。ケータイとしての機能が全滅です。

ご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、本当にごめんなさい!と、このブログを書いていて、少し気持ちが穏やかになってきました。

それにしても、買って1ヶ月も経ってないのに、新しいのを買うしかないなんて…。ここはじっくりと、マインドを見つめる作業を続けたいと思います。

その瞬間にとどまる

よほど具合の悪い人でない限り、私たちは毎日どこかに出かけます。家の中にいるにしても、あっちに行ったりそっちに行ったりするのです。

そうやって身体は、止めどなく動き続けるのですが、私たちの心、内面はと言えば、もっともっと常にどこかをほっつき歩いているのです。

昨日に戻ってみたり、今日これからのことに向かってみたり、果ては何十年も昔に戻ったり、明日やはるか未来へも行くのです。

ちょっと立ち止まって見てみればすぐに分かるのですが、それはもう強迫的な感じさえしてしまいます。

なぜ私たちはじっとしていることができないのでしょうか?少なくとも、もう少しゆったりとペースを緩めることくらいはできるはず。

osho がよく言うのですが、その瞬間にとどまるようにしてごらん、と。そうすると、ほっつき歩く理由が分かって来ます。

それは私たちの心が乞食のように飢えているからです。欠乏感の塊のようなものなので、ここにこうしていては満たされないと思うのでしょう。

だからあっちへ行ったりこっちへ来たりしながら、なんとかしてその足りないという感覚を払拭しようとするのです。

かつてサラリーマンだった頃、海外に出張しているときに「パンハンドラー」という言葉を教えてもらったことがあります。

要するに物乞いのことです。あっちへふらふら、そっちへふらふらしながら、食べ物や何かを求めるのです。

時にはじっとしてその瞬間にとどまり、自分自身の内側が本当に欠乏しているのかどうかを、見てみるのも良いかも知れませんね。

「慣れる」ことの罠

自我の能力の一つとして、「慣れる」というのがあります。同じことを繰り返しているうちに、次第にそのことに慣れてくるのです。

慣れてしまうと、私たちはそれについて非常に安易にやり遂げることができるようになる、いわゆる朝飯前状態になるのです。

そのおかげで、さらに難易度の高いものへと挑戦をしていくことができるのです。それが自我の大好きな成長することなのです。

ところが慣れることで、自動的に無意識的になっていくという面があるのです。なぜなら、しっかりと注意していなくてもできてしまうからです。

意識的であり続けることが私たちにとってこれほど難しいのは、この「慣れ」という現象があるのも事実なのです。

また、ひとたび慣れてしまうと感動が薄くなっていくということもあるのです。それが当たり前になってしまうので、喜びや驚きが消えていくのです。

当然感謝の気持ちも薄らいでいくでしょうね。当たり前というのは有難いというのと正反対だからです。

何を手に入れたとしても、すぐに満足が消えていってしまうのもこの「慣れる」というのが原因なのです。

慣れることがやって来なければ、最初の喜びや感動や感謝がずっと続くし、いつまでも新鮮でいられるはずなのです。

逆に言えば、慣れることの罠から抜け出すためにも、できる限り注意深く意識的であるように練習することが必要なのだろうなと思うのです。

信念体系をぶっ壊す

「私」という自我は、非常に立派な信念をたくさん持っています。元々自我というのは思考の塊だからですね。

間違ったことを固く信じてしまったことが、そもそもの発端なのですが、その間違った信念をぶっ壊すと言うことを言いたいのではありません。

もちろん間違った信念は全くいらないばかりか、人を不幸へと導く問題児には違いないのですが…。

本当に必要なことは、間違っていようと正しいことであろうと、信念である以上はそれがいらないということです。

信念と化した頑なな思考、つまりは誰が何と言おうと信じて疑うことができなくなってしまった思考は、百害あって一利なしです。

信念はそれを作った主人である自我を強化し、強靭な防壁を作ってしまうので、聞く耳を持つことができなくなるのです。

こうなると思考からも抜け出すことができなくなってしまうのです。一つの信念がそれを補強するために別の信念を作り出すのです。

そうやって信念の連鎖が起きるので、本人は鋼鉄の壁の中で守られているような生き方をする羽目になってしまいます。

信念の壁をぶち壊して、清々しい外の世界の空気を吸いに出てこれると良いですね。そこには、決めつけていたのとは違う気持ちの良い外の世界が待っています。

存在は改善とは無関係

心の癒しというのは、自分の内面を改善することだと思っている人がいるかも知れませんが、それは全くの誤解です。

どちらかと言えば、その真逆と考えてもらった方がいいのです。つまりは、自分は改善が必要な存在だという間違った思いを捨てる作業なのです。

この社会では、より良い自分になろうと努力することは素晴らしいこと、歓迎すべきことだと認識されています。

けれども、社会にとって都合の良い人間になることと、満たされた人生を生きることでは根本的に異なるのです。

自分の何をどう改善したところで、それには果てがなく、次から次へと改善箇所が見つかる無限地獄になるのです。

しかもそこには常に不安が重くのしかかってくるのです。自己改善から離れることです。元々、「存在」を改善することはできません。

自分の存在を深く理解し、それを丸ごと認めることができるようになったら、改善したいという「改善病」が薄れてくるはずです。

たとえば、自己否定を持っているなら、それをなくそうと努力しないで良いのです。まずは、その自己否定をするようになった原因を見つけてあげること。

自己否定は単なる結果なので、その原因がわかれば自然と小さくなっていくものです。これは体験すればわかることです。

あなたがゆったりと自然でいられるようになったら、改善欲求も自然と小さくなっていくものなのですね。

不思議な感覚

最近ふと感じることがあるのですが、すごく身近なところにこの肉体があるなあという感覚です。

邪魔というほどではないにせよ、何だかいつもこの肉体がそばにあることに違和感というか、そういったものを感じるのです。

この肉体に縛られているという言い方でもいいかも知れません。そのくせ、一方では完全に透明でクリアな存在としての自分もいます。

その透明性は全体性のものなのですが、個人(個別性)として肉体を持った自分の感覚とごっちゃになってしまっているのでしょうね。

こうしてブログを書いている間も、その二つの感覚が同時にあるのが分かるのですが、もしかすると少しずつ全体性の感覚の方が大きくなってきたのかも。

私の自我は、自分は肉体ではない、自分は存在しないのだということを悟りたくて、この二つの感覚の間を行ったり来たりしているようです。

そして、ああでもないこうでもないと考えた末に、所詮は起きることが起きるだけだからに落ち着くのです。

まだまだ自我の力が強いことも分かっていて、この人生の主役から降りたくないと言っているようです。

それでも実の所、自分には何の力もないということも分かっていて、深く静かなところに落ち着いてくれるのです。

反動形成の副作用

皆さんは「反動形成」って知っていますか?もしかすると聞いたことはあっても、意味は曖昧かも知れないですね。

身近なところで言うと、男の子が好きな女の子に対して優しくする代わりにイジワルをしてしまうようなものです。

好きと言う気持ちのやり場がなくて、あるいはその気持ちを隠そうとして、嫌いな女の子にするような行動をするのです。

この程度であれば可愛らしいで済むのですが、それが本格的なレベルになると人生を悪化させてしまう要因にもなるのです。

例えば、幼い頃に母親に抱きしめて欲しいのに、それをいくら願ったところでしてはもらえないとなったときに、「抱きしめて欲しくない」という反対の気持ちを作るのです。

そうすれば欲しくてももらえないという地獄から解放されるからです。本音をしまい込んで、嘘で蓋をして凌ぐわけです。

ところが大人になって、友人などからごく普通にハグされそうになると、居心地の悪さを感じて拒絶するようになったりするのです。

本人はなぜ他愛のないハグが苦手なのか、理解に苦しむわけですね。こうした反動形成の副作用が起きる可能性があるのです。

もしも何か理由なく拒絶してしまうと言った経験があるなら、この反動形成の副作用を疑ってみるのも一つの方法かも知れませんね。

概念は思考の作り物

このブログの初期の頃の記事を読んでいる方はご存知かも知れませんが、以前私は「奇跡のコース」という本を勉強していました。

月に一回勉強会を開いて、みんなで一緒に学ぶということを続けていました。そのころは強くこの本の内容に傾倒していたからです。

その本の大きなテーマの一つに、「罪はない」というのがあるのですが、それは罪を赦すというのとは違うのです。

本の中では「赦し」がテーマのようにされていますが、実際は罪など元々ないので赦す必要もないということだったと思います。

今考えてみると、それは自分の中では当たり前のことになっています。なぜなら、罪というのは単なる概念であり、つまりは思考が作り出したものだから。

罪以外にも思考によって作り出したもので私たちが大切にしている概念は、たとえば「意味」、「価値」、「善悪」、「正不正」などがありますね。

そうしたものは思考が考え出したものなので単なるイメージなのですが、だからと言って都合よく無視していいということではないのです。

なぜならそのような概念にどっぷり嵌りこんで生きているのが自我だからです。実際のところ、無視できるようなレベルではなくなっているのです。

だからそうした概念は実在するものではないことを忘れずに、ただ見守って飲みこまれずにいるという態度が大切なのだろうなと思うのです。

「分離」を見破る

私たちはこの世界を分離という概念によって見ています。あらゆるものが個別に存在していると感じるのです。

それは、自分という存在がそもそも個人であると思い込んでいるために起こる、妄想に過ぎません。

思い込みということは思考なのです。だからその思考が停止してしまえば、一瞬にして分離は消えてなくなります。

それが全体性と私が呼んでいるものです。その全体性を感じると言っても、五感を使っているわけではないので、何とも表現ができないわけです。

言ってみれば、一人称でも二人称でもない、これとかあれのように指差すことができない、そういう世界。

思考さえなくなれば、すぐさまその世界に戻ることができるので、この全体性こそが真実の姿だということが分かります。

ところがそこに戻らないように必死に抵抗しているのが自我なのです。それはそうでしょう、全体性(真実)の中では自我はその存在の虚偽性がバレてしまうから。

そして私たちはその自我こそが自分なのだと信じて疑わないのです。こうしたことを腹の底から見破れるなら、生と死が一つとなる非二元の世界が現れてくるのでしょうね。 

自分の事を他人事のように見る

母親が子供に絶対言ってはいけない言葉というのがあります。子供がそれを聞くと、自分という存在を否定することになるような言葉です。

たとえば、産まなければよかった、いらない子、男の子(女の子)が欲しかったのに、産んだせいでこんな目に遭った等々。

上記のような発言をする親はもしかすると少ないかも知れませんが、それに準ずるような言葉や態度をする親は少なからずいるものです。

幼い頃のそうした体験というのは、いつまでもマインドの奥にあって、生きる土台となっているのです。

もちろん他人の事として見れば、親の心が病んでいたせいでそんなひどいことを言われたけれど、その子には何の罪もない、という理解はできるのです。

けれども、それが自分自身のこととなると様相が変わってきます。というのも、子供の頃に作ってしまった自己イメージが岩よりも堅い信念として残るからです。

大人の理性と子供の信念では、後者の方が圧倒的に強い力を持っているため、いくら理性を働かせて公正に判断しようとしてもダメなのです。

自分のことを客観的に見ることが難しいのは、そうした理由があったということですね。

何につけても、自分のことを客観的に、あるいは他人事としてみることができるようになるまで、癒しは必要だということを忘れないことです。