本質への信頼を育てる

子供の頃の記憶ですが、何かが欲しいとなったら物凄く欲しがる子供だったようで、親は面倒臭かったでしょうね。

たとえば覚えているのですが、自転車が欲しいとなったらずっとそれを思っていて、夜寝るときには必ず自転車のカタログを眺めてから寝るのです。

流石にそれをずっと続けているのを見ている親が、若干不憫に思ってくれて仕方ないので買ってあげようかという気になるのです。

そうやってどうにかこうにかして、最終的には欲しいものを手に入れるわけです。その傾向は大人になっても残っているようで。

自分のこれまでの人生を思い返してみると、なんだかんだで欲しいものは手に入れてきたように思うのです。

ところがこの仕事をするようになって、どうやら欲しいものが手に入ったところで幸せにはなれないということに、気づいてしまったのです。

満足している期間が非常に短くなってしまって、そのあとは特別変わったこともなく、しばらくするとまた欲しいものがやってくるのを繰り返すだけ。

こうなると、私の自我はだいぶ追い詰められた状態になってきています。期待することができなくて、要するに絶望するしか残っていないのです。

あとできることといえば、自我の奥に潜んでいる自分の本質への信頼を大きく育てていくということなのかも知れませんね。

クライアントさんとの信頼関係

子供の頃の記憶ですが、各クラスに一人くらいは注射を異常に怖がる子がいましたね。普段はごく普通の子なのですが、注射となると大泣きしてしまうのです。

幼い子供は、とにかく自分が痛がるようなことをしてくる大人は怖い人と思ってしまうものです。

そうなると、もう白衣を着た人を見ただけで怖い、悪い人だと決めつけて泣いて嫌がることにもなるのです。

だから病院や歯医者さんではいつも幼い子の必死の泣き声が聞こえてくるのですね。可哀想ですが仕方がありません。

我が子が危険なおもちゃで遊んでいたら、親は当然それを取り上げることになりますが、そんな時にも子供は必死で抵抗してくるはずです。

こうしたことは、クライアントさんとのセッションにおいても起きる可能性があるのです。それは、セラピストとクライアントさんでは見ているところが異なる場合があるからです。

セラピストの仕事は、クライアントさんに気づいてもらうこと。辛いかも知れないけれど、これまで見ないようにしてきたところを見てもらうこと。

だから当然クライアントさんは抵抗するだろうし、嫌な気持ちにもなるのです。否定されたように感じることもあるかも知れません。

プライドを傷つけられたと思うこともあるかも知れません。けれども、危険なおもちゃを取り上げる親の気持ちと同じなのです。

セラピストは、たとえクライアントさんから一時的には嫌われても、あるいは否定されても構わないという覚悟をしています。

耳障りのいい言葉を言っているだけでは、クライアントさんにとって新しい気づきや発見をすることができないからですね。

癒しを目的としたセッションとは、そうしたことがいつも起きています。これを乗り越えるためには、やはり互いの信頼関係がとても大切な要素になってくるのですね。

自然体で生きる

私たちは自然が好きです。この場合の自然というのは、空や海のような大自然を指すこともあるし、自然体のような状態を意味することもあります。

自然体でいるというのは、人為的なものや強制を排除して、ただあるがままでいるというような意味ですね。

緊張して身体のあちこちに力が入ってしまったり、引きつったような作り笑いをするのは不自然な感じがしてしまいます。

自然体でいられない理由は様々あるのですが、その一つが心理的自己防衛です。いつも怒鳴られている親の前に来ると、緊張してしまうとか。

ただし、高いところに連れて行かれて身体が震えてしまうのは、防衛本能なので不自然ではないと考えられます。

偏った考え方が原因となって自然体でいられないという場合もあります。例えば、親に逆らってはいけないというルール、あるいは正しさを信念にしてしまった場合。

その子の生き方はもう決して自然体ではいられなくなってしまいます。当然無邪気さなどは真っ先に使えなくなってしまうでしょう。

もっと居心地のいい人生にしたいと願っているなら、自分がどれだけ自然体でいることから離れて、不自然な人生を生きているのかを見ることです。

そしてその原因を暴き出して、癒しを進め少しでも自然体に近づけるようにすることですね。

ただ真実だけが在る

愛と恐怖だったら、私たちは愛を好みます。光と闇だったら、光の方を好みますね。それはきっと、恐怖よりは愛、闇よりは光こそが実在だとどこかで知っているからです。

愛の欠如が恐怖を作り出し、光の欠如が闇を生み出すのですから。それなのに、恐怖や闇と親しい人生を生きている人が私も含めてたくさんいます。

また受容性の欠如が欲望を作り出すのです。そして欲望こそが、人生を生きる原動力になってしまっているのです。

だから受容性こそが真に満たされるために必要なものだと理解できても、それが人生のど真ん中になることが難しいのですね。

更に言えば、全体性の欠如が個別性を生み出すのです。真実は全体性なので、個別性(分離)という概念は作り物です。

つまり「私」という個人というのは本当は存在しないということですね。これで分かったと思うのですが…。

私たちが自分だと信じている自我という個人は、まがい物だからこそ、同類である恐怖、闇、欲望を選んでしまうということです。

けれども安心してください。偽物はどこまでいっても偽物なので、在るように見えるだけで存在しないのですから。

真実に気づいたとき、恐怖は消え、闇も消え、欲望も個人も全て一瞬にして消滅してしまいます。たとえ気づかなくても、真実だけがただあり続けるのですから。

催眠療法の二つの効果

催眠療法というのは、決して魔法の癒し術のようなものではありませんが、癒しにとってとても大切な主に二つの効果が期待できるのです。

その一つが、十分に感じることができなかった過去(特に幼い頃)の感情を、その現場に戻ることでしっかり感じることができるということ。

感情というエネルギーは、一般に知られている以上に残っているものなのです。そして古くもならないので、今でも新鮮な状態で残っているのです。

そのエネルギーが多く残っていると、それだけ強く、さまざまな点で未来の自分に影響を与えるのです。

そしてもう一つの催眠療法の効果としては、大人の見識を持った自分が過去に戻り、その当時とは違う見方で過去を見直すということです。

子供の頃というのは、非常に思考が偏っているのです。それは、家族というとても狭い世界で育てられてしまうからです。

当然親の正しさや物事の見方、あるいは考え方などが中心となり、それが家の常識となって子供に植え付けられるのです。

そこにメスを入れることで、なんだそんなことだったのかと理解することで、気持ちが楽になるのです。

そして、これまで自分が囚われてきた考え方などに気づいて、それを修正してより中立に生きていけるようになるわけですね。

体験を見守るもの

昨日のブログでは、知識よりも体験であり、さらには体験よりも深い理解ができればいいというお話をしました。

そして実はその先もあるのです。体験がどれほど知識に比べて貴重であるとしても、どんな体験もそれはすぐに過去のものになってしまうのです。

つまり体験が起きて、それが去っていく。この繰り返しでしかないという当たり前の話ですが、過去は記憶というイメージ(思考)に変換されてしまいます。

体験がどれほど強烈なインパクトを与えるものであったとしても、所詮は過ぎ去ってしまうものなので、それは消えていく運命にあるのです。

それなら一体何が本質的なものなのだろうというと、一過性ではないもの。つまりは、体験がやって来ては去っていくその全てを見るもの。

それは自我という体験者ではありません。自分こそが体験者だと信じている「私」という自我も、いずれはこの世を去っていくのです。

体験者というのは一つの幻想であり、ただ体験が起きると捉えるとよりシンプルになりますね。

そしてその体験を見守るものこそが永遠のものであり、それだけが実在であるという理解です。この感覚は自我を溶かしていってくれる感じがしますね。

体験せずとも理解できる

社会の中で生きていくためには、知識を蓄えることはとても必要なことですが、ただ知識というのは誰か他の人から聞いた情報でしかありません。

地球は丸いという情報は知っていても、普段は地面は平らだと感じているので、それを身を持って知ることはできません。

飛行機に乗って高度1万メートルくらいから地球を見れば、ある程度は確かに丸いかもと分かるのです。

一番いいのは宇宙旅行に出かけて、大気圏外から地球を見ることができれば、知識ではなく実体験として「丸い」が分かるのです。

体験することこそが、知識を超える唯一の方法だと思っても不思議ではありません。だとすると、生きている間にどれだけの体験を積めるかが重要になってきます。

けれども一生のうちに体験できることなど、たかが知れています。人類全体の体験が丸ごと自分の中に入ってきてくれるならいいのですが、そうはいきません。

となると、体験していなくとも自分のこれまでの体験などを使って、類推することができたらいいわけです。

たとえば、このブログで何度もお伝えしている、「自我は何を手に入れても満たされない」ということを知識としては知っていたとします。

でも本当の理解に至るには、自分で実体験するしかないのだとしたら、あらゆることを手に入れることは不可能なので、結局限られた人生という時間の中での理解も不可能ということになります。

でも賢い人であれば、何度かそれを体験することで推論することはできるのです。これまで繰り返し欲しいものを手にしてきたのに、思っていたような満足は得られなかった。

であれば、この先何を手に入れたとしても結局同じなのではないか、このような推論ができれば体験せずとも理解に至ることができるのです。

そしてさらに言うと、この推論を後押ししてくれるのがマインドについての理解です。マインドの仕組みを深く理解すれば、推論がより容易になるのです。

マインドの仕組みとして、真に満たされたならマインドはもたないということを深く理解することで、違った角度から体験なしの理解を得ることが可能なのですね。

どんな自分でも消えることはない

これはクライアントさんあるあるなのですが、癒しが進んでくるともう私は大丈夫、以前と同じ轍は踏まないと思うのです。

ところが、実は条件さえ整えばまたかつての自分が顔を出すことはいくらでもあるのです。

たとえば、もう平気だろうと思って久しぶりにあの辛い記憶のある実家に帰省してみるのです。そうすると場合によっては半日ももたない。

その理由は、あの頃辛い思いをして生きていたあの当時の自分が、実家のエネルギーや家族と対面することで、活性化してしまうからです。

そうなると、大人の自分は過去の自分の気持ちや感情に呑み込まれてしまうため、どうしようもなくなって、ほうほうの体で帰ってくることになるのです。

癒しが進んだからといって、かつての自分が消えてなくなってしまうわけではないということです。

それは確かに小さくなってはくれるのですが、確実に残っているのです。それを知らないでいると、なんだ癒しが進んでなかったと勘違いしてしまうことになるのです。

どんな自分でも消えてなくなるということはありません。顔を出さなくなったとしても、マインドの奥でひっそりと小さくなっているだけなのです。

癒されてくると、過去の自分を使わなくなっていくというだけなのだと理解することですね。

そしていつもマインドの中にいるあらゆる過去の自分の存在に気づいていてあげることが大事ですね。

ネット詐欺にご注意

連休最後の日をのんびりと過ごせるかなと思っていたところ、何とスマホのパスワードを盗まれて、変更されてしまうということが起きました。

ひょんなことからネット上で ID とパスワードを入力させられたところ、それを盗まれてしまったようなのです。注意が足りなかったですね。

パスワードを変更されてしまうと、もうこちらとしてはID やパスワードの変更もできなくなってしまうわけで…。

おまけにその ID はクレジットカードに紐付けされているので、犯人たちにいいようにカードを利用されてしまう可能性があるのです。

そんなこんなで、とんでもない状態に追い込まれてあれやこれやと対処している途中なのですが、不思議なことに怒りが湧いてこないのです。

ものすご〜く嫌な気持ちではあるのですが、犯人たちへの怒りがまだ湧いてこないのです。顔が見えないからなのか、あるいは何か別の理由があるのか。

やれることは一通りやって、あとはスマホの会社からの連絡待ちなのですが、自分を取り巻くエネルギーがあまりいい状態ではない感じがしますね。

こういう時こそ、深い瞑想の助けを借りようと思っています。そして、なんであれ、起きることは夢のようなもの。

それを見ている自分だけが実在であるということを、再確認している今です。皆さんも、こうしたネット詐欺には十分にご注意くださいね。

熱病的なマインド

私たちのマインド(自我)というのは、絶え間なく何かに従事していたいという欲望を持っています。

そんなことはない、休暇が取れたらリゾートに行ってバカンスを楽しみたいと思っているのだから、という人もいますね。

けれども、リゾートに1ヶ月いたらどうなるでしょうか?いずれは途方に暮れるマインドが表面化してくるのです。

何にもしない、沈黙でいる、といった自我にとってはどうしていいか分からないような状態というのは、長く続けることはできないのです。

嘘だと思ったら、お休みの日を一日中瞑想に当ててみればいいのです。イメージしただけで無理だと分かるはず。

マインドというのは、絶え間なく行動的であることを求めているし、それはオリジナルの自分からの逃避に他なりません。

極悪人を狭くて暗い独房に入れるのは、それがマインドにとって最も辛いことだからです。それが重い罰だと知っているのです。

何もすることがないくらいなら、地獄に行って悪者退治したり、理不尽な目に遭ってそれと戦っている方が充実しているのです。

自分のマインドの中にそうした熱病的な部分がでっかくあることを知ることです。ここをしっかり理解できれば、少しずつその部分から離れていくことができるのです。