息を吐いている状態

自我というのは常に不安を抱えているものなのですが、その不安を強く感じるか、少しだけ感じるかは人によって様々なのです。

もしもあなたが不安感によって面倒なことになっているなという自覚があるのでしたら、根本的な治癒ではないにせよ、呼吸に意識を向けることをお勧めします。

私自身もかつて、何となく緊張気味に生活していたという自覚があって、なんとかして平常心を保っていられるようになりたいという思いがありました。

そこで編み出した方法は、やはり呼吸だったのです。呼吸はとても重要なファクターなのだということに気づいたことがあったのです。

高校生の頃なのですが、毎晩寝床に着くと自分の脈拍を感じていたのですが、その鼓動のスピードが呼吸によって変化するということに気づいたのです。

今から思うと、若干心臓肥大気味だったからと思うのですが、それにしても鼓動のスピードを自分である程度コントロールできることに気づき、ちょっと嬉しかったのです。

そのおかげでいつも呼吸に意識を向けていられるようになったのでしょうね。そして、息を吐いている間は鼓動がゆっくりになるということを知りました。

つまりは呼吸を吐いている間、もしくは吐いた状態で止めている間は、リラックスしてより平常心でいられるということです。

そして現在でも気がつくと、吐いた状態で止まっているなということが分かるのです。生理的な現象なので、万人向きかどうかは分からないのですが、興味があったら是非試して見てください。

落ち着きたかったら、鼻から静かに息を吐くのです。そして、吐いた状態でしばらくそのままにしてみることをお勧めします。

引き裂かれたマインド

うつ症状が起きると、いつもは普通にできていたことがとても億劫に感じたりしてできなくなってしまうものです。

つまりは、意欲を削がれてしまう感じになるのでしょうね。その理由は非常にシンプルで、意欲が戻ってしまうとまたあの過酷な生き方をし出すと分かっているからです。

そもそもなぜうつ症状を起こすかといえば、それまでの生き方ではもうどうにも立ち行かない、もう無理だと叫んでいるマインドがいるからです。

それは突然やってきたようにも思えますが、実はずっと長い間かけて少しずつ「嫌だ」を蓄積してきた結果でしかないのです。

自分を守って安心させたいが強すぎて、どんな自己犠牲も厭わずに頑張ってきてしまったツケがまとめてやってきたのが、うつ症状なのです。

だからそれは自己治癒力が発動したと解釈すればいいのですが、それがまた難しいのです。

なぜならこれまでの生き方を先導してきた自分にとっては、意欲を削がれて何もできない自分など、どうにも価値がなさ過ぎて受け入れ難いからです。

身体も心も動かないような状態になっているにもかかわらず、ほんの少しだけ残っている「何とかしなければ」で焦り、悶え苦しむのです。

このどっちつかずの状態が一番の地獄かもしれません。頑張ろうとする自分と、もう何もさせたくない自分との間の綱引き状態で、マインドは引き裂かれた状態になるからですね。

うつ症状が起きたら、最も大切なことはこうしたマインドの有り様をしっかりと理解してあげること。

この引き裂かれたマインドをど真ん中から、ゆっくりと静観してあげることです。しばらくそれをしても決して死にはしないのですから。

そうしているうちに、これまで気づけなかったどちらでもない自分というものを発見するようになって、引き裂かれ状態は緩和していくはずですね。

目を閉じている時間

私たちの知覚の中で、一番多くの情報を担っているのは視覚だと言われていますが、きっとその通りなのでしょう。

だからいつも目を開いて周囲を見回しながら生活しているのです。そうなると、自然と見ている対象物に注意が向いてしまうのです。

これが意識的であることをすぐに忘れてしまう、大きな要因なのではないかと思っています。

ということは、意識的であり続けるためには目を閉じていることが有効だということになりますね。

実際、私自身はいつの頃からなのかは忘れましたが、日頃よく目を閉じている自覚があります。前を見る必要がない時には、大抵目を閉じている感じです。

皆さんの毎日のごく普通の生活の中で、目を閉じている時間がどれほどあるのか検証したことはあるでしょうか?

検証するまでもなく、とても少ないのではないかと思います。なんなら、夜ベッドに入って寝る時以外は目を閉じることはないという人もいるはずです。

何かを見る必要がある時以外は、目を閉じている練習をしてみるといいと思います。目を閉じただけで、内的世界を感じていられるようになるからです。

外側からの情報を遮断して、内側に耳を澄ます練習です。瞑想をしようと決意するのではなく、もっと自然に目を閉じている時間を増やすだけ。

目を閉じて何するでもなく、ただそうしてそこにいるだけでいいのです。この無意味さが今この瞬間にいられるカギなのかもしれません。

慣れてきたらきっと気に入っていただけると思いますので、是非試してみてください。

現在に根ざして生きる

これまでも何度もこのブログで書いてきたことですが、世の中の不幸には二つの種類があるということ。

その一つは、望むものが手に入らなかった時の不幸。そして二つ目は、望むものが手に入ったのに満たされなかったと気づいた時の不幸。

どちらの不幸が決定的かは明らかですね。前者は手に入れることができたなら、きっと幸福になれたはずという希望を持っていられます。

それに対して、後者の方はもうそんな望みを持っていられなくなるのですから、それは本当に辛いのです。

けれども、多くの場合私たちは、別の望みをすぐさま作り出して今度こそは手に入れたなら絶対幸せになれるはずと思い込むのです。

そうやって、何度も何度も繰り返し望みを捨てずに生きていこうとするのです。それこそが多くの人々がやってきたことです。

未来を持っていないと自我は生きていけないからですね。でも外側から入手するものでは決して満足できないということを真正面から認めることです。

そうなったら生きるエネルギーをより現在へと向けることができるようになるはずです。そして現在の不満の正体を見れるようになるのです。

その不満は自我が根本的に持っているもので、それがなくなってしまうと自我は崩壊してしまうのです。

そんな自我に従って生き続けるのか、あるいはその自我を見守りつつ現在に根ざして生きるのか、しっかり見極めることだと思います。 

自我の非活性化

動物の世界にも群れがあったり、たとえばサルの世界にはボスザルがいたりと、それなりの秩序が保たれているようですね。

それが高度に発展したものが私たちの社会です。なぜ人間だけがこのような社会を作り出したかというと、人間だけが自我を持つようになったからです。

つまり、社会というのは自我の都合の良いように作られたものだと言えます。その結果として、社会にとって都合の良い自我を社会が優遇するということが起きました。

だから誰しも社会から認められるように頑張らなければならなくなったのです。社会に順応して、社会の中で生きていくことが必須だからです。

ただそのようにすればするほど、自我は強くなっていくのも事実ですね。自我と社会はそのような関係性にあるからです。

ということは、もしもあなたが自我の力を弱めたいと願うのなら、非社会的に過ごす時間を増やしていく必要があるということですね。

間違っても反社会的であることと混同しないように。社会的と反社会的というのは極端に聞こえるかもしれませんが、ある種同列なのです。

非社会的というのは、たとえば社会からしたらどんな価値も生み出さないこととか、なんの意味もないようなこと。

瞑想などはそうですね。あるいは、身体をブラブラ揺さぶりながら奇声を上げて、部屋の中を歩き回るなどは非社会的な言動と言えます。

そうした時間というのは、確実に自我は非活性化している状態になるので、時間が許す時にはそうしたバカバカしい無意味な言動をしてみるのもいいかもしれませんね。

できることの価値

できなかったことができるようになると、とても嬉しいものですね。特に子供の頃は、大人たちに囲まれているのでそれを強く感じるものです。

自分だけができないと思うととても惨めなので、それができるようになった時には、惨めさから解放されるのでとても誇らしい気持ちになるのです。

それが高じると、できないことは悪でできることが善みたいな感覚も育ってしまい、大人になってもそれが人生の目標のようになったりもします。

できる自分は凄いと言ったことです。できる自分こそ価値があるという感覚ですが、それを存在価値の代わりにしてしまうのだとすると、危険な匂いがします。

ところで、歳を重ねていくにつれてこれと反対のことが起きて来るようになるのです。つまりこれまで普通にできていたことが、できなくなるのです。

誇らしい気持ちの反対に、なんだかすごく悲しい気持ちになることもあるでしょう。高齢者になれば、当然体力も落ちてくるし頭の回転も遅くなるので仕方のないことです。

ここで気づいた方がいいのは、できることに価値を置けばそれだけ、できなくなったことのショックが大きくなるという事実です。

できてもできなくても、自分の存在価値とは無関係だという感覚が育っていることがとても大切なことだなと思うのです。

過去から解放されるとは?

催眠療法などのいわゆる心理療法というのは、過去の出来事やそこで感じた感情などと向き合って、残っていたエネルギーを解放していくこと。

それに対して、もうすでに終わってしまった過去のことをあれこれ掘り起こして、忘れたはずの傷を思い出しても仕方ないだろうと考える人もいます。

確かにそう思うのも理解できます。実際過去はもうどこにもありませんし、明るい未来に向かって生きていけばいいという発想は分かるのです。

けれども一つ理解しなければならないのは、あなたのこれまでの生との関わり方、考え方、生き方が全て過去からやってきているという事実です。

過去を忘れたとしても、その過去が作り上げた生を現在生きているのであれば、それは過去の中で今も生きているということになるのです。

心理療法などに興味がないのであれば、あなたが今日まで生きてきた、あなたのいわゆる生から自由になればいいのです。

自殺するのではなく、あなたの過去を自殺させるのです。これまでの捉われた生き方を意識的に変えていくことを全力でやっていくこと。

新しい時間を一瞬一瞬生きるようにすればいいのです。それができれば、名実ともに過去から自由になって、あなたの自我からも自由になることができるのですね。

目的地はない

私たちは前へ進むということが大好きです。筋トレをしていると、ほんの少しでも昨日よりも今日前進したという証が欲しくなります。

よりウェイトの重いもの、より多くの回数、より綺麗なフォーム等々。目標を設定して臨むと、意欲的になりやすいことも知っています。

ただ漫然と昨日と同じことを繰り返すだけでは、自我は退屈に感じてきて前進してないとなると、途端につまらなくなってしまうのです。

幼い頃からずっと親や先生から、前進することが大切だということを学び続けるのです。後退すると悲しくなって、もっと頑張ろうと思うのです。

誰もがこうしたことを受け入れた上で生きているのですが、目標や目的地を目指す人生にも弊害があります。

それは、目的地を目指している人、目的地に近づいている人は善人で、そうでない人は悪人という判断が生まれてしまうことです。

善人や悪人という表現、あるいは聖人や罪人という言い方が極端だと感じるかもしれませんが、結局のところ私たちはそのように見ているのです。

目的地があるからこそ、成功と失敗があるということも事実です。そのくせ、一度目的地に到達したところで、決してそこで終わることがありません。

すぐさま次なる目的地が必要になるのですから。その上目的地に到達しなかった場合を失敗と呼ぶのです。

目的地は天国と地獄も作り出してしまいます。もしも人生の中に目的地はないということを見抜いたなら、人生そのものが目的地だったと理解するなら、世界が変わって見えてくるはず。

目的地がなければ未来も消えていくのです。生きることそのものが手段であり、目的地でもあったと分かれば、漠然とした不安や焦燥感は消えていくはずです。

思考の作戦に乗らない

私たちは、通常何か困ったことだとか、問題が起きるとそれを解決しようと努める習性があります。

あるいは、何か疑問があればそれに対する回答を求める習性もあります。どちらもきっと自我の特徴なのでしょう。

その習性に疑問を抱いたことはありませんか?なぜ問題は解決しなければと感じ、なぜ疑問には回答しようと思ってしまうのか?

これが思考のあり方なのかなと思うのです。思考というのは、いつも解決志向であり、回答を導き出したくてウズウズしているのです。

けれども、一歩引いてこのことをじっくり見つめていると、それだけが私たちの在り方ではないと気づくのです。

そもそも問題があるという認識自体が思考によるものなのです。思考が問題を生み出しておいて、それを解決しようという自作自演をしているのです。

思考が疑問を作り出しておいて、それに対する回答を導き出すのもやはり思考のやることでしかありません。

このようにして、思考は自己完結するように自前で生き延びる作戦を生み出しているということです。

私たちは、そもそも思考ではないのでその思考の作戦に乗る必要はないわけです。そこに気づくだけでも、生きる感覚に変化を感じることができますね。

精神的自傷行為

自分の身体をわざと傷つけてしまう、いわゆる自傷行為というものがあります。傷つける身体の部位はその人によって異なるものの、それをさせる原動力は同じなのです。

自傷ですから自分で自分を痛めつける、つまり自分を攻撃しているわけです。精神的には自分を責める、自責の念と言う言い方をしますが、身体であれ心であれ同じこと。

自分のことを嫌ってみたり、否定してみたり、ダメ出ししてみたりと色々ですが、要するに自分に嫌悪感を抱いているということです。

その根っこには、自分の存在否定があるのです。幼いときに、親から軽んじられているように扱われたり、気持ちを受け止めてもらえなければ、自分はいらない奴だと解釈してしまうのです。

そんな惨めな自分を隠そうとして怒りが出てくるのですが、それを親に向けることが出来ない子供は、その怒りを自分に向けてしまうことがあるのです。

それこそが自分を攻撃し、自分を責める原動力なのです。こんな理不尽なことはありませんが、これが自己否定をする人の内面で起きていることなのです。

さらに言えば、そういった物理的、精神的な自傷行為を続ける裏には、親に怒りをぶつけられないでいる子供の復讐心も加担するのです。

こうした心のカラクリを深く理解し、幼い自分がその存在を肯定できるように受け止めてあげることで、随分と生きやすくなるはずですね。