見捨てられる恐怖 その3

人によっては、この見捨てられる恐怖というものについてお話しをしても、自分には関係ない、それがどういったものかも分からないという場合もあります。

でもそれを額面どおりに信用することはあまりないかもしれません。というのは、この見捨てられ感というのは、誰にでも多かれ少なかれあるものだからです。

逆に、自分にはそういった自覚が全くないという場合の方が怪しい感じを受け取ってしまいます。そういう場合は、概ね違う感覚として感じていることが多いです。

例えばそれは平たく言えば、何だか嫌われているかもしれないというもやっとした違和感のようなものかもしれません。

誰かと一緒にいて、そこに何らかの人との係わりというものがあって、そこで本人にとっては得体の知れない、またどこからやってくるのかも分からない何とも言えないいやな感覚として自覚されるものです。

相手はこんな自分をどんな風に感じたんだろうかということを心配してみたり、ああきっと自分は好かれてはいないだろうなといったような漠然とした嫌われた感なのです。

つまり、相手に嫌われたかもしれない、嫌われたらどうしようといったようなひどく否定的で不安な思いなのです。

これこそがその本人にとっての見捨てられ感だと思われます。嫌われたらどうしよう?という問いのような思いの後を本人が自覚しないできただけなのです。

つまり、嫌われたらどうしよう?→ 見放されてしまうかもしれない、見捨てられてしまうかもしれないという思いに繋がるのです。

本人としては、その最後の部分を感じたくないために、嫌われたらどうしようという中途半端なところで終わりしてしまっているのです。

そのために、見捨てられる恐怖についての実感がないということになっていたというわけです。ご自身の心の中にそういった感覚に該当するようなものがどの程度あるのか、検証してみて下さい。

そして、そういった感覚が大きいと感じることがあれば、そこを重点的に癒していくことで人生が大きく変化することになるはずです。

見捨てられる恐怖 その2

一ヶ月くらい前に、このブログで見捨てられる恐怖について書きました。ひとりの人間が出会う最大の苦悩は、見捨てられていると感じることだというお話しをしました。

決して見捨てられたくない、もし見捨てられたら死んでしまうと固く思い込んでいるため、それこそ命がけで何だってしようとするのです。

それはさながら、重度の薬物中毒患者が薬物を手に入れるためには、どんな犯罪にも手を染めかねないのと同じなのです。

自分の身近な体験では、お腹が痛くてトイレに駆け込みたくて、冷や汗を垂らしながら外でトイレを探しているときには、万が一知り合いの人に会ったとしても、とても愛想よく会釈などしている余裕はありません。

切羽詰ったら普段の理性などふっとんでいってしまいますね。腹痛程度でもそうなってしまうことが容易に想像できます。

それが見捨てられるかもしれないという生命の危機に直面するなら、理性的な判断など何の役にも立たなくなってしまうことが分かるはずです。

そうやって、何とか見捨てられないようにと、あり得ないくらいの自己犠牲を払ってしまうのです。その行為は大抵は軽蔑されたり、常軌を逸していると思われてしまったりもするのです。

例えば、相手の期待に応えられないとその人から見捨てられてしまうかもしれないと思い込んでいる場合には、実際に見捨てられるかどうかは別として、命がけで相手の期待に応えるように努力します。

そして、残念ながら期待に応えられなかったとすると、自分を最大限責めまくってしまうのです。そうやって、見捨てられるかもしれない恐怖を感じないようにするのです。

見捨てられる恐怖は計り知れないくらいに巨大な恐れです。それは簡単には克服できるような代物ではありません。もしかすると、一生その恐怖から逃げ続けなければならないかもしれません。

それでも、少しずつ、ほんの少しずつでも何度も繰り返しそうした恐れを感じつつ、心の筋トレを継続していくことで、必ずや乗り越えていくことができると思っています。

ハンドルネーム

ネット上でブログや掲示板に書き込みをしたり、ミクシーのようなネット上のコミュニティでは大抵本名の代わりにハンドルネームのような仮の名前を使いますね。

ある意味ネットワークの世界では仮想的な社会を形成しているので、本名を使う必要がないということだと思いますし、自分の素性を明かさずにいたいという人もいるかもしれません。

元々、自分で自分の本名をつけることはできないわけで、ものごころがついて気がついたときには自分には名前がついていたというのが現実です。

ですから、もしかしたら自分を自由に名づけてそれで生活したいという願いもあったりするのかもしれません。有名人は芸名を持っていたりするので、一般人もそうしたことの真似事のような感じなのかもしれません。

確かに、若くてかっこいいジャニーズ系のタレントが、仮にゴンザエ門という本名で売り出しても違和感がありすぎですね。名前も適材適所ということがあるのでしょう。

現実の世界でも、私達は時としてあだ名とかニックネームを使ったりするわけですので、そうしたものと同類とみなせばハンドルネームがあるのは納得できます。

ただ、仮想の世界とはいえ、そこで人との係わりを持っているのは生身の人間なわけですから、やたらとハンドルネームを変えるのは問題があるかもしれないですね。

ミクシーではシステムそのものが、本名ではなくニックネームが使われるようになっていますね。私の場合も、「郷に入れば郷に従え」から、本名とは別のニックネームを使っています。

ただこれも面倒だなと思うことはあります。それは、互いにニックネームだけで係わりを持っていると、実際にお会いしたりするときに、本名が使えません。

そうすると、相手が考えた妙なニックネームを使って話しをしなければならない場合があるからです。本名であれば、それほど奇抜な言いづらい名前であることは稀ですから。

ただし、本名のほうが発音するのが難しいような場合もないわけではないでしょうから、その場合には言いやすいニックネームの方がいいのかもしれないですね。

名は体を現すという言葉もあるくらいですから、本名から離れて、自分が考案したニックネームを名乗って仮想の世界で生活するのは、ある意味普段とは違った自分を感じることができるのかもしれないですね。

略語

その時代その時期に、ある種自然発生的に略語が生まれて、知らぬ間に市民権を得てしまうということがありますね。例えば、携帯電話のことは、ケータイと略してカタカナで書く習慣が私自身ついています。

最近空気清浄機を購入したら、アレル物質という表記があり、何だと思ったらダニのふんや死骸などのつまりアレルギー反応を起こさせるもののことだと分かりました。

あるクライアントさんからご予約のキャンセルのメールが届いたのですが、読んでみると「すみません、リスケさせてください。」と書いてありました。

なんだろうと考えて見たのですが、分からなくてネットでその言葉を検索してみたら、どうもリスケジューリングのことらしいと分かりました。

こうなると、略語というよりも俗語(スラング)のような感じにも思えますね。このような略語に対して、自分の自覚として実はとても理不尽な感覚を持っています。

それは、自分が知らない略語を使われるとどういうわけか若干ムカッとくるのですが、その一方で自分が率先して使う場合には何の抵抗感もないのです。

これぞ究極の我がままだなと自分で思って苦笑いするのですが、なぜそんな内面の反応をしてしまうのか少し考えてみたら、その理由が分かりました。

その根本的な問題は見捨てられ不安から来ているらしいのです。つまり、自分の知らない略語を他人が使っているのを聞くと、どうも自分だけ取り残されたような感覚がするようなのです。

知っている人たちだけで楽しくその言葉を使いまわしていて、自分だけつまはじきにでもあっているような、そんな感覚なのだと分かったのです。

その本心を隠すために、何となく生意気な感じがするとか、妙に聞いていてムカムカするといった反応に変換していたのだと思います。

だからこそ、自分が使う場合には何とも感じない、むしろ略することが当然のように思えてしまうのでしょうね。勝手なものです。

自分の反応が何か妙だなと思ったときには、しばらく内奥を見つめていると意外なことに気づくことができるものですね。

従順さと頑固さ

他人に言われたことにすぐに流されて、疑いもせずに従ってしまうという傾向の強い人がいます。そうかと思うと、その反対に誰に何を言われても頑として自分の考えを曲げない頑固極まりない人もいます。

双方の特徴を足して2で割ったくらいの性格がちょうどいいのかもしれませんね。しかし、実は一人の心の中で、そのどちらの極端な傾向をも併せ持っている人もいます。

というよりも、すごく従順な人というのは実はその裏で非常に頑固な一面を持っているということがおうおうにして言えるのです。

なぜそんなことがあり得るのかということを説明します。元々生まれながらに素直で従順な傾向を強く持っている人は、親や周りの大人たちの言うことをそのまま受け入れてしまいます。

疑問に思うことなく何でもそうなんだと疑わずに受け止めてしまうことで、時としてひどく傷ついてしまうことがあるのです。

なぜなら、自分にとって都合の悪い情報かどうかということを検閲することもないままに、その情報をあるがままに心のなかに入れてしまうのです。

したがって、情報を検閲して場合によっては弾き飛ばすことのできる人に比べて、傷を負いやすくなってしまうということですね。

そうして、手痛い経験をしてしまうと、それに懲りてその経験に関連した情報が来たときには、今度は自分を守るために頑なに拒絶するようになるということです。

ただ、自分を守る必要がないような情報に関しては、生まれながらのやり方のまま、批判したりせずに受け入れるという生き方をし続けるのです。

そうやって、ある面ではとても従順でありながらも、別の面では非常に頑固な反応をするという二通りの面を同時に合わせ持った人になるということです。

表面的には素直で従順な人であったとしても、ある特定の領域に関してはとてつもなく頑固であると言う場合が非常に多いのはそのためです。

そしてそういった人は自分が頑固だという自覚はかなり薄いものです。あなたの場合はどうでしょうか?自分を従順なほうだと思っている人は、一度頑固な面があるかどうかじっくり見つめてみることをお勧めします。

そうすると、自分はどんなところが急所なのかが分かる場合があります。人は、自分の弱点に関しては、頑固さを持っているものであるからです。

山アラシ ジレンマ

みなさんは、山アラシ ジレンマという言葉を聞いたことがあるでしょうか?ご存知のように、山アラシという動物は、体中に尖がった針のようなものがいっぱい付いていて、それで外敵から身を守っている愛らしい奴ですね。

彼らが集団で生息している時に、気温が低くなって暖をとらねばならなくなったときに、互いに身を寄せ合って暖めあおうとするわけです。

しかし、近寄ればそれだけ身体の針で互いの身体を傷つけてしまうので、それ以上近寄ることができません。

かといって、遠くに遠ざかろうとしたらやはり寒くなり過ぎてしまい、それも困るわけです。そうやってどっちにしても思い通りにいかないというジレンマを抱えることになるのです。

そのことを山アラシ ジレンマというのだそうです。これは、心理学などでよく使われる言葉なのですが、それは人間の心理にも当てはまることがあるからです。

人は誰でも心の奥底で人との一体感を求めています。自分の気持ちを全部分かって欲しいというのも、そうした思いがあるからです。

そして相手とできるだけ距離を縮めて、すべてを分かり合いたいと思って心を開けば開くほど、傷つけられる可能性がとても高くなるのです。

そうして一度痛く傷つけられた経験をしてしまうと、今度は相手との距離をある程度保とうとするようになってしまいます。

でもそれは、本心である一体感を得るには遠すぎて、孤独の中に放り出されたような寂しさを感じてしまうという状態になるのです。

どちらにしても、満たされることがない、苦しいジレンマに悩まされるということになってしまうのです。

人といると気を使って疲れるので一人がいいけど、一人は寂しいよというのは誰しも経験があるのではないでしょうか。

しかし、本当の私達は山アラシのような針を持っているわけではありません。自分は傷つく存在だと思うことがそうしたジレンマを生むということを理解する必要があるのです。

コースの教えにあるように、自分を傷つけられるのは自分以外にはいないということをしっかりと見つめることが大切ですね。

理性的な意識

私達は、時として激しい感情が沸き起こってきたり、追い詰められてパニックになったりすると、理性的なコントロールが効かなくなってしまって大声を出してしまったり、とんでもない行動をしてしまうことがあります。

それでも、後で気持ちが落ち着いたときに自分の言動を思い返してみたときに、あれは理性的ではなかったなと理解して、それを認めることができますね。

そうした理性を欠く言動というのは、感情やその他の情動によって理性を使うことができなくなってしまっている状態なのだということが分かっています。

裏をかえせば、理性さえしっかりしていれば、つまり自分の自覚として理性的でいられる限りはそういった事にはならないという自信があります。

しかし、もしもその頼りにしている自分の理性そのものが歪められてしまったとしたらどうでしょうか?物事の理屈や歪みを認識できるのは、その理性がまともに働いているからこそなのです。

つまり、私達は理性そのものを歪められてしまうと、その理性によって物事を解釈し判断することになるため、その結果は理性的な判断や言動をとることができなくなってしまうのです。

しかし、その場合には自分の言動が理性的ではなくなっているという認識をすることができません。それを認識するための理性そのものが歪められているからです。

ですからこのような状態において、自分で自分の言動を正しく評価することは不可能なのです。でもそんなことはまずないだろうと思われるかもしれません。

これは以前コラムでも書きましたが、実は合理化と言われている人の心の防衛のメカニズムの一つとして実際にあるのです。

日常的にそうしたことがどのくらいあるのかというのは、各人の心の状態や防衛のパターンによっても違ってきますが、セラピーのセッションの場では事の他よく起きます。

それは、セッションでは本人が無自覚に抑圧してきたものに直面して何らかの気づきを得ていただくための支援をするため、ご本人の防衛機制が働き出すということが原因です。

本当に人の心とは不思議なものですね。とても興味深いですし、最近では自分の防衛するパターンを見つけて苦笑いすることも多いです。

責任逃れ

ある人にこういう質問をしたことがありました。「想像の中で、自分の言動として一番浅ましい、最も嫌悪することといったら何ですか?できるだけリアリティのあることでイメージしてみて下さい。」

その人はいろいろ考えた末に、ひき逃げの犯人になることかもしれないと言ってくれました。それを聞いたときに、最初はもっと極悪非道なことは沢山あるのにと意外な感じがしました。

その人の解釈では、爆弾テロのような殺人とか、強盗などはリアリティがないし、やっていることに向き合っているので、ある種の覚悟をしている行為という感じがするということでした。

それに比べて、ひき逃げというのは卑怯な感じがする、つまり責任逃れという意味あいが含まれており、それが一番ダメ出しの対象になるということでした。

それを聞いて一つ思い出したことがありました。学生のころに、友達と話しをしているときに、自分は殺人よりも脱税の方を忌み嫌うというようなことを言っていたのです。

殺人を擁護するような気持ちは勿論まったくありませんが、脱税の方が何かこう「せこさ」みたいなものを感じて、とても醜悪な気がするということかもしれません。

しかし、最近では人間のどんな卑劣な言動であろうと、それに対してあまり反応するということがなくなってきてしまいました。

その理由は、そうした浅ましい言動をしてしまう心の大元には分離しながら生きることの苦悩があるということが分かってしまったからです。

責任逃れというと、卑怯な感じがしますが、単に苦悩から逃れたいということだというように変換すれば、卑怯だという感覚はなくなってしまいますね。

人の悪い言動、ダメ出ししたくなるような自分の思いや感情、そうしたものは例外なく根本的な分離の苦悩から逃れたいというたった一つの原因からくるものなのです。

それを責めて、そこに罪を見出す必要があるでしょうか?

苦悩の根源

人類が月へ初めて到達してからもう40年前後経っていますね。その後も人類が宇宙に向けて進化を続けているのは誰でも承知していることです。

いずれは一般人でもロケットに乗って宇宙に出かけられるようになるはずです。ここで、ちょっと想像してみて欲しいことがあります。

それは一人乗りの宇宙船が故障して永遠に宇宙をさまようことになったらというものです。さまようと言っても、動力がなくなれば実際には一定の速度で直線的にどこかの方向に進み続けることになります。

宇宙空間には空気も雨もありませんから、宇宙船が錆びてしまったり、風化してぼろぼろになることはありません。

勿論実際にはその代わりに、隕石やら星などとぶつかってしまうかもしれませんが、そういったことは考えに入れずに永遠に宇宙空間を漂うと言う想定をするのです。

自分は生命維持装置につなげられており、食事も排泄もせずにずっと生き続けられると知っているとしましょう。

つまり、この状態とは完全なる孤独な環境の中で、絶対に永遠に死なずに生き続けられるという設定です。生命体として永久に生きていける環境であると同時に、気晴らしなどは一切できないというものですね。

現実の生活があまりにも辛すぎて生きては行けないと思っている人にとっては、もしかするとそんな宇宙船の中での永遠の孤独でも逃げ場として受け入れるかもしれません。

ですが、通常であればそんな環境では発狂してしまいそうだということが分かります。将来の不安もないし、お金がなくなって飢え死にする恐怖もないし、病気もないし、肉体的な苦しみもないというのに、なぜそう感じるのでしょうか?

実はこれこそが我々が本質的に抱えている苦悩なのです。私達が持っている本当の苦悩、恐怖とは死ぬことではなく、こうした分離感にあるのです。

誰もがこの分離感はとても堪えがたいものであると知っているため、それを死の恐怖に摩り替えておいて、しかもそれを抑圧して分からないようにするという念の入れようなのです。

ですから、この苦悩の根源からは相当に遠い意識で生きているのです。しかし、ここで想像したようなことをじっくり感じてみることで、この苦悩の根源におぼろげながらも気がつくことができます。

これこそが、すべては一つという愛の想念の対極にある苦悩です。私達は恋人に捨てられたから苦しいのではなく、お金持ちになって優雅な暮らしができるから幸せなのでもありません。

本当の苦悩は分離からくる愛の欠如であり、本当の幸せは愛への帰還なのです。それ以外のことはすべてまやかしだということに気づくことですね。

ショートカットは難しいのか

以前このブログでも書いたことがありますが、人の心の進化というものは、依存→自立→相互依存→神への依存 というような変遷をしていくものと思っています。

最後の神への依存というのは、全体(愛)への回帰というような意味あいがあり、神というものをわざわざ持ち出す必要はありません。

そのことはともかくとして、私の中でここ数年懸案になっているのは、依存から自立や相互依存をすっ飛ばして、一気に最後まで到達できないかというものです。

つまり心の癒しのショートカットは現実的だろうかということです。セッションにいらっしゃるクライアントさんは、自覚があろうとなかろうと概ね依存から自立へとうまく移行できずに困っている状態なのです。

勿論この依存は全人格的なレベルの場合から、特定の一部についてだけの依存という場合まで様々なのですが、それでも人生がうまく行かないというのは依存からうまく自立ができてないことによるのです。

したがって、セラピーの大部分はこの依存から自立へと向かうことを支援するということになります。しかし、もしもそんな回りくどいことをせずに、ショートカットして最終地点を目指すことができたら、どんなに時間と労力の節約になるでしょう。

これは勿論セラピスト自身にとっても言えることです。依存から全体への回帰という一連の流れは、実は何度も繰り返しながら進んでいくものなのです。

依存から自立へと向かうときに全人格的であることはまずあり得ません。ですから、何度も何度も繰り返して依存から自立へと遷移する必要があるのです。

そして今までのところ、残念ながらどうもショートカットは難しいかもしれないと思い始めています。ある程度の段階まで依存から自立へとシフトしてからでないと、その先へ進むのに必要となる自覚を持ち続けることが難しいのです。

この現実が自分の心の奥に抑圧されたものの投影でしかないということを認められるためにも、自立は欠くことのできないものかもしれないと思い始めています。

より正確な表現をすると、依存から自立への進化というのは表面的なものであり、内面的には分離しているということを認めてないということに気づく作業なのです。