所有すること

初めて音楽の媒体を買ったのが小学5年生の時だったと思うのですが、その時はドーナツ版と呼ばれるレコードで今のシングルCDに相当するものでした。

中学生の時もレコードを買った記憶はあるのですが、明確に自分自身の趣味でミュージシャンを選ぶようになったのは高校に入ってからでした。

昔はレンタルショップというものがなかったので、親からもらったこずかいから購入するしかないので、厳選に厳選した末に月に一枚か二枚アルバムを買うという習慣になってました。

少しずつですが、気に入ったアルバムのコレクションが増えていくのが嬉しくて、今思うとあれがいわゆる収集家たちの楽しみにも似たものだったのかなと感じています。

しかし、元々何かを集めて喜ぶタイプではなかったので、レンタルショップが増えてくると、借りてきたアルバムをカセットテープにダビングして楽しむようになりました。

今ではそれが若者の文化みたいになっていますが、購入するのに比べて格段に安価に楽しむことができるのですから、利用しない手はありません。

自分には所有欲みたいなものがあまりなかったのかもしれません。勿論子供の頃から欲しいと思うものはおもちゃにしても何にしても沢山ありました。

しかし、それは所有していたいという欲求ではなく、それで楽しみたいだけなのです。ですから、遊び飽きてしまうと次のものへと興味が移ってしまい、物を大事に持っているということがありませんでした。

大人になってもその傾向は変わらず、何かを自分の物にしたいと思うことはほとんどありません。使えればいいし、楽しめればいいという具合です。

世の中のすべてとは行かないまでも、できる限りレンタルできるシステムが普及してくれたら高額を払って手に入れる必要がなくなります。

世の中全体で、特に高額なもの、土地や建物、クルマ、そういったものをみんなでシェアするような文化や仕組みができたらいいなと思っています。

所有するということに特別な価値を見出すのは、我々の心に巣食う不安感や欠乏感が原因なのではないかと思います。

自分の所有物にしないと気がすまないという気持ちが人々の心から少なくなることで、さまざまなものを共有するしくみをもった社会になっていくのではないかと期待しています。

感謝は幸せのバロメーター

なにげない毎日の生活の中で、感謝を感じることがどれだけあるかということが、その人の幸福度を表す一つのバロメーターになると思います。

それは何か特別なことがあって、そのことに格別の感謝を感じるというものとは違いがあります。例えば、旅先などでトラブルに出会ってとても困っている時などに、見ず知らずの人に親切にされるという経験は、感謝の念を引き起こすはずですね。

こうした経験も確かに幸運ではあるし、とてもすばらしい体験をしたということには違いないのですが、しかし一番贅沢な感謝には、特別なことは何も必要としないのです。

私にとって毎日感謝をし続けられるのは、セッションに来てくださるクライアントさんや講座に来てくださる受講生のみなさんに対してです。

自分の癒しをこの先も進めていくために必要となるお金を与えていただけるだけでなく、多くの気づきをも与え続けていただいているからです。

自分が一人ではどんな癒しも満足にすることができないということは、痛いほどわかっているからです。

日常的なことでは、蛇口から必要なだけ飲むことのできるきれいな水やお湯を出すことができるということや、雨や風をよけるために快適な部屋があるということ。

宇宙レベルで言えば、限りなく奇跡的なこの地球の自然環境もそうですね。人間を含めたさまざまな生き物が存続できるあり得ないくらいに設えたものだと言えます。

幻想であるにしても、60兆個の細胞が複雑に機能を果たすことで成り立っている自分の身体にも感謝の念を感じることができます。

感謝は愛の一つの表現であると思います。自分が誰かに愛されているという感覚を持つことができること自体、大きな感謝を感じずにはいられません。

怖れの克服 その2

昨日のブログでは、非日常的なことや知らないことは往々にして不安や怖れがつきまとうものであり、従ってそのことを繰り返して慣らして行って日常的なことにしてしまえば、その怖れをある程度克服できるというお話をしました。

しかし、何度も繰り返して体験したとしても、怖さがなくならないという場合もあります。例えば、人前で話をするのが怖くて震えてしまうような人が、何度そうした経験をしたとしても一向に慣れることがないということもありますね。

理由は二つあると思います。一つは、経験の繰り返しが充分ではない場合です。繰り返したとしても間隔が空いてしまうと、経験がリセットされてしまい、いつまでたっても慣れるところまで行かないということがあります。

そしてもう一つは、本当の怖れの原因がその経験とは別のところにある場合です。つまり、その体験をすると元の怖れを想起させるというような場合です。

この怖れを克服するためには、根っこにある怖れが本当はどこから来ているのかということを突き止める必要があります。

例えば、声の大きい上司に怒られると、身体が凍りついたように硬直して動かなくなってしまうくらいに怖いという場合、本当に怖いのはその人ではない可能性があります。

もしかしたら、幼い頃にお父さんに大声で怒鳴られて身の縮む思いをしていた時の怖れを想起しているだけかもしれません。

そうした子供の頃の怖い体験から目をそむけていると、いつまでもその時の怖れから逃れることができなくなってしまいます。

このような場合には、かつての恐怖体験をなるべくつぶさに思い出して、大人の自分に再体験させてあげる必要があります。

それを繰り返して慣らしていくことで、日常的なその声の大きい上司への怖さを小さくすることができるのです。目をそむけたものを克服することはできないということですね。

怖れの克服

高校一年生の時の現代国語の教科書に、「日常性の欠如」という題名の文章がありました。それは、へびを怖がる人が多いのはその身体に我々人間が日常的に意識している手や足がないからだというものでした。

今から40年も前に読んだ文章のことを覚えているのですから、きっとそれは自分にとって何かひっかかる内容だったのだと思います。

怖れの正体について興味があったのかもしれません。私もへびは怖いです。噛まれたりしないし、危害をこうむることはないと保証されても何となく不気味な感じがします。

しかし、もしも毎日へびを見る機会が与えられたとしたら、今持っている怖さというのはきっと緩むはずです。見た目の怖さという点では間違いなく慣れてくるはずですね。

毎日通い慣れた場所に行くよりも、見知らぬ場所に行かなければならない時の方が緊張しますし、より不安になるかもしれません。

ずっと運転していなかったペーパードライバーの人が急に運転することになったら、初めのうちはやはり怖がるかもしれません。

自分が苦手な事や怖いと思うことを克服していく一つの手としては、それを日常的なことにしてしまうことです。

日常的とは繰り返すことを意味します。何度も繰り返してその経験をさせることにより、怖さというのは小さくなっていくものですね。

繰り返していくうちに、少しずつ怖さが減ってくると、今度はあまり怖くないという経験を繰り返しすることになります。

そうやって、気がつくと自分でもびっくりするほど何でもなくなってくるのです。私はかつてHP上でコラムを書き始めたときに、それを自分で読み返すのがいやでした。

不思議なことですが、みなさんに読んでいただくために書いて自ら公表しているくせに、あらためて読もうとするとへんな冷や汗が出たのです。

きっと自分の書く文章に自信がなかったのでしょうね。でも繰り返し書いては読んでを続けてきたおかげで、今では相当に図太くなったようで読み返してみても何の反応もしなくなりました。

怖さから逃げずに続けてみるということは、自分を鍛えるというより慣らして日常的にすることで怖さをある程度克服するものらしいです。

楽しい夢を見るコツ

子供の頃に、寝る前にこれから一体どんな楽しい夢を見ることができるのかなと期待しながら床に就くということがよくありました。

大人になってからはさすがに意識的にそういったことはしなくなりましたが、でも心のどこかで面白い夢、嬉しい夢、びっくりするような夢を見ることを期待している自分がいます。

逆に怖い夢、苦しんでいる夢は誰でもそうですが、見たくないと思っています。でも実際は眠って目が覚めて見ない限り、どんな夢を見ることができるのか分かりませんね。

しかし、これも子供の頃に考え付いたことなのですが、見たくない夢を見ないようにするには、寝る前に床の中でそのことをしっかり思い出すという方法があるのです。

どうしたわけか、この方法はほとんど功を奏します。もしかしたら、これは私の場合に限って使える方法でしかないのかもしれませんが。

寝る前にしっかりと思い出した内容は、決して夢には出てこないと言う法則があるのです。それもただ思い出しているというより、これが夢の中で出てこないようにと思い出すという意識が必要なのです。

ただ心配ごとなどをずっと頭の中でグルグルさせてしまったりすると、かえってそのことがそのまま夢になって現れてきてしまうことがあります。

その場合にも、今心の中で心配していることはこれだけしっかり思い出しているので、決して夢に出てくることはないだろうと意識して寝ることで回避されます。

この方法は、あくまでも見たくない夢を見ないようにする方法です。本当は、見たい夢を見る方法があればいいのですが、これは今のところどうすればいいのか分かりません。

寝る前にこんな内容の夢が見れたらいいなと思ってしまうと、先ほどの法則からその内容の夢は決して見ることができなくなってしまいます。

ですから、日中こんな夢が見れたらいいなという内容については、決して寝る前に思い出さないように気をつける必要があります。

そうすると、もしかしたらそれが夢となって現れてくれるかもしれません。みなさんもご興味があれば是非試してみて下さい。

新たな決意

新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。昨年の3月にこのブログを始めてから、10ヶ月が経ちました。

毎日、穏やかな気持ちでこのブログに向き合うことができて、とても感謝しています。何事もない淡々とした毎日ですが、それがものすごく幸せに感じたりします。

実際には、今日は何を書こうかなと思ってから、どうにもこうにも何を書いていいのやら、何のイメージも浮かんでこない日もあります。

それでもじっと耳を澄まして待っていると、これを書けば?というようなニュアンスのものが浮かんできてくれます。

そんな感じですので、どんなことを書こうか吟味してじっくり考えて書いていた以前のコラムに比べて、内容が希薄かもしれません。

まあそれでも、自分にとっては毎日向き合うということがとても意味あることのように感じています。それは、自分の人生をできるだけ癒しに当てることに繋がるからです。

朝起きてから、夜寝るまでの毎日の時間を自分はどれだけ癒しに費やしているのかなとよく考えるのですが、それは満足のいくものではないという自覚があるからです。

自分を救うため、この世界を救うために生きているということが分かっているはずなのに、どうも余分なことにまだまだ楽しみを見出そうとする自分がいるのです。

今年の目標は昨年よりも、ほんの少しでいいので癒しに係わる時間を増やしたいと思っています。ですからブログと向き合い、こうして何がしかのものを書くことはとても充実した感じがあるのです。

自分も含めてですが、みなさんも何のために生きているのかを、今年は明確にしてみませんか?明確化できると、それを実践できてもできなくても、毎日をどう過ごすかという基準みたいなものができて、心がそれだけ楽になるはずです。

今年もご一緒に癒しを進めてまいりましょう。そしてそれを楽しみながら続けられるといいですね。

大晦日

今日は一年の最後の日ですね。一年というのはご存知の通り、地球が太陽の周りを一周するのにかかる時間です。

実際には約365.25日で一周するので、そのままでは一年当たり0.25日分足りなくなります。そのずれを修正するために4年に一度一年を366日とするうるう年というものを作ったのです。

大晦日には、子供の頃は家族みんなでNHKの紅白歌合戦を見るというのが慣わしになっていましたが、最近はチャンネルを変えながらその時見たい番組を見るようになっています。

今思い返してみると、子供の頃は決まりごとみたいなものが今よりも沢山あったように思いますね。なぜか、大人になるに従ってあまりそういうものに捉われなくなりました。

自分の子供が小さい頃は、そういったものがまた少し復活していた時期もあったように思いますが、子供が成長して大人になった今はまた決まりごとのない毎日に戻っています。

今年一年を振り返ってみると、自分の周りで起きた事象としては何か特筆するようなものは一つもなかったと思います。

ただ、自分の内面の変化についてはいろいろな気づきがあったように思います。それは昨年の秋に出会った「奇跡のコース」という本の影響だろうと思っています。

昨年に引き続き、一年を通してその教えとずっと向き合って来ました。それは、一人で本文を読んだり、ワークを実践したりということだけでなく、月に一度の勉強会を通してみなさんと一緒に学んできました。

また、講座や日々のセッションを通して、コースの教えをみなさんに伝えながら自分も多いに学ぶことができたと思っています。

コースの教えはとてもシンプルです。ですが、だからといってそれを実践することは難しいですし、また理解の度合いもほんの少しずつ心の奥に染み込んでいくような感覚があります。

一年後の大晦日の日は、今と比べてどれだけの気づきを得ることになっているのか、それを想像するとワクワクしてきます。

今年一年、何らかのかたちで私と係わってくださったすべての人たちに感謝しています。あなたがたのおかげで私は沢山の学びの機会を与えられたのですから。

本当にありがとうございました。また来年、ご一緒に心の癒しを進めていけたらと思います。

必要とされること

何日か前にこのブログで、見捨てられるということが人間が感じる最大の苦悩だということをお話ししました。

見捨てられるというのは、役に立たないとか、用なしとかいう意味合いを感じますね。つまり、必要とされてないという感覚にも近いかもしれません。

しかし、見捨てられることが最大の苦悩である本当の理由は、自分は愛されていないという感覚になることが原因なのです。

愛されているという体験があまりにも足りてないと、見捨てられるという苦悩から逃れるために愛されたいと望む代わりに必要とされたいと勘違いしてしまうことがあるのです。

本質的には愛されることと必要とされることは全く別のことなのですが、この二つを混同してしまうということです。

そこから何かと頑張る人生が始まるのです。つまり、必要とされ続けるためには自分の能力や行動を認められることが条件となるからです。

何の取り得もなければ、人は自分を必要としてくれるはずがないと考えてしまうからです。必要とされること、それこそが自分の価値だと思い込んでしまうのです。

厳密に言うと、本当の愛は何も必要とはしません。何かを必要と感じるのは、人間が持っている欠乏感からくるのです。

ですから、それは愛とは程遠いものなのです。最も月並みな例をあげれば、依存心であろうと相手を必要とするのです。必要とされていることが愛されていると錯覚してしまうと、依存者に依存させる共依存になってしまいます。

もしも、自分はあまり人から必要とはされていない感じがすると思っているのでしたら、それを解決するために頑張るのは得策とは言えません。

それは単に愛が足りてないという感覚ですので、自分が愛を与える存在になることです。そうすれば、必ず愛を与えてもらえるようになるのです。その結果、必要とされなくても満たされた心でいられるようになるのです。

支払い

数日前にこのブログで、自分が受け取るお金を報酬としてみることをやめて、人生に必要なものを与えられたのだとすることで感謝の気持ちになれるということをお話ししました。

それに付随して、自分の労働や成果を報酬を受け取るための取引の材料とするのではなく、愛を持って与えることにより報酬を期待しない人生にしていけるということもお話ししました。

今日は逆に自分の方が相手にお金を支払う側の時のことについてお話しします。例えば街に出て買い物をする場合、欲しいなと思ったものを手に入れるためには、その品物の定価分の支払いをします。

このときに、欲しいものが手に入ったことを喜ぶ気持ちと、お金を使ってしまったなあと悔やむ気持ちの両方があるかもしれませんね。

しかし、自分の気持ちをその前者の方に全面的に向かわすことができたら、嬉しさだけを感じることになります。

そうして、お金を使ってしまって所持金が減ってしまったというところに意識を向ける代わりに、欲しいものを手に入れることができた感謝の気持ちを支払うお金に乗せるのです。

つまり、この支払うという行為についても、品物を受け取ったという対価として相手に支払うという意識を手放すのです。

形としては確かに相手が指定した価格分の代金を支払うわけですが、品物との取引としてお金を払うのではなく、そこを切り離してお金を与えるというように気持ちを変えるのです。

そうすると、欲しい物を手に入れて嬉しい気持ちとそのことに対する感謝をお金を支払うという形を利用して相手に捧げるということが同時にできるのです。

こんなお得なことはありません。逆に自分が受け取る品物に見合った額を支払うという意識でいると、想定された額より多い額を要求されてしまうと怒りが出てきてしまいます。

買って損をしたという気持ちになってしまうことの方が余程損であるということに気づくことです。たとえ、形は銀行振り込みであっても全く同じです。お金の支払いは感謝の気持ちを込めて与えることです。 そして与えたものは必ず与え返してもらえるということも付け加えておきます。

偏食

幼い頃から好き嫌いせずに何でも食べられる人っているものですね。それに比べると、自分はひどい偏食でほとんど食べられる物がないくらいでした。

肉類も野菜も果物も全滅で、玉子焼きや乳製品と後はお菓子類で育ったようなものです。ですから、食事の時間が待ち遠しいという経験がありませんでした。

こうしたものは個性として生まれながらに備わっているものなのかもしれませんが、それにしても何でもおいしそうに元気よく食べられる人が若干羨ましかったのを覚えています。

だからといって、食べられるように努力するわけでもなく、小学校に入って給食が始まったときには大変でした。というより、主食の食パンにバターを塗ってそれだけをかじってた記憶があります。

それでも幸か不幸か、嫌いなものを食べるようにと強制されたことがただの一度もなかったので、苦しかったという経験はありませんでした。

そして、ひどい偏食は年齢とともに少しずつ解消されていき、高校生くらいになると果物の一部と肉類はやや食べられるようになりました。

それが大人になるに従って、食べられないとして口に入れることもしなかった様々な食べ物を口に運ぶようになって、ようやく偏食はかなり改善されたのです。

何でも好んで食べるというわけではないですが、今では珍味といわれるような、人が比較的敬遠するような臭みのあるものほど、好きになったりしています。

これは私の考えなのですが、幼い時に嫌いなものを食べるようにと強制されなかったことが功を奏したのではないかと思っています。

無理やり食べさせられる経験を積むと、それを乗り越えて普通に食べられるようになるか、あるいはトラウマになってその食べ物を二度と食べれなくなるかのどちらかではないかと考えています。

幼いころに厳しい幼稚園に通っていたある牛乳嫌いのクライアントさんが、毎日無理やり飲まされたおかげで、大人になって全く飲めなくなって、牛乳を見るのも辛いと言っているのを聞かされたことがありました。

育ち盛りのお子さんの偏食で困っておられる親御さんがいらっしゃるかもしれませんが、無理強いは禁物です。逆効果になってしまう可能性大です。

あまり心配せずに、大人になったら自然と食べられるようになるものだというように広い心で見てあげることです。人間の身体は嫌いなものを食べても、消化吸収しないと聞いたこともあります。

逆に、本人の大好きなものを楽しく食べさせてあげると、身体も喜んで最大の消化吸収の能力を発揮してくれるのです。