潜在意識に光を当てる

まだ大人にはなっていなかったと思うのですが、ある時海に行って調子良く沖に向かって泳いでいたのです。

すると、突然それまで近くに見えていた海底が消えて、底無しの状態になったので急に怖くなって引き返してきたことがありました。

きっと平だった海底が、その部分で崖のようになっていたのだろうと思うのですが、底が見えないというのは何とも不気味な恐怖を感じさせるものがあるのですね。

それと同じように、私たちは自分の内側を見るときに、自分とはこんなものだと考えて心の底が意外に浅いもののように感じているので怖くないのです。

もしそれが内面を深く探っていってどこまでいっても底無しの様相を呈してきたら、空恐ろしく感じて探求をやめてしまうでしょう。

私はそれこそが自我の作戦なのではないかと疑っています。つまり、そうやって奥深くを見せないようにして自我の正体を隠し通そうとしているのです。

本当は心の底などなく、私たちの中心には何もないのです。自我というのは中心を持った確固とした実在などではないからです。

それがバレてしまったら自我は胡散霧消してしまうのです。それは自我の死を意味するので、怖くて見れないようにしているということです。

大変な恐怖にも負けずに、勇気を持って潜在意識の部分を見に行けたら、自我と一緒に人生も消えていくのかもしれませんね。

実在を見る

私の中には、この世界この人生はすべて夢に違いないと思っている部分があるのを感じるのですが、それはあまりにも荒唐無稽です。

なのでここでは、世界は実在するということを前提で話しを進めていきますが、実在というのは私たちが見ているように在るのではありません。

つまりこの世界には、実在するものと私たちが知覚によってこうだろうと解釈しているものの二種類があるということです。

先に実在しないものを明らかにした方が分かりやすいかもしれません。例えば、物語は実在とは無関係であることは明らかですね。

あるいは物事の価値とか意味、歴史、善悪等々。私たちが日頃関心を寄せているものほど、実在しない側のものだということが分かります。

それらがなければ人生物語が成立しないもの、その一切合切が思考によって仮想的に生み出されたものなのです。

結局私たちが毎日生きている世界とは、思考によってあたかも存在するように見えるだけで、実在してはいません。

思考を排除した状態で、つまり澄んだ目で周りを見回したときに一体何が見えるのでしょうか?

これは言葉で伝えられることではないので、興味があればご自身で体感してみることです。練習次第では、長く瞑想などせずともすぐに見えるようになるはずです。

自我が抵抗すること

私たち人間は、いつも何かが足りない感じがして、何かに不服を感じて、そういったものを満たして充足しようと思い続けています。

欲望というのはそのようにして出来ているのです。ところがいざその欲望を叶えてしまったら、一時の充足感はやってくるものの、またすぐに次の不満がやってくるのです。

あれが手に入ったら、これが出来るようになったら、それが実現した暁には…が次から次へと浮かんでくるのです。

結局どんな希望が叶ったところで、満足感が長続きすることは決してなく、すぐに新たなものを目指して進み始めるのです。

こうしたことに気づき、もうこんなことの繰り返しは嫌だとなったら一体どうしたらいいのでしょうか?

実はたった一つ、もうこれ以上満たされる必要を感じない状態になれることがあるのです。

それは自分のことをすっかり忘れて、誰か(何か)のためだけに生きるのです。つまりマインドの代わりに、無私という愛によって生きること。

そうなったらどんな不満も発生せずに、キラキラと毎日を過ごせるようになるはずです。が、自我はそこには行きたくないと言い張るでしょうね。

一瞬一瞬を注意深く

昨日のブログで、私たちの本質は思考などではないということをお伝えしました。なぜそんなことを言わなければならないかというと、大勢の人が思考(自我)が自分だと信じているからです。

自我というのは思考であり、無数に集まってマインドという機能として働いているのです。それは決してあなたではありません。

ではなぜ私たちはこれほどまでに思考に浸食されてしまっているのか?それは、私たちの本質である意識が眠ってしまっているからです。

宿の主人が寝込んでいる間に、その宿を占拠した図々しい奴らがいるのですが、それこそが思考(マインド)なのです。

別の表現をすれば、寝込んでいる間に思考によって占拠されて、それこそが自分なのだという夢を見ているようなものです。

だから意識が目覚めることになったら、一瞬にして眠っていた意識こそが自分の本質だったと気づくのです。

夢の中で思考に乗っ取られていた、あるいは乗っ取られている夢を見ていただけだったと気づくことになるのです。

その一番の近道は、日々できるだけ意識的であるように心がけることです。一瞬一瞬を注意深くいられるようにすることですね。

思考から離れること

東京エリアでは、この週末外出の自粛要請がされたようですが、ちょうどタイミングよく雪が降ってくれたおかげで、それほど苦もなく家のなかにいられた人も多かったのではないかと思っています。

そんなときには、静かに意識を内側に向けてみることです。ゆっくりと寛いだ状態になれば、普段どれだけ外側に意識が向いていたか分かるというものです。

思考が自分の本質ではないということをどれだけの人が理解しているでしょうか?言われてみれば分かるのですが、日頃はそんなことは忘れているのです。

しっかりと思い出す絶好のチャンスです。思考が無数に寄り集まってマインドという機能を果たしているのです。

そのマインドの仕組みを深く理解すれば、そんなものが自分自身であるなどとは決して思わなくなるはずです。

ところが自分は個人であるということが、単なる思考によるものだというところまで追い込める人は少ないかもしれません。

思考から離れられたとき、自分には何が残るかをじっくり観察してみるのです。するとそこには、観察するモノ(意識)だけしかないと気づきます。

つまり私たちの本質とは意識だということです。だから大きさも形も位置もそれ以外のどんな属性もないのです。

だから生まれることも死ぬこともできません。ただ永続して在るだけです。思考から離れられたときには、誰でもこのことを知ることができますね。

恐怖は愛の不在

自我が活動していないとき、そのときには恐怖は消えてしまいます。もちろん動物として必須である防衛本能が起こす恐怖は残ります。

ところが心理的に作られる恐怖というのは、自我が活動していない限り、存在しないということです。

つまりは、心理的に感じる恐怖感は自我(マインド)が生み出しているものなのですね。自我が非活性のとき、私たちはその本質としての愛の状態に戻ります。

なるべくリアルに想像してみて下さい。100メートルの高さのバンジージャンプを飛ぶとしたら、その恐怖はかなりのものでしょうね。

けれども、あなたがそのバンジージャンプを飛ぶことで、大切な誰かの命が救われるとなったら、突然恐怖は消えてしまうはずです。

なぜならその瞬間、あなたの愛が発動することで自動的に自我が非活性状態になるからです。恐怖はどこかへ消えていってしまうのです。

愛の状態では、自分の命を差し出すことすらできるのは驚くことではないということです。

それは自我には決して味わうことのできない、満ち足りた至福の状態になるのでしょうね。

正しさは防衛に使われる

マインドというのは、自分が考えることが正しいと思い込むものなのです。なぜなら正しさは自己防衛として役立つからです。

正しさを心の鎧として活用してしまうと、その人の周りには正しくない人たちがたくさんやってくるようになるのです。

これは偶然ではありません。なぜなら、正しさというのは正しくないことと比較しなければ機能しないからです。

正しさが単独で正しいと判断されることはないのです。だから正しさを身に纏っている人は、絶えず正しくない人を周囲に必要とするわけです。

本人が正しくない人を呼ぶのですから、周囲には呼ばれて寄ってくる人たちで溢れかえることになるのです。

もう一つ正しさに依存している人の特徴を挙げると、大抵の場合すぐに謝罪しないことが多いですね。

世の中には決して謝ろうとしない人がいるものです。あなたの周りにもそうした人がいると思うのですがいかがですか?

その人が謝らない理由はたった一つ、誤ってしまったら自分は正しくないということを認めてしまうことになるからです。

だから正しさで防衛している人は、なかなか謝ろうとしないわけです。正しさは防衛に過ぎないということを見抜くことができれば、より自然に生きることができるはずですね。

内的世界で生きる

活動自粛というのは、普段から活動的な生活をしている人にとってはなかなか辛いものがあるでしょうね。

自我というのは、何もすることがないと危険を感じるようにできているからです。退屈とか手持ち無沙汰というのは、その現れなのです。

私のような非活動的な人間であっても、一日中何もするなと言われれば、それはきっとシンドイことになるだろうと想像できます。

高校生の頃の友人が、一日に一回は外出しないと気分が悪くなると言っていたのを今思いだしました。

私にとっては当時まったく意味不明でした。というのも、私は小学生の頃に一度だけ、夏休みの間ほとんど外に出ずに過ごした経験があるからです。

子供としてはちょっと病んでるのかもと思われてもしかたがないのですが、本人としてはいたって平気だったのです。

外側で何が起きているかということへの興味と同じくらいに、自分の内的世界にも興味を持っていたのかもしれません。

だから意識が内側に向いていても退屈をせずに済んだのだと思います。今ピンチをチャンスに変える絶好のときです。

もしもこの週末、あなたの住んでいるエリアで外出の自粛要請が出たなら、じっくりと内側に意識を向ける練習をしてみて下さい。

コロナウイルスが鎮静化したころには、きっと何かが変わっているはずですよ。

思考もウイルスも静まる

ウイルスという見えない敵に翻弄されて、メディアが一斉に人々の不安を煽るようなことばかり報道しています。

毎年猛威を振るうインフルエンザと比べたら、大したことがないはずなのに、私たちは未知であるということだけで、必要以上に怯えてしまうのです。

しっかりケアするべきはして、それ以外は平静な心持ちでいることがとても大切だと思いますね。

こんな時こそ、心静かにゆったりと座って穏やかな時間を持ってみることです。不安があればそれだけ思考も働きがちですが、それを眺めるのです。

思考は見つめられるとあっという間に静かになっていきます。思考と思考の切れ間に深遠な無が存在することに気づくはず。

起きていることをただ眺めている、そうなったらもうそこには不安も孤独も何もかも消えてしまうでしょう。

ひとりでも多くの人が、1日に1回でもこうした時間を作れるなら、買い占めなどもなくなり、気がついたときには思考と同じようにウイルスも静かになっているはずです。

何とかしようとしない

私たちのマインドには様々な思いや気分、そして気持ちや感情などが取っ替え引っ替えやってきます。

その中には都合のいいものもあるし、かなり都合の悪いものもあるでしょうね。それがマインドというものです。

自分のマインドとの付き合い方の中で一番下手なのは、都合の悪いものがやってきたときに、それを何とかしようとしてしまうことなのです。

「醜い嫉妬心」がやってきたら、それと戦わないこと、それを抑圧しないこと。それを何とかしようとすればするほど、それは強くなるからです。

「猜疑心」がやってきたら、それと戦わないこと、それを抑圧しないこと。それを何とかしようとすればするほど、それは強くなるからです。

「自責の念」がやってきても、「罪悪感」がやってきても、「劣等感」がやってきても、「惨めさ」がやってきても、「怒り」がやってきても全く同じこと。

それらと戦ったり、それらを抑圧しようとしたり、それらを何とかしようとすればするほど、それらは強くなってあなたを襲ってくるでしょう。

もう分かりましたよね?どんなマインドであれそれを何とかしようとせずに、ただ傍観すればいいのです。

言い方を変えると、それに対してただ無関心でいればいいのです。見守るでも同じことです。

それができれば、それらはいずれひとりでに小さくなっていくことになるからです。信じるのではなく、ただ実践してみて下さいね。