目的地はここ

日本には様々な「◯◯道」というのがありますね。柔道とか、剣道とか、合気道、武道、花道、茶道等々。

で、道というくらいですからどこかへ向かって進んでいくというのが共通している根っこにあるものです。

道はエンドレスに続いていく場合もあれば、目的地がある場合もあるのですが、いずれにしてもその道に沿って進んでいくためのものです。

何となく進んでいく先には、何か期待できるものが待っていてくれている、素晴らしい目的地があるような気がしてしまいます。

ところが仏陀は、進んでいくべき道などないと言っているのです。あるのは「ここ」だけだと言うわけです。

この真っ向から異なる主張をどう捉えたらいいのでしょうか?私が思うにどちらも当然間違っているわけではありません。

道があるかのようにして進んでいく必要があるのは、私たちが自我と同一化してしまっているためなのです。

どの道であれ、その終着点はどこか知らないところではなく、「ここ」なのです。ここ以外にはどこもないのだということを仏陀は言いたいのでしょう。

目指すべき目的地が本当になくなったとき、身を持ってそのことを知ることになるのでしょうね。

当事者意識はいらない

これが自分だと思っている自分、つまりそれが自我なのですが、その自我というのはいつも自分の人生の当事者だと思い込んでいるのです。

あらゆる体験にはそれを体験する当事者としての自分がいると思ってもいるし、選択や決意についてもそれをする当事者としての自分がいると信じています。

だからこその罪悪感だったり、あるいは手柄感がやってきたりするわけです。ただし、ときには激しい防衛によって無意識的に当事者ではないような顔をする人もいます。

罪から逃れたくて、失敗した惨めな自分から逃れたくて、それはまるでお笑いのネタのようにして、誰かのせいにしたりするのです。

が、それはあくまでも防衛からくる無意識のなせる技ですね。一方で、癒しを進めていくと不思議なことに当事者意識が薄れてくるのです。

自我は自分がやったことだと言い張ってはいるものの、癒しと共に自我との距離ができてくることによって、まるで人ごとのように感じ出すということです。

そうなると、罪悪感は小さくなってしまうし、手柄もなくなってしまいますが、一番都合がいいのは否定される恐れも小さくなってくれるのです。

当事者意識が薄れてくると、何が起きても飄々とした風情を醸し出すようになるかもしれません。いつもどこかで人ごとのように感じているからですね。

意識的に生きれるようになると、この当事者意識から離れていくようになるのです。その気楽さは格別ですね。

選択とは執着と拒絶

覚醒した人は、よく無選択でありなさいといいますが、これは自我(マインド)にとってはとんでもないことです。

なぜなら、マインドは常に何かを選択し続けているからです。選択せずにいたら、マインドはもたないでしょう。

だから無選択であれというのは、マインドに死ね!と言っているのと同じなのです。ところで選択というのはどういうマインドの働きでしょうか?

どちらか一方を選ぶというのは、極端に表現すれば選んだ方に執着するということであり、選ばなかった方を避けるということです。

この執着と避けることを同時に行うことを選択と呼ぶわけです。もちろんそれほど強い意志のないレベルの選択もあります。

そのときには、マインドはあまり使われていないということですね。その逆にどう考えたってこれを選択するという場合には、執着と回避をしているのです。

つまりレベルの差こそあれ、選択というのは執着と回避(拒絶)がマインドの中で行われているということを知ることです。

このことを知るにつけ、やはり選択というのはあまりお勧めできるようなものではないということになります。

明日から、選択する数を減らして行けるように意識してみるのもいいかもしれませんね。

惨めさを受容する

受け入れること、受容することが大切なのだということは誰もが知っていますが、それはなぜなのかを考えてみたいと思います。

誰しも受け入れがたいこと、あまりにも理不尽過ぎて、とてもじゃないけれどどうにもこうにも認められないというときがあるものです。

そんな時、マインドの中では何が起きているのでしょうか?いろいろ考えられるかもしれませんが、ズバリそこには惨めさがあるのです。

それを認めてしまうととても自分が惨めに思えて辛くなるのです。その惨めさから逃れたくて受け入れられないという状態になるのです。

結局一番受け入れ難いのは惨めさだったわけで、つまりはそれさえ認めてしまえば他のどんなことでも受け入れることができるのです。

自分は惨めだという思いを存分に見てあげて、そこからやってくる悲しみやあらゆる辛さから逃げずにいられるなら、マインドの受容能力が開花します。

惨めさを受容してしまえば、それ以外のあらゆる事柄のことも受容できるようになるということです。

元々惨めさから逃げることで防衛していたので、惨めさから逃げずにいてそれを受容するなら、人は無防備へと近づいていき、その分だけ人生の不満も不幸も小さくなっていくのです。

惨めさと戦わなくなったとき、自我の力は尽き果てて隠れていた愛が顕れてくるのでしょうね。

自然体に戻る

生まれる前には、自分というのはいませんでした。そして死んだ後もきっと自分はいないはずですね。

それが自然の法則です。であるなら、その真ん中のほんの束の間にだけ自分がいるというのはどうも怪しい気がしませんか?

それこそ自然かと言ったら非常に不自然極まりないのです。「いない→いる→いない」という流れはやっぱり不自然です。

一番自然だなと思えるのは、「いない→いない→いない」という流れ。流れというよりも元々いないものは、ずっといないままであるのが自然なのです。

つまりは、自分という個人は作り物だということです。初めからいないし、途中でもいない、そして終わりでもいないのです。

それをじっくり味わってみると、当たり前過ぎて笑えてきます。自然か不自然か、どちらを取るかと言えばもちろん自然の方でしょう。

だからどれほど不愉快であろうと、どれだけ残念に感じようと、あなたはいないのです。それが腑に落ちたとき、肩の力が抜けて、自然体に戻るのです。

「なる」ことと「ある」こと

私たちは常に「なる」ことを考えています。子供の頃からどんな自分になりたいのかを考えさせられましたね。

将来の希望とか私の場合はなかったのですが、卒業文集なるものに投稿しないといけないので、何とかでっち上げで書いた気がします。

もちろん将来の自分像がはっきりしている人の場合はそんなくだらない悩みなどなかったことでしょうね。

心の深いところで人生に対して文句を抱いていると、未来のことなど真剣には考えることが難しくなるのだと思います。

幸か不幸か私の場合はそんな感じで、どこかでひっそりと絶望していたので、目には見えない何かへの探求の方に興味が向いたのです。

で、はたと気づきます。そうだ、何かになるということが大切なのではなく、ただ在るという存在の不思議さを感じてみようと。

社会を肯定したり否定したりする代わりに、いつも一緒にいる自分という存在を見ることにしたのです。

いわゆる内省のような自我を見ることも非常に大切ですが、それとは別にただ在る自分を見ることはより真実に近づく方法だと分かったのです。

と同時に、存在を見て感じることは「なる」ことからは想像もできない静寂の中へと入って行けるのです。実践するしかありませんね。

「したい」には2種類ある

私たちは何かをする時、概ね2つの理由からするのです。1つは純粋にしたいからするという場合、もう1つはするべきだからするという場合です。

単にしたいからするというのはとてもシンプルですね。無邪気な子供たちはこのしたいからするで行動している場合が多いです。

ところが大人になると、諸事情によってそうもなかなか行かなくなるのです。仕事なんてイヤイヤやっている場合も多いのではないでしょうか?

それが2つ目の場合です。するべきというのは、お金を稼がなければならないからとか、他人から否定されたくないからとかいった理由が考えられます。

つまりは自己防衛からするということです。したいからするという一つ目の場合のちょうど真反対なのです。

けれどもこの2つの場合の違いが明確になっているのであればまだいいのですが、2つ目を1つ目と錯覚してしまうことが多いのです。

要するに、防衛からしていることなのに本人はそのことに気づかずに、自分はそうしたいからしているのだと勘違いしているのです。

たとえば、あるボランティア活動に興味があって、それをしたくて始めたのであれば、それは一つ目の場合に該当します。

ところがしばらくすると、そのボランティア活動をしている自分が価値があるのだと思うようになったとしたら、その活動はもう防衛でしかないのです。

本人はそのことに気づかずに、それをしたいのでしていると思い込み続けるのです。こうなると防衛の裏で必ずや自己犠牲が発生することになるのです。

自分は好きなことをやっているのだという錯覚によって、自己犠牲をドンドン重ねてしまうなら、鬱々とした毎日がやってくることになるかもしれません。

やりたいからやっていると思っていることでも、本当にそうなのかじっくり見つめてみる必要があるということですね。

無邪気さを取り戻す

事務所から歩いて行ける距離に広い公園があるのですが、そこの子供用の低い鉄棒で逆上がりを試してみたら、とんでもなく無様な姿でした。

子供の頃はごく当たり前にできていたのに。以前は蹴上がりもできてたので、やろうとしたら全くその姿勢になることもできず。

こんなはずじゃないと誰かが内側で叫んでいました。子供の頃の記憶の通りにできるものと思っていたのですが、どうにも身体が重すぎる。

誰かをオンブしたまま鉄棒をやっているかのような感覚。あの頃は今のような筋肉があったわけでもないのに、今の何倍も身が軽かったのですね。

きっと毎日毎日ただ楽しむために鉄棒と戯れていたことで、鉄棒が身体に馴染んでいたのだろうと。

大人になってする筋トレは、あれこれと目標があったりするのですが、子供の鉄棒にはなんの目標もなかったのですね。

大人になると何かにつけて損得を考えてしまい、打算的になってしまうので、その分だけ純粋に楽しむことが減ってしまうのかもしれません。

これだけトレーニングしたのだから、このくらいの成果が出て当然だろうと言った考えがすぐにやってくるのです。

子供の頃のあの無邪気さを思い出して、日々生きていきたいものですね。

集団催眠にかかってる

人類の歴史の何処かの辺りで奇跡が起きたのです。それまでは他の動物と同じように無意識状態で生きていたのに、ほんの少しだけ意識が覚醒したのです。

それはきっと自我の芽生えた時期と一致するのではないかと思っています。どちらかと言えば、先に自我が生み出されたことで、一人称の意識が目覚めたのです。

それは奇跡中の奇跡であり、自我の発達と共に社会が作られ、その社会がまた個々の自我を育てていくという循環を起こしたのです。

少しオーバーな表現に聞こえるかもしれませんが、それはまるで全員が集団催眠にかけられているようなものなのです。

誰もが共通した幻想を抱くようになったのです。自分は他とは分離した固有の存在であるという思い込み。

自由意志がある自律的な存在であり、社会の一員として生きているという妄想を共有しているのです。

自分を自我だと思い込んで生きている限り、つまりはあなたという個人がいる限りは、真実は隠されたままになってしまうのです。

もしも真実を知りたければ、自我というのは思考によって成り立っている一つの仕組みに過ぎないということを見抜くこと。

あなたがこれが自分だと信じているあなたはいないのです。あなたの本質は自我ではないと気づくとき、すべての問題は一瞬にして問題ではなくなってしまうでしょうね。

難攻不落の砦

私のようなセラピストというのは、普段セッションやブログなどで何か偉そうなことを言っているようでいて、本当は自分ひとりでは何もできません。

セッションでは、クライアントさんの協力がなければまったくの無力者なのです。協力があって初めてセッションは成立するのです。

もしもクライアントさんが、私との話しの内容に興味を持てなかったり、自分には該当しないと思ってしまったら、どうすることもできないのです。

たとえばお医者さんであれば、患者さん側で特別そのお医者さんへの協力体制などなくても、それなりの診察はできるはずですね。

一方で心理療法においては、一ミリも効果は期待できなくなってしまいます。セラピストにとって難攻不落のクライアントさんが時として現れることがあります。

どこからどうつついて見ても、鉄壁の防衛によって内側を隠されてしまえば、何もすることができません。

たまにはそういうこともあるものです。内側に入らせてもらうことができなければ、セラピストは無能なのですね。