捏造された自己否定感を見る

みなさんは、自分が持っている自己否定感について、人に話したら、そんなことで自分を責める必要などまったくないよ、と言われた経験はありますか?

そして、それとは真逆の場合、つまりあなた以外の誰かが、何かでその人自身のことを責めていると聞いたときに、そんなこと別にいいじゃないと思った経験はあるでしょうか?

きっと、一度や二度、どちらの経験もあるのではないかと思います。私は、クライアントさんに後者の経験をしてもらうために、セッションのときに時々試すことがあります。

それは、クライアントさんが現在の自分に駄目出ししている場合に、仮にそれと全く同じことで自分を責めている人が目の前にいると想像してみて下さい、と言うのです。

あなたは、その人のことを責める気持ちになるでしょうか?それとも、そんなことで責める必要はないと言ってあげたくなるでしょうか?と質問します。

すると、大抵の人が責める必要はないと答えてくれます。つまり、他人のことは受容することができるのに、全く同じネタであるのに、自分のこととなると許すことができないということに気づくのです。

ではなぜ、このようなことが起きるのでしょうか?なぜ他人は許せて、自分の場合には、そうした駄目出しをやめることができないのでしょうか?

その理由は、分かってしまえばとてもシンプルなことなのです。実は、現在の自己否定というのは後付けで作ったものだということです。

本当の駄目出し、言わば自己否定の根っこにあるものは、ほとんどの人が意識していないような幼児期に作ってしまったものなのです。

その駄目出しを認め続けるために、後付けで何々の自分は駄目だというものをでっち上げるわけです。他人の場合には、その根っこの部分が本人からしか見えないので、本人が主張している理由だけでは、責めることができないということです。

それが、自分だけは特別に、何々の理由によって自己否定することができるという結果を生み出すことになってしまうというわけです。

現在の自分から遡って、それぞれの年齢の時の自分を本当に否定できるかどうか、よくよく見てあげることです。きっと、責めることが難しくなってくるはずです。

その結果、何だか分からないけれど、自分を責めてしまうという心の部分があるのだということに気づくことができるようになります。

そうなったらしめたものです。元々、理に叶った自己否定などあるはずもなく、その捏造した否定感をただただ握り締めていただけだったと気づくことになるからです。

そのことをしっかり見ることができたら、もう自分の存在価値が分からないなどということを考えることもなくなってしまうはずです。

というより、自己価値という観念自体から、遠ざかってしまうようになるはずです。そうなると、もう何かに価値を見出すという人生からも離れていくことになります。それはとても清々しい感覚ですね。

自己否定と自己肯定

一般的に言って、誰の心の中にも、二つの相反する部分があります。一つは、自己否定であり、もう一つは自己肯定の部分です。

どちらか片方だけしか持っていないという人はいないはずです。どちらが先に出来上がるかというと、それは間違いなく自己否定の方です。

生まれたばかりの時には、否定も肯定も両方ともありませんでした。ところが、2~3歳になる頃までには、自己否定感の根っこのようなものがもうすでに出来上がるのです。

その理由はいろいろあるかもしれません。直接的に大人から否定されるということもあるでしょうし、生きづらくて、苦しい環境を自分のせいにしてしまうということもあるでしょう。

どんな理由にしても、本質的には理不尽としか言いようがないのですが、とにかく幼い子供というのは、自分に対して駄目出しをしてしまうのです。

けれども、そのままの状態で生きていくのはとてもシンドイために、その逆の自分は駄目じゃないというものを、何とかして作ろうと頑張るのです。

それが向上心と言われるものの原動力になるわけです。もっと頑張ることで、今よりもより価値ある自分になろうとするのです。

目指すは、自己肯定感です。それをなるべく多く手に入れたいばっかりに、努力や我慢を惜しまなくなるのです。

そのことが悪いということはありません。問題は、自己否定があまりに強烈過ぎると、その反発としての自己肯定感を求めるパワーが強大となり、そこに激しい葛藤が発生してしまうことです。

そうなると、自己肯定を欲する側がある程度頑張ると、自己否定側がそれを撃ち落してしまうのです。そして、その人はしばらく低迷を続けることになります。

そしてまた、力が復活すると、あくなき頑張りが続くことになり、それがある程度続くと、再び撃ち落されるということが、人生において延々と繰り返されることになります。

もしも、これを読んで心当たりがあると思われるのでしたら、まず自分はなぜそれほどまでに一生懸命になるのかを、よく見ることです。

そしてその原動力となる自己否定感を勇気を持って、これまた見ることです。それを何とかしようとせずに、ただただ観続けることです。

そうやって、少しずつ葛藤の元が小さくなっていくことによって、のこぎりの歯のようなアップダウンの繰り返しのような人生が、穏やかなものとなっていくはずです。

親しさの、その奥に隠しているもの

みなさんは、家族や友人、そして恋人のように親しい人と一緒にいるときに、突然何の脈絡もなく、「あれ、この人誰だか分からない。」という違和感のようなものに襲われたことはありませんか?

私は実はそれほど頻繁ではないにせよ、たまにこうした不思議な感覚になることがあります。喧嘩をしたわけでも、何でもないごく普通の状態で、それはやってきます。

それほど長い時間続くわけではないにせよ、何度か経験しているうちに、これはやっぱり何か変だぞと思うようになりました。

もしかしたら、それほど親しい人でなくても、それは起こる現象なのかもしれませんが、私の記憶ではやはり親しい相手の場合に限られているようです。

私はそれがやってきたときには、その感覚を逃さないように、なるべく静かにそれと向き合うようにしています。

そうすると、心の底から相手のことを知らない!というものがやってくるのです。そこで、ああ本当に自分は親しいと思っていたこの人のことを何も知らないんだと分かるのです。

どちらかと言うと、それはあまりいい気持ちの体験ではありません。相手に対する暖かな気持ちとは反対に、見ず知らずの他人を見ているような、冷たさがあるからです。

こうした現象が起こる原因は、きっとすべて自分の心にあるのだろうと分かります。つまり、親しいはずだと信じているその奥で、相手に対して閉ざしている心の部分があるということです。

それが、相手のことを知らないよ、と言い張るのだと思うのです。このことを感じていると、何だか悲しくなってきますが、事実なので受け止めるしかありません。

けれども、逆にこれまた不思議なことなのですが、こうしたことを含めて、相手のことを心の中に静かに置いていると、何だか暖かな気持ちがやってくるのです。

それで分かったのですが、自分と相手は親しいに違いないという思いを一旦脇に退けたうえで、相手をもう一度正直な気持ちで見ることが、大切なのではないかということです。

親しいということの奥に隠し持っている、閉ざしたハートを見つけることができたときに、その分だけハートを開くことができるようになるのだろうと思うのです。

閉ざしたハートはいつか必ず開く

幼くて無防備であった頃は、その子のハートは開いていたはずです。それだけに、そのときに負った痛手というものは、計り知れない傷を残してしまうのですね。

そうすると、一瞬一瞬を犠牲にしてまでも、生き抜いて行こうとすることが起きてきます。つまり、知らず知らずのうちに自己犠牲を強いる生き方を選ぶようになってしまうということです。

幼いころの決意というのは、本当に強烈なものであり、一度こうと決めたものはてこでも変えることができないくらい、頑なになってしまうのです。

なぜなら、その決意は生き抜くためのものであって、自分の命が懸かっているからです。それに比べて、大人になってからする決意の何と弱いことか…。

ハートが開いた状態では、通常は無邪気に、そして臆せずに自己表現をするものです。その心には、これっぽっちの邪心もありません。

けれども、それが親などの周りの大人たちからいつも受け入れてもらえるとは限らないのです。むしろ、根底から否定されてしまったと感じてしまう場合が多いのです。

その否定の中には、存在の否定とも受け取れるようなひどいものもあるかもしれませんし、肉体的な痛みを伴うための恐怖を感じることもあるかもしれません。

いずれにしても、開いていたハートは、間違いなく閉ざしてしまうことになるはずです。そして、そのことが度重なると、もう自分の力では開くことができなくなってしまうのです。

誰でも心を閉ざした経験を持っているはずですし、完全に開いた状態で生きている人の方が珍しいくらいです。

しかし、強い力で閉ざしてしまった人であっても、時間をかけて丁寧に、自分と向き合っていくことを繰り返していくことで、ゆっくりとではあっても、徐々に心を開いていくことができると信頼しています。

私たちには、そうした力が最初から備わっていると思うのです。諦めることはありませんし、必ず神の恩寵はやってくるのです。

神への信頼を取り戻す

私たちの苦しみのほとんどは、自分には自分固有の自由意志があり、自分の力で自分の人生をコントロールできるはずだという思い込みから来ています。

それを思い込みだなどと言われるだけでも、場合によっては怒りが出てくるくらいに、我々はそのことを固く信じて疑うということを知らないでいる、とも言えるのです。

そのために、敢えてこういう言い方をしてみたいのですが、私たちは神の意志に対して従順ではいられなくなってしまっているということです。

私たちは、自分自身の環境に表現されている神の意志に反対して、もがき続けているのです。勿論、自分の思い通りになることもないわけではありません。

けれども、長期的に見れば、それは不毛な努力でしかなかったと分かるはずです。残念ながら、そこには目をつぶり、気づかないふりをしてしまうのです。

この瞬間、自分に起ることすべての中に雲隠れしている神の目的こそ、私たちは信頼しなければならないのです。

喜びに満ち溢れた瞬間であれ、苦悩に打ちひしがれた絶望の時であれ、どんな状態においても、そこに表れている神の仕業を受け入れることです。

そのためには、何であれ、自分が「何かである」というあらゆる「ふり」を、本当に終わらせなければなりません。

いついかなる瞬間にでも、「何ものでもない」自分をただ観ること、それだけが完全なる明け渡しを意味しています。

それは起きたり起きなかったり、やって来たり去っていったりすることのない、永続的なものなのですね。

私の愛しい10本の指

私たちの手には、左右それぞれ5本の指があります。5本の指には、一つひとつにユニークな名前がついています。

親指(お父さん指)は、背丈は低いけれど太くて力強いという特徴があり、何かを握るときには一番大切な役目を果たしますし、指圧するときには、この指が必要です。

人差し指(お母さん指)は、少し細くてしなやかで、何かを指し示すときには重宝されますし、お父さん指と一緒にOKサインを出すこともできます。

中指(お兄さん指)は一番背が高くて、指全体のバランスを取っているようにも感じられます。お洒落な人は、この指に指輪をはめていることもあります。

薬指(お姉さん指)は、名前が示すとおり、患部に薬を塗るときに重宝します。これは、きっと普段はあまり使われない指なので、比較的清潔さが保たれているからかもしれません。

最後に、小指(赤ちゃん指)は、一番小さくて可愛い指ですが、野球のバッターがバットを握るときには、この指が微妙で大切な役目を果たすらしいです。

このように、それぞれの指には固有の役割だとか、姿かたちの特徴があって、どの指がどの指よりも優れているとか劣っているということはありません。

そして、どの指もこの私が自由にコントロールすることができます。5本の指すべてを同時に使って、比較的大きなものを持つことができますし、両手の10本の指を協力させれば、もっと大きなものにも対処することができます。

けれども、もしもこの私が、これらの指1本1本と自分のことを同一視してしまったとしたら、そこには両手を合わせて10人の私が仮想的に出来上がります。

そして、互いに自分と他の指とを比較して、優劣をつけたりして、仲たがいを起こすようになってしまうかもしれません。

自分は指であるという錯覚から無理やり目覚めようとするよりも、指としての自分の源泉は本来一つであるということに、意識を向け続けることができればいいのかもしれません。

今この文章を書いているときにも、キーボードの上を10本の指がタイミングよく駆使されているのを見るのが心地いいのです。

指それぞれの視点からだけではなくて、同時に私のこの視点から指を見ることができれば、指それぞれの苦悩を受容することができるのですね。

徹底的に自分に誠実であること その4

ついでのついでにもう一つ、続きになるようなことを書いてみます。

自分に誠実に向き合う、自分にとことん正直になるためには、自分が日頃理性に対して与えていた最大級の権限を奪うことです。

勿論そのためには、まずそうしていることに気づく必要があります。理性とはすばらしいツールではあるのですが、ただそれだけのものだと気づくことです。

そのことを、理性によって認めることです。理性に埋没してしまっていると、理性が巧みに自分を騙す作戦を駆使していることに気づきにくくなってしまいます。

自分に正直でいるためには、理性というツールをなるべく使わないようにするか、あるいは理性の使い手としての気づきを持ち続けることです。

それは具体的に言えば、あらゆる言い訳を脇に置くということかもしれません。そのためには、言い訳をしていることから目を背けないことです。

自分とは、どんな人物なのかといった、通常私たちが最も大切にしている自己イメージは、実際理性によって保たれているものです。

したがって、理性の権限を剥奪し、単なるツールとしてみることができると、自己イメージそのものが、霧のように実体のないものだということも分かるのです。

そのときにこそ、ようやく自己欺瞞という重く垂れ下がっていたカーテンのような霧が晴れて、裸の自分の姿が見えてくるのでしょう。もう言い訳をする必要もなくなってしまうかもしれません。

その姿は、一つにまとまった個人としての自己イメージとは違った、その時々にやってくる張りぼての断片のようなものに過ぎないのです。

そうなると、それに対して懺悔する気持ちも、逆に誇るような気持ちも、なくなってしまうはずです。それはそういう対象ではないからです。

しかし、何度でも理性が主導権を握ろうとしてやってきます。そのときにも、そのことに対して正直でいることによって、看破することができるのです。

徹底的に自分に誠実であること その3

ついでにもう一つ、昨日一昨日の続きとなりそうなことを書きます。

自分に対して誠実に向き合う、自分の心を騙さずにとことん正直になるということは、何も今まで言えなかったことを言えるようにするということではありません。

立場上逆らうことができなかったり、見捨てられたくないばっかりに相手の都合に合わせるばかりで、本音を言えないでいる人は実に沢山います。

勿論、そのような場合に、自己表現を抑えてきたということに気づいて、少しずつ表現していけるようにするのは、癒しの第一歩としてとても大切なことです。

けれども、今ここで言っている自分に正直になるというのは、それとは違うことです。相手に言えずにいた文句を、正直に伝えるということではありません。

自己主張できるということは、とても大切なことですが、そこには実は自分の正しさや信念への寄りかかりがあるのです。

ここで言わんとしている、自分に正直になるというのは、自分の正しさに寄りかからない、自分の信念に頼らないということ。

敢えて同じ言葉を使うとすれば、正しさで自分を守りたい、信念にしがみついたままでいたいという、自分の本音を観るということです。

どうやって、自分は自分のことを守ろうとしているのかということについて、詳細に観るということも含まれるでしょう。

そうすることによって、ストレートな気持ちで自分と向き合うことができるのです。本音を言うということにも、二種類のものがあるのです。

一つは、隠していた不満や自分が信じること、考え方、主義主張を伝えるということ。もう一つは、告白的な色合いの強い伝え方です。

自分に正直になるというのは、ここでは後者のことを意味しています。前者は防衛的であり、後者は無防備な感じになるはずです。

私は以前、パートナーと腹を割って話し合おうと思って、いざ自分に正直になろうとして、前者をやってしまい、失敗した苦い思い出があります。

やはり、正直さというのは、無防備さからしかやってこないものなのかもしれません。

徹底的に自分に誠実であること その2

昨日のブログの補足です。

私たちは、自分が培ってきた自分の正しさや、その基盤となっている信念、あるいは信条といったものにしがみつく傾向を持っています。

どれほど現状が厳しく、生き辛い状態になっていると分かっていても、その原因が今まで自分がしがみついてきたものにこそあるとは気づかないのです。

しがみつく理由は、それがなくなってしまうと生きる指標を奪われてしまう恐れを感じているからですね。だから、必死にしがみつくのですが、その中味を正直に観ようとはしません。

もしも、丁寧に、そして自分に対して誠実に観てしまったら、それこそが今の自分を貶めている元凶だと気づいてしまうことになるからです。

そして、懲りずに次なる正しさを追い求めるのです。それは、場合によっては探求の結果発見した、これこそ真実だというものに摩り替わることもあるかもしれません。

そうすると、今度は神聖なる真実にしがみつくことになるのですが、本当の真実とはそういう対象には成りえないはずです。

結局、それも思考の範疇でしかないということです。しがみつきは、必ず硬直した生き方しかできなくさせるのです。

真実とは、しがみつく対象でも、主張するものでも、正しいというものでもありません。真実はただ真実であって、いかなる思考をも超越しています。

私たちに真に必要なことは、やはり自分に対して正直になることなのです。思考の上での信念でも真実でもないということです。

そして、正直に、できるだけ誠実に自分に耳を澄ますと、その時々に必要なことがやってくるという経験をすることができるのですね。

それは常にリアルタイム性を持ったものであって、あらかじめ分かっているようなものではないのです。それこそが、「今」という真理なのだと思うのです。

奇跡のコースでは、やってくる「それ」のことを、「聖霊からの声」というように表現しているのです。どう表現しようが、私たちにとって唯一信頼に足るものだと言えると思います。

徹底的に自分に誠実であること

自分の思考について、それを信じないという態度を続けていると、次第にあらゆることに対しても今までとは違う見方をするようになるようです。

それは、最も単純化して表現すると、例えばこれはAだということが正しいと思えば、それと同じ分だけそれはAではないがやってくるということです。

この現実は幻想だということを突き詰めていくと、この現実は単に幻想とは言えないということがやってくるのです。

何かを正しいと断定すればするほど、それは正しくないというのが付きまとうということです。このことに気づくと、物事を断定することにそれほど興味がなくなってきます。

私たちの本質は決して身体ではないということを探求すると、私たちは身体だと信じていることにも抵抗を感じなくなるのです。

私たちには自由意志などないので、努力する必要はないと思えば、必ず努力する必要があると思えるときもやってくると感じます。

こうした感覚というのは、とにかく自分に徹底的に正直に、誠実になることによって、何が真実かということとは別にやってくるものなのかもしれません。

なぜなら、私たちがこれが真実に違いないとすることは、思考の中でのことだからです。どれほど有名な経典に書かれていることであれ、それらはあくまでも観念の世界のものです。

一体本当の真実とはどういうものか?という問いそのものが、思考からやってくるのだとしたら、そこには思考が分かる答えだけが待っているわけです。

それは必ず、別の思考によって覆される運命を伴っているとも言えます。科学も、覆されてきた歴史を持っていますし、それはスピリチャルな世界でも同じかもしれません。

とにかく、思考によって言葉を発してしまえば、そこには必ず覆される運命が待っているということを忘れないことです。

それなら、沈黙することが最善ですね。そうすると、途端に沈黙することが最善であるとは限らない、が心の奥からやってくるのを感じます。

まったくきりがありません。結論としては、真実だと自分が思うことに対しても、それはそれという態度でいること、そしてとにかく一瞬一瞬を自分に対して誠実であり続ける、これしかないようです。