マインドをからっぽにする

からっぽで
自由で
そして自然でありなさい
それをあなたの生の最も根本的な原理にするといい

by osho

からっぽというのは一体何を意味しているのでしょう?それは、欲望がないということ。希望や期待、夢や望みなどがないということ。

だからとても難しいのです。あるいは、固有の主義主張のようなものがない、善悪や正不正などを判断するどんな基準もないということ。

そして、どんな制限や制約、ルールなどもない。〜べき、あるいは、〜ねばならないなどの決め事、義務も責任もないということも含まれるかもしれません。

要するに、私たちが親や社会などから授かったあらゆる教えでいっぱいになってしまったマインドをからっぽにしなさいと言っているのです。

そうしたら、おのずと自由になりそれが自然な生き方になるということなのでしょうね。そして、そのことを生きる上での根本原理にするといいと言っているのです。

からっぽなマインドこそ、生をシンプルにするのです。そしてそれこそがマインドを消滅させてくれるのですね。

絡み合った思考群をほぐしていく

寄り集まった思考
何百万という思考の群があなたに
あたかも<心>というものが存在しているかのような幻覚を与える
それはちょうど<群衆>のようなものなのだ
何百万という人たちが群れ集まって立っている
だが、いったい<群衆>などというものはあるのだろうか?

by osho

この写真はイトミミズですが、見たことありますよね?金魚の餌などとして売られていたりします。

いつもこんな感じで、何千何万匹というイトミミズが集まって、何やらそこそこの大きさの一匹の生物の体をなしているのです。

もちろんこれは、一匹ずつ単独だとあまりに小さくてか弱い存在なので、互いに身を寄せ合うことで大きな生物に見せかけて身を守ろうとしているのです。

私たちの心(マインド)もこれと全く同じものだと思えばいいのです。一つひとつは、小さな思考なのですが、それらが無数に寄り集まることであたかもマインドがあるかのように見せかけるのです。

けれども osho が言うように、それは幻想なのです。マインドというものが実在するわけでは決してありません。

ただ2〜3歳の頃から、少しずつ思考が集まってきて、それらが複雑に絡み合って簡単にはほぐれないようになっているのです。

絡まった思考を一つひとつ丁寧にほぐして行くためには、思考の中で揉みくちゃになっている自分に気づいて、思考を見てあげることです。

思考は意識されるとそのエネルギーを失い、自らはずれていくのです。それを繰り返して、全ての思考がバラバラになったとき、マインドとエゴが同時に消えていくのですね。

 

自分が作った現実を生きている

最近、平日の午後に母親を連れて自宅からクルマで30分程度のところにある、神代植物公園というところに散歩に行くのです。

母親は、数年前に転んで股関節を骨折したせいで、障害者手帳を取得している身分なのですが、その手帳のおかげで本人と付き添い一人までは入場無料なのです。

通常だと入場料大人500円と駐車場代も払う必要があるのに、そのどちらもが無料となるとあって、これはいかない手はないということになったのです。

家の周りを散歩するのと比べれば、それはもう比較にならないくらいに気持ちのいい場所なのです。

広大な敷地の中に、それこそ無数の植物が綺麗に管理されているし、ほとんど人影もないくらいに感じられるくらい、とにかく広くて気持ちいいのです。

ところが何度も繰り返し行くうちに、次第にあの広大な感じが少しずつなくなってきたのです。きっと、園内の地理が頭に入るようになったからなのでしょうね。

園内を頭の中で把握できるようになると、あの初めての時に感じた広大さというのは減ってきてしまいました。もちろん、物理的な広さに変わりはないのですが。

つまり自分が感じていた広大さというのは、事実ではなくて、自分がこしらえた感覚に過ぎなかったということですね。

初めてのところに行くときには、遠く感じたはずなのに、帰り道は意外に近く感じたという経験は、誰にもあるはずですが、あれと同じこと。

私たちは、事実としての現実の中を生きているように見えて、実は自分がこしらえた感覚の中で生活しているのだということがよく分かりますね。

物語の中で生きているというのも、これと同じようなものだと理解することです。

あなたの人格と実存の違い

自分のまわりに人格という衣を着て歩かないこと
ひとつの固定化された態度を持って歩かないこと
水のように自由でいるのだ
自然が導いて行くところならどこへでも動き
そして漂い続けるのだ
抵抗しないこと
あなたの上に
あなたの実存の上に
いかなるものといえども押しつけようとしないこと

by osho

↑これを読んで、しっくりこないとしたら、きっとあなたの人格とあなたの実存の違いが分からないからだと思って間違いありません。

私たちは、自分のことを人格だと思っているからです。人格とは生後作り上げたはりぼてのようなものなのです。なぜなら、中身は空っぽだから。

経験とその記憶、そして押し付けられた考え方や規則などによって、作り上げられたもの、社会に適合するための着ぐるみ、それが人格なのです。

だから人格という衣を着て歩くなと言っているのです。あなたがまとっている人格という衣を脱ぎ捨てることができれば、水のように自由でいられると言っているのです。

本当の自由とは、人格からの自由をいうのです。その人格を使って自分を守ろうとしているのがエゴなのです。

そしてすべてを脱ぎ捨てた後に残るもの、それこそがあなたの実存だということですね。

癒しはタマネギの皮剥きに似てる

癒しというのは、タマネギの皮を剥いていくのに似ています。というのも、癒しは何か新しいことを学んで、身に付けていくのと反対だからです。

生後せっせと身にまとった皮を、一枚ずつ剥いて行くのです。もちろんその皮とは家族や社会から押し付けられたルールや考え方、あるいは常識のようなもの。

そういったものを表面から丁寧に剥ぎ取っていって、最後には幼い頃に作り込まれた自己イメージを脱ぎ捨てていくことになるのです。

タマネギを最後まで剥いても、その後に何も残らないというのも癒しと全く同じなのです。まとってしまったものをすべて脱ぎ捨てるとき、そこには何も残りません。

私自身、癒しの途中であることに気づいたことがありました。それは、昨日までの「私」(←ここには私のフルネームが入ります。)はもういないと…。

深いところで、自分の名前をつぶやいても何となくそぐわない感じがしたことがあったのです。それは不思議でしたが、気持ちのいいものでした。

自分の名前を何度か心の中でつぶやいてみて下さい。それがしっくりくるうちは、まだまだ癒していく必要があるということです。

ただし、気をつけなければいけないのは、自分の存在を否定しているような人の場合にも、自分の名前がそぐわないという感覚になる場合があるからです。

自分のアイデンティティが消えていくとき、誰もが全体性へとシフトしていくのです。それでも普通に社会の中で生きていくことができますよ。

知識は無知を覆い隠す

借り物の知識を避けること
借り物の知識というのは心のトリックになる
それは無知を覆い隠すのだ
それは決して無知を打ち壊しはしない
そして知識に取り囲まれれば取り囲まれるほど
内面深い中心において
まさにあなたの実存の根において
無知と暗闇が存在する

by osho

知識というのは、すべからく借り物であり、貰い物だということです。知識とは、そういう情報があるということを単に知っているということだからです。

知識が豊富であれば、物知りだという評価をもらえるし、クイズ番組では優勝することができるかもしれません。

けれども、どんな知識も自分の血や肉になることはないのです。本当に知るためには、体験すること以外にはないですし、それが気づきへと繋がるのです。

深い理解である気づきは、どれほどの知識をかき集めたところで手にすることはできません。それはやってくるものだからです。

知識そのものに良いも悪いもないのですが、知識は自己防衛に利用されることが多いのです。そうなると、知識は自分が無知であることを覆い隠すのです。

最近テレビの情報番組などでよく見かけるようになった、自称知識人と言われるコメンテーターの話す内容が、あまりにも薄っぺら過ぎて笑えるくらいです。

瞑想をすると、自分は何も知らないということに気付かされますが、そこが私たちの原点なのです。

知識は物語の中で表面的にだけ役立つように見えることもあるのですが、最も大切な無知に気づけなくなってしまう危険なものだともいえますね。

隠されたマインドの部分に光を当てる

マインドの中に潜在意識とか無意識とか言われる部分があるということを疑う人はあまりいないはずだと思うのですが、いざ自分のこととなると違うようです。

自分のマインドにも潜在していて気づくことのできない部分が沢山あるのだと日頃分かっているかどうか、今一度見つめて欲しいのです。

たとえば、自分は〇〇をしたいと思っているのに、それをしないでいるとしたら、したくないと思っている部分があるということです。

逆に、〇〇などしたくないと思っているのに、してしまうのなら、それをしたいと思っている部分が隠れているということです。

こんな単純なことですが、一般論なら分かるのに、いざ自分自身のこととなると急に分からなくなってしまうのは不思議なことです。

自分を癒したいと思う気持ちでセッションを受けて、なかなか癒されないとしたら、それは癒されたくないという思いが潜んでいるということだと気づけばいいのです。

なぜなら、マインドの100%でそれを願っているなら、邪魔する部分がないのであれば、淡々と癒されていくはずだからです。

そうならないのであれば、その理由を外側に見つけようとする前に、自分の中にこそそれを阻止しようとする部分があるに違いないと見当をつけるべきなのです。

それができて初めて、内側で反対している部分の真意を汲み取ろうとするようになるのです。それが受け止めることを実践させることになるのです。

マインドの中のあらゆる部分を見出した上で、すべてを同等に受け止めることができるようになったとき、それらは自然と衰退していくことになるのですね。

義務と責任を全体に返す

最初の呼吸は全体によってなされる
そして、もし最初の呼吸が全体によってなされるのだとしたら
ほかのあらゆることも
あなたの行為ではあり得ない
もし自分で息をしていると思ったら
道を踏みはずしているのだ
そしてこの誤ったステップのために
自我が生まれる
自我とは蓄積した無知のことだ

by osho

私たちが社会の中で生きていくためには、自我(エゴ)がなくてはならないのです。そのため、幼子の自我が正常に成長するように促すわけです。

万が一、自我の発達が阻害されでもしたら、社会にうまく順応することができなくなってしまうかもしれないからです。

その大切な自我のことを、osho は蓄積した無知と言っているのですから、どれほど常識から逸脱したことを表現しているのか分かります。

自我は自動的に発生するものではなく、すでに成長させた自我を持っている親に育てられる過程で、子供の中にも同じような自我が芽生えるのです。

但し、一度自我が成長してしまったなら、今度は自我は実在しないということを見抜くことこそが、最大の気づきであるということです。

なぜなら自己の本質を知らずに生きていることこそが、私たちの本当の苦しみの原因だからです。自我はあなたではありません。

自我とは、あなたがこれこそが自分だと長年信じ込んで来た「私」のことを指すだけなのです。

自我を自己と同一視することによって、義務と責任が生まれるのです。自我はそれを立派に果たすことで、自己満足しようとするのですが、それは必ず敗北します。

全体(存在)はあなたの自我のことなど構ってはくれないからです。義務と責任を全体に返すことこそが、明け渡しへの道なのです。

そのときに、元々実在しない自我が消えていくのですね。

信頼と罪悪感は反比例する

信頼とは、何かを信じたり信じなかったりすることとは、まったく異なる次元にあるものです。

「信頼する」というと動詞になりますが、信頼が在る状態のことをいうのではないかと思います。信じることは、何か特定のターゲットがあるのですが、信頼にはそうしたものはありません。

あるいは都合のいいことが起きたり、都合の悪いことが起きたりする、そのすべてをひっくるめたもの、<存在>そのものが信頼のターゲットなのかもしれません。

信頼が深くなってくると、物事の善悪や正不正に関心を持たなくなっていくのです。そのために、自分の言動を悔やんだりして罪悪感を持つことが減ってくるのです。

逆に言えば、罪悪感まみれのマインドというのは、存在に対する信頼が小さい状態であると言えるのです。

だからもしも100%の信頼があるのなら、罪悪感は消滅してしまうのです。どこかの宗教が、原罪などと言って、人は生まれながらに罪深いというなら、まったくもって信頼のない状態だと言わざるを得ません。

自分の内側をじっくり見てみると、信頼がどっしりとあるのか、その逆に罪悪感がずっしり横たわってるのか、気づくことができるはずです。

いずれにしても罪悪感を恐れる代わりに、信頼の方に意識を向け続けることをお勧めします。信頼が増えれば自然と罪悪感は小さくなっていくからです。

瞬間ごとにそれは花開く

それ(=神)はつねに花開いている
毎瞬ごとにそれは花開く
しかし、あなたはそれが見えない
あなたの心は、過去と未来で雑然としている
そして、現在というのはごく狭い現象なのだ
まばたきするかしないかのうちに
それはどこかへ行ってしまう

by osho

今この瞬間を起点として、後方には過去が、そして前方には未来がそれぞれ無限に広がっているという感覚を持っていますね。

この感覚というのは、実は思考が作っているものなのです。思考が作った時間という概念がそういう感覚を生み出しているに過ぎないのです。

↑上の表現では、現在というのはまばたきするかしないかの間だと言っていますが、これも思考にまみれた私たちに分かりやすいような言葉を選んでいるのです。

実は無思考になったときには、今この瞬間が狭い現象だという感覚は完全に消えてしまいます。このことは体験から言えるのです。

そしてそのときに、現在という今この瞬間は永遠だというのが真に理解できるのですが、これは思考では全く意味不明なことになるのです。

時間lは思考が作っているということを思考によって理解することは不可能なことです。だから、それが腑に落ちなければそのままにしておくことです。

ただ思考では理解不能なことを、切り捨てないでおくことは必要なことだと思うのです。そこにこそ、真実へのヒントが隠されているからです。