選挙に見る戦争の縮図

今回の衆議院選挙の様子などを、横目でチラ見しながらも、やっぱり腑に落ちない、不思議な光景が沢山あったなと思うのです。

選挙カーに乗って、名前を連呼するだけの毎度おなじみのあの宣伝。騒音になるだけで、あれに一体どんな意味があるのかなと。

もっとひどくなると、街頭演説で「みなさんのお力でどうか私を男にしてください!」って…。

さらに、当選した議員が、選挙事務所などでやる万歳三唱。なぜ万歳なのか?あのお方たちは、きっと自分のことしか最初から考えていないのではないかと疑ってしまいます。

驚きのあまりあきれて笑ってしまったのは、アベノミクスの向こうを張って、ユリのミクスって、羞恥心をかなぐり捨ててまで首相になりたいのでしょうか?

頭はいいのかもしれませんが、政治家のみなさんの野心や保身の醜さには、毎回うんざりしてしまうのは私だけでしょうか?

もちろん中には国家のために身を投げ出す系の方々もいらっしゃると思うのですが、政治に期待できない現状を生んでいるのは、個々人のエゴのなせる技。

それもこれも物語として捉えるなら、なかなか興味深く見ることもできますが、人類から戦争がなくならない要因の縮図を見させられているようですね。

深い理解が気づきをもたらす

心は絶えず、過去か未来のことを考えている
なぜそんなに過去のことを考えるのだろう?
去ったものは去ったもの!
それは帰って来ない
過去は死んでいるのだ!
なぜ、あなたは
もう過ぎ去ってしまい
どうすることもできない過去のことを考え続けるのだろう?

by osho

↑本当になぜだと思いますか?わたしの答えはいたってシンプルです。それは、思考は過去と未来とだけ繋がっているからです。

今この瞬間の実在の中に思考は入り込むことができないのです。だから、過去か未来のことを考えるしかないのです。ではなぜ考えるのか?

それは考えなければ、エゴはいずれ生き絶えていくからです。元々エゴという存在は、思考によって作り出された実在しないものなので、思考がなくなればエゴは消滅します。

そのことがエゴにとっては恐怖でしかないのです。誰だって死にたくありません。一度自分がいるという考えに取り憑かれたなら、生き続けたいという願望(思考)が生まれるのです。

そして考え続けるためには、今度は自己防衛、あるいは闘うということに取り憑かれればいいわけです。自分を心理的に守るためには、考え続ける必要が生じるからです。

だから考えることをやめようと自分を強いる必要はありません。強いてもいい結果はやってこないからです。それよりも大切なことは気づきなのです。

これも私の考えでしかありませんが、修業をしなくても、深い理解によって非常に大切なことに気づくことができるのです。

実際気づきとは、深い理解からやってきます。それは同義語だと思ってもいいかもしれません。

深い理解は、経験の繰り返しとそこに注意を向け続ける(見る)ことでやってきてくれるものです。苦行のような修業は必ずしも必要ないのです。

そしてやってきた気づき(深い理解)によって、ひとりでに真実へと向かうようになるのでしょうね。これは自己改善とは全く異なるものなのです。

物語は思考の中でしか存続できない

人生は物語だというときに、何を言いたいのかといえば、人生は実在するものではないということです。

思考は実在の一部だとしても、思考の中身は実在とは何の関係もないものだということです。そして人生はその思考が作り上げた架空のものです。

でも実際に私はこうして毎日生きているし、いろいろな体験をしながら日々人生が進んでいると思っているのですが、その思いこそが思考なのです。

思考を見ようとすると、あっという間に思考はその動きをやめてしまいます。そのときに、日常の一切合切も一緒になって消えてしまうのを見るのです。

自分はこのような人物だというのも消えるし、あれは誰とかこれは何かといった個別的なものがすべて消滅してしまうのです。

そこにはどんな物語性も残っていることができません。なぜなら、物語性は思考の中でしか存続できないからです。

真実はどんな高度な思考を駆使したところで、遥か及ばない未知のもの。思考は把握する対象を必要としますが、真実は対象とはなりえないのです。

こうしたことが少しでも腑に落ちるなら、深刻さが確実に落ちていくことになるのです。深刻さも思考の一部だからです。

人類を二種類に分類する

わたしが勝手に人類を二種類に分類するとしたら、それは国籍でも性別でも信じている宗教でもなく、あるいは善人か悪人かでもありません。

一つ目は、人生という物語に深く翻弄されてるが故に、100%物語の住人と化してしまっている人。当然、それが物語であることにも気づけません。

もう一方は、人生という物語の内容がどれほど悲惨で苦悩するようなものであっても、それを物語と見抜いている人。

なぜこのような分け方をするかと言うと、それ以外の分類が無数にあるとしても、そのすべてが物語の中の話しになってしまうからです。

物語の中に全面的にいるのか、それともそれを見る側になれるのかの両者には決定的な違いがあります。次元が違うと言ってもいいくらいです。

それは映画で言えば、スクリーンに映し出される映像の中の存在と、映像を映し出すスクリーンとの次元の違いと同じなのです。

人生を物語だと見抜いたとしても、人生がそこで終わってしまうわけではなく、その後も普段通りの人生は続いていくのですが、気楽さが決定的に違ってくるのです。

物語と密着していれば、必ずや深刻さが滲み出てくるのです。なぜなら、起きてくることの一つひとつに翻弄されて、それと戦わねばならないからです。

戦うのをやめて下さいとクライアントさんにお伝えするのも、物語を見る側になるための第一歩だからなのです。

自分以外の誰かになろうと必死になっていたりしたら、不可能を可能にしようとして絶え間ない戦いの中で思考まみれになって死んでいくことになるのです。

全部丸ごとひっくるめて物語だということが腑に落ちた時、すべてはあるがままでOKだと分かるのです。

マインドのメカニズムはどれも同じ

心というのはメカニズムだ
それは独創的でなどあり得ない
それは生きてさえいないのだ
どうしてそれが独創的であり得る?
それは社会的なものだ
それがゆえに、覚者たちが口をすっぱくして
心を落とさない限り
真実を知ることはできないだろう、と強調する
真実はつねに独創的なものだからだ

by osho

↑この「心」というのは、マインドのことを指しているのです。日本語で「心」と言うとき、マインドのことを指す場合とハートのことを言う場合があるため、間違いやすいのです。

だから私は、なるべく心という単語を使わないようにしています。心を落とすという場合の心は、マインドのことだと思って間違いありません。ハートを落とすことはできないからです。

ハートはマインドが優位になるにつれて、反対に抑圧されてきたものです。ハートは感じ、マインドは考えるのです。

私がまがりなりにもセラピストをやっていられるのも、実は私たちのマインドというのはそのメカニズムにおいては、どれも同じだと知っているからです。

一人一人のマインドのメカニズムが違っているとしたら、この世界からセラピストなど消えていなくなってしまうはずです。

だから真に独創的なマインドを持った人などいないということです。エゴは自分のことを、良しにつけ悪しきにつけ特別扱いしたいのでしょうが、それは無理なこと。

結果としてどんな状態のマインドであれ、癒しの方法について基本的には違いなどないのです。違って見えるのは、表層の部分だけなのです。

だからどんな育ち方をしたところで、み〜んな同じ。自分だけ劣っていると思うなら、それはエゴの作戦なのです。

どんな人にも劣等感はあるし、罪悪感も執着心も憎しみも嫉妬も全部品揃えしています。だれでも同じマインドのメカニズムに突き動かされて生きているのです。

そこを見抜けば、もっともっと気が楽になるはずです。

重荷を解き放す

人は誰かから期待されることをいつも望んでいます。期待があれば、それだけやる気も出てくるだろうし、自分にはそれだけの価値があると感じるからです。

誰からも何も期待されなければ、自分はなんて惨めな奴なのだろうと思ってしまうのです。だとしたら、期待されることがどれほどありがたいことなのか…。

けれどもその期待が一方では、ひどい重荷となって自分を苦しめてしまうこともありますね。その期待に応えられそうにないと思えば、その重圧に押し潰されそうになるかもしれません。

そして他人からの期待よりも、もっと重くのしかかっていつまでも続くのは、自分が自分に与えた期待なのです。

たとえば、親は子供を愛さなければならない、あるいは反対に子供は親を愛するはずだという期待。でも薄々感じている、そうした常識的なことに対する違和感。

本来、生はどんな決め事やルール、常識などによっても縛ることはできません。それ自体が生き物のように自由自在に変化するし、なんでもありなのですから。

そのことを深く理解することができたら、自分にどんな期待も当てはめてはならないということが分かるはず。

そして知らず知らずのうちに、長きに渡って背負ってきてしまった重荷に気づき、それを一刻も早く解き放してあげて下さい。それ以上に価値あることはないのですから。

エゴには愛が分からない

自分が愛していると感ずるときには
ちょっと見守ってごらん
あなたは所有性を表しているだろうか?
もしそうだとしたら
あなたはその人を殺そうとしているのだ
というのも
所有され得るような人間などひとりもいないのだから
所有され得るのはものだけで
人間は無理だ

by osho

若い頃から、自分には人を本当に愛することなどできないんだなという自覚があったのです。そのことで少しは悩むこともあったと思うのです。

けれども、次第に気づいたことがあったのですが、それは他の誰もが似たようなものだということを。結論から言えば、誰もが真の愛を知らないということ。

私はあなたを愛しているという場合の「愛」には、実は様々なものがあって、そのほとんどがエゴの愛だと分かったのです。それからは気が楽になりました。

なぜなら気づかずに本当の愛だと思っているよりも、愛ではないと気づいている方がどれほどましか…。

エゴの愛は、所有欲から発生するものです。だから好きになると、相手を自分のものにしたいと思うし、反対に相手のものになりたいという願望も生まれるのです。

所有欲も執着も、どちらも対象はモノです。つまりエゴの愛は、相手をモノ扱いしているということ。だから相手にこうして欲しい、ああして欲しいという気持ちが起きるのです。

親が子供をコントロールしようとするのも、決して愛からではなく所有欲からなのです。だから、コントロールされた子供は、それが愛なのだと騙されるのです。

エゴには愛が分からないということを、深く理解することができると、悩まなくて済むのです。愛はエゴが小さくなった分だけ深くなることを忘れないことですね。

真実は譲渡不能

真実というのは情報じゃない
それは何か、手から手へ譲渡できるものではない
たとえもし私があなたに真実を譲り渡そうとしても
あなたの手に渡ったとたん
それは虚偽になってしまうだろう
それこそまさに真実の本性なのだ
譲渡不能–
あなたがその中へと成長してゆかねばならない

by osho

物語というのは、情報として語り継ぐことができるけれど、真実はそういうものではないということです。

どんな言葉を使っても語ることのできない何か、思考によって縛られない、論理によって推理することすらできない、そういう意味では不条理なものです。

もちろん想像することもできません。なぜなら、イメージというのは思考がベースになっているからです。

だから真実についてのどんな説明も、方便になってしまうのです。それを指し示すことはできても、それを表現することはできない。

歴史上残っている、あらゆる宗教の経典は、そういう意味では全部方便なのです。般若心境でさえ、方便としか言いようがありません。

真実は分かち合うこともできないのです。なぜなら、それは私たちの奥深くに隠されたものだから。真実はまったくもって個人的なもの。

その完全に個人的なものが裏返って全体性へと繋がるのです。孤独から逃げずに、その奥へと進んで行った先に、孤独が不可能だと知ったときに、真実はあるのでしょうね。

淡々と準備をしつつ、待つ!

エゴの基本的なスタンスというのは、このままではダメだ!というものです。現状に甘んじることなく、先へ先へと進んでいくこと。

このような考え方、生き方が社会的にも良しとされているのです。だから、誰もが子供の頃からこのような生き方を目指そうとします。

このことにあまり疑問を感じずに、がむしゃらに前へ向かって突進していける人はある意味幸せかもしれません。

ところが、人によってはこれがどうもしっくり来ないという人もいるのです。その場合には、社会や親に対して反発してしまうかもしれません。

私の場合は、前者のふりを少ししながらも、内側がではまったくもって後者の状態でした。そのために、自分は一般的ではないと感じていたのです。

今ではそのどちらでもないという理解に至ったのですが、それは成し遂げるということに価値を見出さない生き方であるとも言えます。

本当に大切なことは、エゴの意思や努力では決して成し遂げられないということに気づいたからです。私たちができることは、準備を淡々と続けていくこと。

それは華々しくもなく、賞賛されるようなことではないのですが、深い気づきというのは向こうからやってくるのです。

ただし、それがやってきてくれたことに気づくためには、準備をしておく必要があるということ。できることはそれだけなのです。

自分本位の勧め

もし世界中の誰もが自分本位だったら
世界はビューティフルだろう
ちょっと考えてみてごらん
誰もが幸せでいようとしている
誰もが祝おうとしている
誰もが静かで、瞑想的で
祈りに満ち、愛にあふれていようとしている
そういうものこそ幸福のもとだからだ
世界は幸せになるに違いない

by osho

自分本位になって下さいということは、16年以上前にセラピストになった頃からずっと言い続けていることの一つです。

↑ osho のようなすばらしい表現はできなかったですが、言いたいことは全く同じなのです。

けれどもどういうわけか、クライアントさんの中には「ノー」が言えない人がたくさんいらっしゃるのも事実なのです。

自分を最優先することができなければ、その後に続く愛の姿が見えてこないのです。愛は与えることですが、それは溢れ出てくるものを分かち合うことなのです。

枯渇しているなら、決して与えることなどできません。自分本位とは決して誰かと闘って勝つことではありません。

あくまでも自分らしく、あるがままに、ありのままに生きていくということを実践するためには、自動的に自分本位になるのです。

全ての人が誰かの目を気にすることなく、我のまま、つまり我がままに生きるなら、osho が言うように世界は幸せになるに違いありません。