愛はあなたのためになる!

人々を愛しなさい
無条件に
もし内心何か条件を持っていたら
絶対に愛することなどできない
そうした条件が障壁となってしまう
愛はあなたのためになる
どうして条件などにかまうことがある?
愛は実に有益なものだ
それは何とも深い健康状態だ

by osho

今日はちょっと自分としては苦手な内容です。人々を愛しなさいと言われても、そうできないからこそ苦しんでいるのですが、愛すればすべての苦しみは消えてしまうと言っているのですね。

なぜなら、愛はエゴを枯渇させてしまうから。エゴを弱体化する方法はいくらでもあります。たとえば、無邪気さの中で生きる。無防備になる。深い瞑想に入る。そして愛するということ。

エゴは愛を知らないのですから、愛しなさないと言われても土台無理なことですが、だから最初は愛する真似事でもいいのかなと。

真似している間に、時として急にフワッと内側が軽くなることがあるなら、その瞬間マインドが停止している状態なのです。そのとき、エゴは一瞬消えるのです。

苦しみの創造者であるエゴがなければ、身体も内面も健康になってしまうのは当然のことですね。だから、愛はあなたのためになる、と言っているのです。

もちろん、この場合の「あなた」というのは、エゴが消えた後に残るあなたの本質のことを言っているのですね。

自信なんて必要ない!

クライアントさんの中には、何事にも自信がないので困っているという方がいらっしゃいます。あるいは、何かのきっかけで自信がなくなってしまったという場合もあるでしょうね。

なぜ私たちは、自信のある無しを気にするのでしょうか?確かに、うまくできなかったことも自信をつけることで、上手にできるようになることはあります。

けれども、幼な子は自信があるかどうかを気にしたりしないものです。それはまだエゴ自体が幼いままだからです。

つまり自信のある無しを気にするのはエゴなのです。エゴはいつも誰かの高評価を得たい、認められたいと願っているのです。

その思いが不安を作り出し、緊張することでかえって能力を使いこなせなくなってしまうのです。

だからこそ何度も練習を重ねて自信をつけることで、その不安や緊張が小さくなり、良い結果を生み出すことができるのです。

癒しの観点からすると、自信をつけることはエゴを強化することでもあるのです。自信がないから自信をつけなければならないという、硬直した考えを一旦脇に置いてみることです。

そして自信が必要な理由は、人からの評価を気にする、つまり自己防衛が原因なのだということに深く気づくことです。

そうすれば、防衛を小さくしていくことによって、自信など必要ないということがはっきり理解できるようになるはずです。

明日のことは明日の自分に任す

目的地のことは心配しなくていい
ただ、最初の一歩を踏み出すことを楽しみ
その中に歓喜しなさい
そうすれば
二歩目は一歩目から自然に出てくるだろう
そして、三歩目がその後に続く
あなたがそれを心配する必要はない
明日は明日にまかせるがいい
明日のことを思うなかれ
楽しみなさい!

by osho

↑このことは、癒しについても言えることなのです。セラピストというのは、どうしたら癒しを進めていけるかということを、クライアントさんに提示するのが仕事です。

この方向に進めていけたら、その先には光がありますとお伝えするのですが、いきなりその光へ到達することはとても難しいのです。

けれども、クライアントさんの本音は一気にその光をつかむにはどうしたらいいのか、そんなことは自分には無理ではないかと思ってしまうらしいのです。

そんなとき、光までの階段が十段だとしたら、今日は、初めの一段を上がることだけを意識してくださいというのです。

今日の自分にできることだけを、できるだけ楽しみながら実践すること。決して二段目以降のことを考えないこと。

二段目以降のことは、一段目を上がった未来の自分に任せてしまえばいいということです。今の自分が明日も継続しているという想定ほど、馬鹿らしいものはないのです。

私たちは、決して連続体ではありません。いつも新しい自分が発生しているということにも、意識を向けて見て下さい。

それができると、未来を不安視することも小さくなってしまうはずです。

分裂の度合いを小さくする

私たちの分裂した内面のことをマインドと呼ぶのだということは、何度もこのブログでお伝えしてきたことです。

あの人と結婚したいというマインドの部分があれば、結婚したくないという部分もあるし、セッションを受けたいという部分があると同時に、セッションは嫌だという部分もあるのです。

もしもマインドが分裂しなくなってしまったら、もうそれはマインドではなくなってしまいます。というより、マインドという内面は消失するのです。

ということで、誰のマインドも同じように分裂という病みを抱えているのです。ただ、その分裂の度合いの大小によって、病みの深さが変わるのです。

激しく分裂してしまうと、非常に生きづらい人生へと進んでいくことになってしまうのです。それは、分裂した各部分が極端な特徴を持つことになると同時に、表面化するのはどちらか一方に限られてしまうからです。

たとえば、幼い時に無邪気さを抑圧して一切それを使わないようにしてしまうと、その無邪気さの部分は野生児のように保存されて、社会性が非常にに乏しいものになってしまうのです。

逆に、抑圧が比較的小さいものであるなら、無邪気さと社会性が同居することになり、バランスのとれた大人になることができるのです。

この場合は、分裂が小さいことになるわけです。したがって、癒しというのは、分裂した各部分が互いの距離を縮めていく作業だと言ってもいいのです。

そのためには、リーダーシップを取れる部分が、その他の部分を受容することが必要なのです。受け止めることができたら、距離は一気に縮まるでしょうね。

エゴは何もせずにはいられない

あなたがたは何かに従事していたい。
だからエゴを落とすことはできないでいる。
空っぽで何も従事することのない状態でいられる用意があなたがたにできないかぎり
たとえ必要とされなくっても、それでもなお生を楽しみ祝福する用意ができているようにならないかぎりエゴが落ちることはありえない。

by osho

私たちは確かに何もしないでいることができません。ただ黙って静かにしていると、そのうちにはムズムズしてきて、立ち上がって何かをしようとするのです。

それはちょうど、息を止めている状態と同じなのです。息を止めて、少しの間は大丈夫なのですが、そのうちに窒息するあの苦しさがやってくるのです。

そして息を吸わなければどうしようもないあの感覚になって、息を吸ってしまう。それが立ち上がって何かを始めることと同じなのですね。

息を吸わなければ、死んでしまうのですが、それは何もせずにいればエゴが死んでしまうのと全く同じこと。

これといって何もすることがないと、私たちは退屈しだすのですが、あれは息が充分に吸えずに息苦しくなるのに似ています。

何もしないでいれば、そこに物語を見出すことができなくなってしまうので、物語の住人であるエゴが死んでいくのです。

だから私たちのエゴは、躍起になって何かをすることを探すのです。忙しくしていると、どこか充実感があるのはこんな理由があったのです。

立ち上がって何かをし出すことを止めていると、今度は思考が忙しく働き出すのです。そして、グルグルと何かを取り留めなく考え続けるのです。

これがエゴの作戦なのですね。逆に何かと忙しくしている人は、エゴが喜んでいるということに気づくことですね。

意識とはスクリーンのこと

母国、人種、宗教、家族、伝統、そして
今までに受けた傷、それによろこび
その起こったすべてが自我なのだ
そしてあなたは
これらのことすべてが起こった対象だ。
この区別を理解しておかなければならない。
あなたは
それらすべてが起こったその人
だがエゴとは起こったことそのものだ。

by osho

↑この意味をどのように解釈すればいいのでしょう?なかなか分かりづらい内容だと思います。私自身もそれほど深く納得できているわけではないかもしれませんが…。

例えば、映画館で上映されている映像を見てみると、その映像によって様々なことが表現されているわけです。映像の中身こそが、擬似的とはいえ起こったことそのものです。

それがエゴであるとするなら、その映像が投射される対象がスクリーンなのですが、そのスクリーンこそが我々の本質だということです。

エゴというのは、あらゆる起こったことと無意識的に自己同化してしまっていると捉えてもいいのです。私たちの本質は、すべての自己同化が外れた後に残るもの。

それはナニモノでもない、何も無さ、映像自体はスクリーンによって支えられているのに、そのスクリーンの存在を映像(起きたこと)は知らないのです。

なぜなら、映像(起きたこと)は物語であり、スクリーンはそれを見守る側だからです。意識的であるということは、スクリーンとしての自己に気づいている状態ということですね。

希望製造メカニズム

あなた方は希望製造メカニズム
そしてこの
希望製造メカニズムこそエゴにほかならない!
では、どうしたらいい?
実のところ、どうこうすることは何もない。
ただあなたがたにはもっと明晰な眼が必要だ。
唯一必要とされるのは
あなた自身を新鮮な眼で見ること

by osho

希望という言葉の響きはとても明るい前向きな感じがして万人が好きなものですね。だから、希望の党のようなネーミングにも使われるわけです。

確か今日は総選挙の公示日ですかね?そこに水を差すわけではないのですが、希望というのは、願望であり、欲望とも言えるわけです。

じゃあ、欲望の党?でもよさそうなものですが、ニュアンスの違いが明確にあるので、そうはいかないのですね。

けれども、そのニュアンスの違いは根本的に間違っているということです。希望こそが、エゴの餌なのです。そのことは、誰もが身をもって経験しています。

希望に燃えているときには、とても明るく張り切っていることができますね。つまり、それだけエゴが喜んでいるということです。

逆に、希望が減って行くと未来の展望が見えない状態になって、気持ちも落ち込んで暗くなってくるのです。つまりエゴが困窮しているということです。

希望はエゴの餌なのです。だからエゴという幻想から遠ざかろうとするなら、希望をなくしていく必要があるのですが、それはなかなか難しいことです。

それよりも、希望をエネルギー源として生きているエゴを、クリアな眼で見守ることによって、エゴが自然に衰退していく方を選ぶことが肝要なのです。

意志の力が落ちるとき

意志の力は役に立たない
ほんとうは、意志の力は力などではまったくない
なぜなら意志とは自我に依存しているもの
非常にちっぽけな現象だ
大きな力など生みだせるものではない
意志をもたずにいるとき
そのときあなたは力に満ちている
そのときにはあなたは
全体と一体になっているからだ

by osho

私たちは、↑ずっとこの反対のことを教えられてきました。強く、確固とした意志を持って、人生を切り開いていかなければならないと…。

意志の力が弱ければ、自分に負けてしまう。そんな軟弱な人間になってはいけない。だから、逞しい精神力を持つことが、人として素晴らしいことだと感じるのです。

実は努力が絶対的に必要だと感じる間は、確かに一理あるのですが、努力によって成し遂げられたことは、osho がいうように、非常にちっぽけな現象なのです。

なぜなら、どんな努力も物語を観る側へ行くことを助けてはくれないからです。努力の本当の目的とは、努力(意志の力)では真実へ近づけないことに気づくこと。

その気づきとともに、その絶望がやってきたときに初めて、努力(意志力)も一緒に落ちることになるのです。

それが全体性と一つになること、全体にサレンダーすることなのですね。

思い込みが至福を遠ざける

信じがたいことかもしれませんが、私たちが暮らしているこの世界というものは思い込みが土台となって成り立っているのです。

思い込みというのは、違う言葉で言えば信じることです。そして一般的には、この思い込みという言葉には、否定的なニュアンスが含まれていますね。

それはあなたの勝手な思い込みだよ、という具合に使われることが多いからです。つまり、思い込みとは事実に反して、あるいは事実を捻じ曲げて信じることを意味するからです。

私たちが共通に持っている根深い思い込みとは、私という個人がここにいるということです。まぎれもない事実だという感覚も持っているので、この思い込みを見破ることはとても難しいのです。

「私」という認識は、自然なものではなく、無意識的とはいえ人為的にでっち上げられたものだということです。

このブログでは、このことを繰り返しお伝えしているのですが、もしもこのことをああそうなんだと信じてしまうなら、それこそまた新しい思い込みが1つ増えるだけのことになってしまいます。

自分はどうしたらより幸せな人生を送ることができるかということを、誰もがどこかで考えているのですが、その根っこには、「私」という個人がいるという思い込みがあることを忘れてはなりません。

「私」が満たされることは原理的に決してあり得ないということを深く理解することができると、残された道はただ1つ。

いかにして、「私」がいるという思い込みを暴き切るかということに尽きるのです。それは幸不幸を超越した、真の至福への唯一の道だからです。

あなたがいなければ、至福がやってくる

あなたがいればいるほど、病いは深まっていく。

あなたがいなければいないほど、あなたはますます健やかになる。

あなたがいなければいないほど、あなたは重さをなくしていく。

あなたがいなければいないほど、あなたは神性を得て至福に満ちる。

by osho

こんな理不尽な仕打ちってあるのだろうかと思いませんか?

自分が満たされないのは、自分がいるからだと言われているのですから。けれどもこれは正真正銘の真実なのですね。

私たちが、これこそが自分だと思い込んでいるマインドこそ、病みの中枢なのです。なぜなら、ひどい妄想から分裂を起こしているからです。

その妄想による分裂した内面をマインドと呼ぶのです。そのすべては思考によってでっち上げられるのです。

それでも、誰もがそこを通過しなければならないのです。なぜなら、そのマインドによってほんの少し意識が表面に出ることができるからです。

だからそこまでは、間違いがあるわけではないのですが、何が問題かというと、その妄想を妄想だと見抜けぬままに人生を終えることなのです。

生きてる間に、自分の真の正体を見抜くことができるなら、万事塞翁が馬なのです。何があろうと間違いではなく、ただ気づけばいいのです。

たとえそれが、次の、またその次の人生であっても。