<実在>は特別な「私」の存在を許さない

一片の白い雲
それには根というものがない。
それは根を下ろすことのない現象–
どこにも落ち着くことなく・・、いや
どこにもないところに落ち着いて
なおかつ存在する–
<実在>するもの全体はまさに一むれの白雲
根もなく、因果もなく、本源的な原因いっさいなくして
存在する。

by osho

1日のうちのほんの数分でもいいから、物語の中にいる自分から抜け出して、ただこの瞬間という<実在>とともに在るようにしてみることです。

<実在>とは、今ここのこと。この瞬間以外にはどんな時もないし、ここ以外のどの場所というのも存在しないのです。

このことに深く信頼を置くことができると、きっと瞑想の質が変化してくるはずです。頭で理解しているだけでなく、そこに信頼が加わることですべてが一変します。

この瞬間が在るのに、どんな原因もないし、どんな目的もありません。それはただそのようにして在るだけだから。

そのことを深く深く、より深くまで見通そうとしてみて下さい。どんな因果も、本源的な原因もいっさいなく存在するなら、この「私」がいられるはずがないと気づくかもしれません。

「私」というエゴは、何かのために存在していると思いたいのです。何かの目的があって、それを達成することに意味があり、価値があると信じたいのです。

それがすべてただの幻想だとわかった時、この上もなく軽い気持ちになると同時に、「私」はもたないでしょう。

<実在>はそんな特別な「私」の存在を許すことはないのですから。

周囲に対して意識的でいられる人

日頃電車に乗る機会がほとんどなく、代わりにクルマでの移動ばかりなのですが、運転していて気づいたことがあるのです。

それは、狭い道をクルマで走っている時に、そこに歩行者がいて、その人を追い越す時に思うことなのですが…。

歩いている人は、いくつかのパターンに分類できるのです。後ろから来たクルマに気づいて、少し歩みを止めて後ろを振り返る人。

あるいは、クルマが来たことには気づいているのだけれど、振り返ることはせずに、ちょっと道の端によって車をやり過ごそうとする人。

さらには、クルマが来たことには気づかない感じのまま、ただただおのれの歩みを進める人。

私の感覚では、最後のパターンの人が最も多いのです。つまり後ろからどんなクルマが来たかなどには無頓着で、自分の世界に入り込みつつ歩き続ける人。

こういう人は、きっと思考の世界に入り込んでいるのでしょうね。周りで今この瞬間に何が起きているかということに気づくことができずにいるのです。

一方、クルマの気配を背後に感じて、それなりのアクションを起こせる人は、周りで起きていることに気づいている人です。このことは、性別や年齢には無関係のようなのです。

不思議ですね。遊ぶことしか考えていなさそうな小学生の男の子でも、クルマが行ってしまうまで待っていることができる子供もいるのです。

きっとクルマの存在に気づかない人の方が、この社会では上手に生きていけるのかなと思ったりして…。

私は個人的には、気づいている人の方がいいように思います。なぜなら、それが意識的であることに通じるからです。

あなたはどのタイプですか?狭い道を歩く時に、自分がどのように行動しているのかを是非検証してみて下さい。

 

 

大人の姿をした子供

子供の頃にはごく普通に経験していたものが、大人になるに連れて経験しなくなっていくものってありますよね。

たとえば、子供は成長の段階で大人や親から叱られる、あるいは怒られるという経験を何度も繰り返して、いろいろなことを覚えていくのです。

生きていく上でのごく基本的なことは、やはり年長者から教わらなければ分からないのですから。それがときには、叱られる、怒られるという形をとるわけです。

さすがに大人になったら、そういうことは減っていくものですね。いい大人がそんなことも分からないのかと思われたら、もうあきらめられてしまうからです。

大人になったら、むしろ助言されるとか、意見されるなどのように、上から目線ではなくある程度対等な立場からものを言われるという形になるのです。

ところが、クライアントさんとお話ししているときに、「叱られる」「怒られる」という表現をされることがあって、それを聞くたびに違和感を感じてしまうのです。それは上述したことが原因なのです。

また、子供の立場は非常に弱いので、親に捨てられたら生きてはいけません。だからこそ、子供の時には「捨てられたら…」という危機感があるわけです。

大人になっても、「私は彼に捨てられた」と言っている人がいるようですが、同じ理由で非常に違和感を覚えるのです。

大人同士であれば、何がどうなったとしても、相手を捨てるとか、相手に捨てられるということはあり得ないはずです。

このように子供の頃に特有の体験を、大人になっても引きずっているという自覚があるなら、インナーチャイルドのエネルギーが強く残っていると見るべきです。

こういう状態では、子供の頃のあの不自由さをずっと抱えながら生活していかなければならなくなってしまいますね。

大人の姿をした子供が、社会の中で生きていくことを考えたら、それは相当に大変なことだとわかります。早めに癒しを進めて行く必要があるでしょうね。

絶滅危惧種について

<全体>があなたに生を与えてくれたからには
どうして<部分>がそれを改善することなんかできる?
<源>からすべては来ている
どこまでもその<源>に供給をまかせなさい
あなたは不必要に出しゃばっているのだ
そうしてあなたは
すでに海に向かって流れている川を押し流そうとしはじめる

by osho

↑これを読んでふと思ったのですが、絶滅危惧種ってあるじゃないですか。何とかして、絶滅しないようにとあらゆる手段を講じて保護するわけです。

確かに一度絶滅してしまったら、もう二度とその生物を見ることはできないのですが、それはそれでいいのではないかと思うのです。

<源>からやってきたものは、いずれは<源>へと還っていくことになっているのです。なぜなら、永遠なのは<源>だけで、そこから供給されるものは何であれ一過性のものだからです。

この世界は全て一過性の儚いものばかりでできているのです。何かの種が生まれても、いずれは必ず絶滅することになっているのです。それが自然だと思うのです。

無理やり絶滅しないようにと、あの手この手で種の延命を画策する必要はないのだろうと感じるのです。我々人間でも同じこと。

いずれは誰もが<源>へと還っていくのですから、それが悪いことでもいいことでもないということです。無理な延命はエゴのなせる技。

自分だけが延命しようとして、闘って人類レベルで滅びてしまうとしたら、皮肉なことですが、それはそれでいいのかなと…。

「私」は決して満足できない

ただあなたがいる
あなたはあなたの意識の中に住まう
それはあなたの唯一の世界だ
ほかには何も存在しない
これが心も無心も超えた境地だ
これが<理解>の至上無比の境界だ
これ以上のものは何もない
そして、私はあなた方に語りたい
これに到着するまでは決して満足しないこと

by osho

↑こんなこと言われなくても、満足なんて決してできないのは自覚しているはずですね。もしも今十分に満足していると感じている人がいるなら、それがいつまで続くかを見ていればいいのです。

満足などとは程遠い、私自身はずっとそう感じながら生きてきた自覚がはっきりあるのです。そもそも満足なんてものがあるのだろうかって気がしていました。

今でははっきりと分かるのです。「私」というエゴは、不満足なしではやっていけないものだということが。満たされないということが、生きることの原動力になっているのです。

その不満足とは、不足感、不自由感、それが不安と孤独を必ず伴うのですから、自分をごまかさずにいれば、誰でもこうしたものをずっと持って生きていることに気づくはず。

はっきりさせましょう!あなたがあなたのままでいる限り、何をどれだけ手に入れることができたとしても、決して本当の満足などやってくることはあり得ません。

満足してしまったら、あなたは逆にあなたのままではいられなくなってしまうというジレンマを抱えているからです。それなのに、私たちは満足したくて毎日何かを求めて彷徨っているのです。

真の満足は、あなたがいなくなったときに、あなたは意識であることに気づくときに、それは初めからそこにあったことにも気づくのです。

夢のない話ですね…。けれども残念ながら本当のことです。

あなたの内なる実存=観照

あなたの内なる実存は<観照者>だ
それは決して<行為者>じゃない
あなたがそれを行為者と思い込むときには
必ずそこには同化がある
それは決して行為者じゃない
あなたが地上を残らず歩き尽くすことはできても
あなたの内なる実存は一歩たりとも歩きはしない

by osho

私たちが何かを見るとき、そこには3つの要素があります。それは、対象を見ている自分、そして見られる対象、最後に見るという行為。この3つが揃って、初めて見ることができるのです。

一方、↑この場合には大きな違いがあるのです。<観照者>という表現は分かりやすくするためのものであって、観照する誰かがいるわけではないということです。

つまり、観照される対象と観照(気づいている)の2つの要素だけがあるのです。観照は誰かの行為ではありません。そこを間違えないことです。

「あなたの内なる実存」= 「観照(気づき)」ということです。だからこそ、あなたが地上を残らず歩き尽くしても、観照が歩くということはないのです。

ちょうど、広大な宇宙を舞台にしたスターウォーズという映画を映し出すスクリーンがまったく動かずにあるのに似ています。

観照とは、この宇宙、この世界を映し出すスクリーン、背景だと思えばいいのです。背景こそが全体性なのです。

街を歩くときに、背景に意識を向けて置くようにして見てください。決して、歩いてなどいないという微かな感覚がやってくるはずです。

「でも」星人現わる

この仕事を初めてすぐの頃ですから、もう15年以上前のことになりますが、あるクライアントさんとお話しをしているときに、その方がすぐに「でも…」から話しを始めるのです。

最初は特別何とも感じていなかったのですが、あるときにふとその毎回出てくる「でも…」が気になりだしたのです。

その方にとっては、私の話す内容が気に入らなかったのだろうことは分かるのですが、その後も何度となくセッションにいらっしゃるのです。

もしも本当に気に入らなければ、もう二度といらっしゃらないはずなのに。今よりももっと未熟だった私は次第に腹が立つようになってきました。

何を言っても、「でも」で返されてしまうからです。自分が言ったことがすべて否定されてしまう感じがして、苛立ちを覚えたのです。

「でも」という言葉は日常的に誰もが使ってる便利なものですので、それ自体には何の問題もないのですが、頻発するとなるとそこには何かがありそうです。

実はその人なりの自己防衛の方法だったのです。その人にとっては、相手に対して共感したり肯定的な返事をしてしまうと、きっと負けて惨めな気持ちになってしまうのかもしれません。

もしかしたら、幼いときに親から「でも」を連発されて悔しい気持ちを感じていたのかもしれません。そういう意味では、相手を変えて仕返しをしているという捉え方もできます。

それがはっきり理解できたときから、「でも」を連発されても一切苛立つことがなくなりました。みなさんは、「でも」を使っているまさにそのときに気づいていますか?

そこに防衛の要素が入っていないか、ご自身の発言を注意深く見守ることで気づくことができるようになるはずです。

中道こそ王道

絶対的に正しいことというのは何だろうか?
タントラは、それは<二>の中に<一>を見ることだと言う
<多>の中に<一>を見ることだ、と
いちどあなたが二元対立の中に<一>を見られたなら
すでに超越は始まっている
これが王道だ

by osho

先日あるクライアントさんに、信じることと信じないことは同じコインの表と裏のような関係にある。どちらでもないという態度が大切だということをお伝えしたのです。

きっとこんなことは初めて聞いたのでしょうね。半ば呆れ顔というか、少し薄笑いされてこの人は何を言っているのだろうという感じでした。

当然かもしれませんが、信じることと信じないことは同じことだと見抜くことは<二>の中に<一>を見ることなのですね。

神を信じることと、神を信じないことは真反対のように見えて、両者のマインドは同じ機能を使っていることに気づくことです。

つまり、神の存在を信じることと、神の不在を信じることと、結局どちらも自分にとって都合のいいことを信じるという点では、まったく同じなのです。

信じるでも信じないでもない、そのどちらでもないいわば中途半端?と思われても仕方ない生き方こそが、中道なのです。

この視点は、物語を見る視点と共通なのです。なぜなら、信じることも信じないことも、思考の中であり、どちらでもないこそが、思考から抜けた観照の視点だからです。

物語の外側にだけある至福感

物語というのは、嬉しい時楽しい時には、本当にそこから抜けたくなくなるし、それがずっと続けばいいと願うものです。

人生が上手く転がっているときには、「この世の春を謳歌する」のような表現があるくらいですから、物語であることなど忘れてしまいます。

一方で、願い通りに行かなかったり、嫌な出来事が連続して起きたりしたら、気持ちも荒んで、落ち込むことになるかもしれません。

そんなときにも、やはり物語であることを忘れて、なんで自分の人生はうまくいかないのだろうと思うのです。

物語とは、いい時も悪い時も刺激的なのです。刺激がなければ、抑揚がなければ物語は消えていってしまうからです。

ところで物語の中に入り込んでいたことに気づけると、そこにはある一定の静かな至福感があることにも同時に気づくことができます。

ただしそれは非常に静寂で、刺激がまったくないために強い刺激の物語の中にずっといる人にとっては、本当に気づきにくいものなのです。

例えて言えば、味の濃い刺激的なジャンクフードばかりを食べていると、非常にうす味で奥深い風味の京料理などが、味気ないつまらないものに思えてしまうのと同じです。

いい時であれ悪い時であれ、人生物語を見ることを忘れずに入られると、そこには必ず在る至福に気づけるようになるのです。それを信頼と言ってもいいかもしれません。

それ以上の救いはないですね。

マインドのどの具材を選択する?

人はそれぞれに独自の性格、生き方、考え方を持っていますね。誰一人として、同じということはありません。今日は、その違いはどこからやってくるのかというお話しです。

実は私たちのマインドには、非常にたくさんの機能的要素があるのですが、それは誰もが同じ要素を持っています。その中のどれを主に使って生きているかの違いが、その人を特徴づけているということです。

たとえば、一つのスーパーマーケットに大勢の人が買い物に行き、それぞれに異なる具材を選んで持ち帰り、それを料理することでその家庭の夕飯ができるのと同じです。

肉を食べたい人、野菜中心の食事をしたい人、それぞれにスーパーでの買い物の仕方が違ってくるわけです。

もしもあなたが、嫉妬深くて困ると思っているなら、それは嫉妬するマインドの機能を選択しているからだということです。嫉妬する機能を持ち合わせていないマインドなどないのです。

もしあなたが、罪悪感まみれで生きているなら、罪悪感を生み出すマインドの要素を最大限活用しているに過ぎないということです。

マインドのどの具材を利用するのかを選んでいるのは自分なのだということに深く気づくことです。そのためには、注意深く、意識的に自分のマインドを見守ることです。

それによって、選択しようとする瞬間を捉えることができるようになるはずです。もしも激昂してしまうという自覚があるなら、怒りという具材を選ぼうとする瞬間に気づくことで、それを使わずにいられるようになるのです。

繰り返しますが、人はみんな同じスーパーマーケットに買い物に行くのです。そこには、違いはありません。そこで何を選んで、どのように調理するのかで、その人の性格、生き方が決まるということです。

マインドを見守る練習をすることですね。