思考を見守る

思考を見守ること
もしそれを見守れば
あなたは完全に静寂になるだろう
思考は続くかもしれない
浜に打ち寄せ
岩に砕ける
が、あなたは穏やかで静かなままだ
波はあなたに影響すまい
だから本当の問題は思考ではなく
影響されるということにある

by osho

いつもお伝えしている通り、思考そのものはいいも悪いもありません。思考は単に便利に使えるツールでしかないからです。

人とのコミュニケーションをとるには、言葉を使うのですが、それは思考そのものと言ってもいいのですから、思考のない世界は考えられません。

問題は、思考への同一化なのです。思考と一体になってしまうことで、思考の外側を見ることができなくなってしまうのです。

osho は控えめに、影響されると表現していますが、正直言って影響どころか思考に飲み込まれてしまっているのです。

そうなると、そのことに気づけなくなるのです。それこそが問題の核心なのです。同一化をやめる唯一の方法は、それをただ見守ること。それ以外にはありません。

ただ見守るとは、巻き込まれずに超然としていることです。そうすると、自動的に思考の外に立つことになるのです。

はじめのうちは、思考を見守ろうとすると、思考は止まってしまいます。止まってくれればそれで目的が達成されたと感じるのですが、見守らなくなればまた思考は活性化するのです。

こうしたことを繰り返していくうちに、見守り続けながらも思考を自由に泳がせておけるようになるのでしょうね。これが、理想です。

必要とされたい病

好きな人に愛を告白するときに、「僕には君が必要なんだ!」という男性がいて、そう言われて喜ぶ女性がいるわけです。

お互いに相手を必要としていれば、相思相愛のいい関係になれると思うのですが、本当のところ愛されるということを必要とされることだと勘違いしているのです。

純粋な愛とは、溢れ出てくるものをただ与えることであって、相手を必要とするのは単なる欲望です。それが悪いと言っているのではなく、思い違いしていることに気づけばいいのです。

そのことに深い理解ができるなら、必要とされることで満足している自分の怪しさにも気づくことができるはずだからです。

誰かに必要とされてると思うだけで、自分に価値があると感じることができるので、私たちは安心するのです。

はっきりさせましょう!必要とされるということは、相手にとって利用価値があるというただそれだけのことだと。存在価値とは無縁のものです。

そのことが分かった上で、どうぞ自分を利用して下さいというのであれば、それは全く問題ありません。

でもその前に、まずあなたは誰かに必要とされる(利用される)ために生まれてきたのではないということを改めて深く知ることです。

人はモノではないので、利用することも利用されることも本来あり得ないことです。誰からも必要とされる必要のない人生を生きているか、要チェックですね。

モチベーションなんていらない?

最近あるクライアントさんとお話ししているときに、モチベーションが下がると思うように仕事ができなくなるといったことを伝えられました。

その時には、誰にとってもごく普通のことだなと思っていたのですが、ふと気が付いたのですが、そのモチベーションなるものが必要となるのはなぜなのか?

例えば、ある仕事を頼まれてそれを時間内に頑張ってやり遂げようとするとき、報酬として1万円もらえる場合と、100万円もらえるのとではモチベーションが違うのは当然かもしれません。

つまりモチベーションというのは、何かの要因によって起きてくる「やる気度」のことだと言えるのですが、実は私自身は若い頃からモチベーションを自覚していなかったのです。

何かをするときに、やる気というのを感じられずに生きてきたということで、ちょっとそう言ってもうまく伝わらないだろうと思うのです。

もっと簡単に言ってしまえば、何事にもやる気がないということなのかもしれません。これって、考えてみれば結構辛いことですよね 笑。

それこそが私の奥深いところにくすぶっていた違和感なのかもしれません。けれどもそのおかげで、今ではより積極的にモチベーションはいらないという生き方になれたのです。

ないものはないのですから、それを受け入れて生きていくしかないということですね。モチベーションがないと、いいこともあって、それは常に淡々としていられるということ。

それと自然でいられるということ。関連するかもしれませんが、テンションの高い低いもありませんので、つまらない人と思われるかもしれませんが…。

もしもモチベーションが小さくなってしまったら、あなたの生活はどうなるでしょうか?一度よく考えてみるのもいいことかもしれません。モチベーションの原動力は愛なのか、それとも恐怖?

 

物語を観る視点を養う

誰もがそれぞれに固有の人生を持っています。そのどれ一つとして同じものはありません。人が羨むような成功者の人生もあれば、グタグタでどうしようもないクズのような人生もあります。

但し、どんなものであれ、正しい人生とか、間違った人生などというものは決してないということに気づいている必要があるのです。なぜなら人生は物語だから。

物語に正しさを求めることは愚かなことだと誰もが知っていますね。ピンからキリまで何でもありというのが、まさしく物語なのですから。

もしもあなたが、自分の人生を物語としてただ観る視点を持っているなら、人生のこともその主役である自分自身のことも裁くことはできないはずです。

物語の中の自分は罪の意識に苛まれることがあったとしても、そういう物語なのだということに気づいていれば、深いところでは何の問題もありません。

で、どうやったら人生を物語として観る視点を養っていけるかですが、それこそが瞑想の役割なのです。逆に言えば、瞑想ができない人は人生が物語だと聞いても、決して受け入れることができないはず。

瞑想によって、物事をただ観るという視点になることを練習するのです。それは自動的に思考が緩慢になる瞬間を作ってもくれるのです。

自己改善してよりよい人生にしたいともがくのは、いいも悪いもなくただ物語の中のこと。本当のあなたはそれをただ観る側なのですから。

癒しは自己改善ではない!

改善?!
何を改善したところで
あなたはいつまでも不安と不幸から逃れられまい
なぜならば
改善しようというまさにその努力自体
あなたをあらぬ道に導いているのだから
それが<未来>に意味を持たせ
<理想>に意味を持たせる
そうして、あなたの心は欲望と化す
欲望して、あなたは道を誤る

by osho

常々言っていることなのですが、癒しというのは自己改善ではありません。上手くいかなくなったところを良くするのだから、改善だと感じても仕方ないのですが…。

例えば、パニック症状が出てしまうために、怖くて電車に乗れなくなってしまった人が、その症状が出なくなって、ごく普通に電車通勤、電車通学ができるようになったら、症状が改善されたと思うでしょうね。

けれども、それは表面的なことであって、内面的にはどこも改善などしていないのです。改善ではなくて、余分なことをするようになったマインドを、元の状態に戻すことができただけなのです。

つまり癒しとは、いわゆる治療と違って、生後作り上げてしまった今となっては不要な内的働きを、ただ元の状態に戻すということ。

それはすべて、より安心しようとする自己防衛が原因なのです。いいも悪いもなく、単に自分を守りたいという心理的自己防衛をすることで、本来は不必要な様々な反応をすることになってしまったのです。

したがって、癒しとは成長するにつれて、培ってきたあらゆる自己防衛を少しずつ小さくしていくことでしかありません。自己改善しようとする思い自体も自己防衛だと気づけばいいのです。

自己改善も、感情を抑圧するのも、体を具合悪くさせるのも、もっと言えば人生が上手くいかないのも、すべては自己防衛が原因だと深く理解することです。

オリジナルの自分を思い出して、緊張を解いて、ただリラックスすることを心がければ、自然に癒されていくのです。そこに、自己改善はありません。

 

ブログは自己表現の場

ブログを書くようになる前には、ホームページ内にコラムというのを作って、ちょっと長めの記事を書いていました。

ブログと違って毎日書く代わりに、ずっとホームページ上に残るものだという思いで書いていたので、ブログよりは真面目に考えて書いていたのです。

実際書くことにはそれほどの困難を感じたことはなかったのですが、書いた記事を読み直すということがどうもできなかったのです。

自分にはもっといい記事が書けるはずというような気持ちがあって、書いたものを読むのがとても恥ずかしい感じがしたのだと思うのです。

ただ、セッションにいらしたクライアントさんに、コラムの内容について質問されることがあり、再度読まざるを得なくなり、イヤイヤながら読み返すことが増えてくると、次第に読むことが普通にできるようになったのです。

慣れってすごいものですね。あれほど読めなかった自分の書いた文章を、平気で読めるようになってしまうのですから。

今では毎日書いているブログなどは、思いついたことをそのまま文字にしているということもあって、文章としてはコラムよりは相当に適当になっているのに、平気でアップできるし、読み返すこともなんでもなくなりました。

他人にどう思われるかということが、きっと気にならなくなったからなのでしょうね。それが気になってしまうと、ブログであろうとメールであろうと、何度も下書きをしてようやくアップするということになるかもしれません。

自分の書いた文章を気軽にアップしたりメールで送信したりできないという自覚があるなら、他人からの評価を相当に気にしていると思って間違いありません。

怖いという気持ちから逃げずに、勇気を持って繰り返し文章をアップし続ければ、怖れは次第に小さくなっていくはずです。慣れるとはそういうことです。

元々自己表現の苦手な人にとっては、ブログを自己表現の場に使ってみるのは、お勧めできることだと思います。

 

最上級の思考とは?

一口に思考と言っても、高度に洗練されたものから取るに足らないくだらないものまで、本当にピンキリですね。

難問を解くのも思考だし、仕事の段取りをつけたり、未来を予想するのだって思考の役割なのです。

本を読んだり、誰かと議論を交わしたり、他愛のないおしゃべりをするのだって、思考があってできること。

このように、私たちの毎日は思考がなくては全くもって成り立たないのです。このブログを書いたり読んだりするのも思考が行なっているのです。

それなのに、このブログではどうも思考を目の敵のように言っているように感じてしまうかもしれません。

けれども、気づかなくてはならないのは思考が悪者なのではなく、思考だらけになってしまって、思考を使っているということの認識もできなくなってしまうことが問題なのです。

思考ほど便利なツールは他には見当たりませんが、ただ思考と思考の間、つまり思考がないところに気づけなくなることが大問題なのです。

そして最上級の思考とは、思考が退いた時にそこに真実が広がっているということをイメージできることなのです。

思考自体が思考の限界を知ることができれば、いつかは自然と思考が真実に道を譲るときがやってくるのだろうと思うのです。あ、これも思考ですけどね…。

<行為>かそれとも<行動>か?

<行動>は決して内側から湧き出て来るものじゃない
それは<過去>からやって来る
あなたはそれを何年もかかって溜め込んで来たのかもしれない
で、それが現在の中へと炸裂する
それはつじつまがあわない
しかし心は巧妙だ
心はつねにその行動に正当な理屈を見つける

by osho

眠くなったら寝る、あるいはお腹が空いたら食べる、こんな当たり前のことをしなくなっているのが現在の私たちの生活かもしれませんね。

社会とか家庭といった共同生活の中では、ある程度のルールに沿って生きることは理にかなったことですが、それも行き過ぎるとお腹が空いてなくても食べるということが頻繁に起きてきます。

お腹の好き具合よりも、時間が来たので食事するということが多いのではないでしょうか?osho はそれを<行動>と言っているのです。

出されたものを完食する方がいいというのも、分からないではありませんが、その日の体調に応じて場合によっては残す方が身体にとっては自然なはずです。

私たちの硬直した考え方、正しさが自然な<行為>よりも<行動>を促すことになるということです。

病的なレベルになれば、過食や拒食といった症状を起こすこともあり、その原動力は過去に溜め込んだ不満のエネルギーなのです。<行動>はいつも不自然であり、<行為>は自然なもの。

自分の1日を振り返ってみて、<行為>が中心となっているのか、あるいは<行動>で埋め尽くされているのか、よく見てあげることですね。

ちなみに思考が緩めばそれだけ<行為>が多くなり、マインドが活性化すればするほど、<行動>するようになるはずです。

あなたは体験者ではなく、観照者だ!

体験されることはすべてみな幻なのだと覚えていればいい
体験する者のみが真実なのだ
観照者に注意を払いなさい
体験にではなく
その観照者に焦点を合わせなさい
たとえどんなに素晴らしくても
いっさいの体験はみな夢もどきにすぎない
ひとはそれらをすべて乗り越えて行かなくてはならないのだ

by osho

↑このことに気づきたくないばっかりに、私たちはいつも何かをし続けているのです。そうして、あらゆる体験の中にいようとするということです。

本当に何もしないでいると、ふいに観照者に意識が向いてしまいそうになるので、危ないとばかりに何かを考え出したり、急に立ち上がって洗濯物を取り込みに行ったりするのです。

するべきことなど何もないのだと気づくと、今度は身体を不調にさせて意識を具合の悪さへと向かわそうとするのです。

こうしたことは、誰でもやっていることで、ただそれに気づいているかどうかの違いがあるだけなのです。

私たちは体験だけで生きていると言っても過言ではありません。「こんなことが目の前で起きた」というような場合でも、その起きたことを見ていたという体験をしたのですから。

今日1日何をしていたの?と聞かれたら、あなたはきっとどんな体験をしたかということを思い出すはずです。時系列を追って連続した体験を話すでしょうね。

そのときに、ふいにどんな体験とも無関係な自己があることに気づくかもしれません。体験を目撃している観照者に。それがほんとうのあなたなのですね。

一度気づいてしまったら、忘れることはあっても、観照者が消えてなくなってしまうことはありません。ただ思い出せば、必ずまた浮き出てきてくれるはずです。

何をしてもいいし、何もしなくてもいい

もしもあなたが、罪悪感という恐怖から逃げずにいると決意して、実際にそうし続けることができるなら、本当に何をしてもいいのです。

私たちが、あれはダメ、これはいけない、とルールで自分や他人を縛ろうとするのは、罪悪感を恐れてそれから逃げようとする行為に他なりません。

激しい罪悪感や自己嫌悪感が来たら、マインドはもたないと感じているかもしれませんが、本当のところマインドはそれなしでは生きられないという特性を持っているのです。

もしもまったく罪悪感も自己嫌悪感もなくなってしまったら、つまり清々しい人生になってしまうなら、マインドはその分だけ勢いを失っていくのです。

マインドにとって一番活力をもらえるのは、罪悪感がやってくるような言動を行いながらも、それから逃げ続けてくれるような毎日です。

あるいはするべきことをせずにいて、自己嫌悪を持ちながらも、それを見ずにグズグズ生き続ければ、やはりマインドは元気になるのです。

罪悪感は辛いし、自己嫌悪も苦しいと思いながらも、いつまでたってもそれらから逃れられないでいるのは、そうしたマインドの裏事情があったというわけです。

このことを深く理解するとともに、罪悪感や自己嫌悪がやってきたらチャンスとばかりにそれらを感じ尽くしてあげることです。

そうすれば罪悪感も自己嫌悪も怖くはなくなり、次第にそれらは薄れていくはずです。そうなったらあなたは自由な人生を手に入れることになるのです。

どんなルールにも縛られず、何をしてもいいし、何もしなくていい。マインドが小さくなればなるほど、あなたはシンプルな人生を送ることになるのですね。