不安を敵対視しない

どんな人のマインドの中にも、不安と孤独があるのです。たとえ本人にはその自覚がなかったとしてもです。なぜならそれは分離感からやってくる原理的なものだから。

不安を感じる強弱というのは確かに人によって違いがありますね。不安があっても、「何とかなるさ」という気軽な気持ちを持ち合わせているといいですね。

逆に、どうしたらいいのだろうと考え過ぎて深刻になってしまうようだと、不安はより一層強くなってしまうかもしれません。

まずもって大切なことは、不安は個人として生きている限りは必ずあるものだという深い理解をすることです。個人は、自分と分離している外側のことは分からないことばかりなので、安心できるはずがないのです。

したがって、自分の不安と他人の不安を比較する必要もないということです。つまり不安は必ずあるので、不安を敵対視しないこと。不安から逃げないようにするのです。

不安はお友達というくらいに思えるようになったら本当はいいのです。そうなれば、不安を対処しようとすることが小さくなっていくからです。

そうして不安の中にいる自分を優しく見守ってあげること。さらに言えば、不安は物語の中にしかないということへの気づきもやってくるはずです。

その先には、手放し、明け渡しと言われる状態へと進むのでしょうね。そのときには、マインドは静かになってしまうはずです。

思考をただ見守ること

ちょっと自分の心を見守れば、あなたは要点を見抜くだろう。

あなたは過去のことを考えているか・・

それはもはや存在していない、

あなたはエネルギーを無駄にしている・・

あるいは、まだ存在していない未来を心に描いて、

またもや自分のエネルギーを無駄にしているか、

そのどちらかだ。

by osho

確かにそうですね。私たちはいつも過去か未来のことを考えて暮らしているのです。例えば、今目の前にはいない人のことを考えているとしましょう。

その人は今ここにいないのですから、当然過去一緒にいたときのことか、あるいはこれから会う未来のことかのどちらかになります。

結局、過去も未来もどちらも現実にはないものなので、思考によって非現実の世界で時を過ごしているということです。つまり、エネルギーを無駄にしているということ。

ではどうやって、過去と未来のことを考えずにいることができるのか?それは、私の経験上不可能なことのようです。思考を止めようとしてしばらくは静かにすることができても、またすぐに気づくと思考に飲み込まれてしまうのです。

勿論思考をできるだけ止めて、過去にも未来にも行かないように心がけることは決して悪いことではありません。そのように生きれたらそれは素晴らしいことですね。

けれども、もっと現実的な方法があるのです。それは、今この瞬間に過去や未来のことを考えているマインドを見守ってあげるということ。

見守るマインドの部分は過去へも未来へも行きません。つまり、思考に気づいていればいいということです。この方法は非常に現実的です。

思考そのものをコントロールしようとする代わりに、それをただ静かに見守ることで、自然と思考はエネルギーを失っていくのですね。

くつろいだ注意深さ

温泉などに浸かって気持ち良い状態であれば、くつろいだ静かな気持ちになることができますね。そうなると、眠気がやってきたりして無意識になっていく傾向があるのです。

逆に、何か心配事などについてグルグルと考えたりしていると、いざ寝ようと思っても目が冴えてしまって寝ることができなくなったりするものです。つまり無意識にはなりにくくなるわけです。

この二つの状態のいいところだけを取ってきて、合わせてあげることができるなら、それこそが瞑想状態だと思えばいいのです。

つまり充分にくつろいでいる状態でありながらも、同時に注意深さもなくさないでいるということ。これこそが、くつろいだ注意深さなのです。

ここで気をつけなくてはならないことは、ある特定のターゲットに対して注意深くあるということではありません。一点に集中するのではなく、全体に耳を傾けるという感覚。

難しいのは、私たちは注意深くいようとすると、どうしても緊張してしまうのです。その緊張はすぐに身体に表れるので、自分の身体の状態を見てあげて、くつろいでいるようにしてあげるのです。

身体がくつろいでいられれば、内側も次第にくつろげるようになるからです。その様を注意深く見守ってあげるようにすると、自然とくつろいだ注意深さがやってきやすくなるはずです。

この「くつろいだ注意深さ」を日頃から忘れないようにして、練習を続けることをお勧めします。と言っても、私自身もすぐにそこから逸脱してしまうんですけどね。練習あるのみです。

悲しみだけがくれる贈り物

悲しみがやって来たら、受け入れてごらん。

その歌を聞いてみなさい。

それには、あなたに与えるものがある。

それは、幸せには与えることのできない贈り物を携えている。

その贈り物は、悲しみだけが与えることができる。

by osho

今から17年前の西暦2000年に、私の人生にそれまで体験したことのない様々な出来事が怒涛の如くやってきたのでした。

癌を患って、向こう5年間生き伸びる確率を宣言されたり、サラリーマンを辞めることになったり、そして癒しの作業が開始されたのもその年でした。

その癒しの中で、それまで感じたことのなかった感情を味わうことになったのですが、その時に驚いたのは「悲しみ」は決して悪いものではないという感覚でした。

悲しいので沢山涙を流すのですが、それは悲しみだけがすることのできる何か浄化のような深い味わいがあることに気づいたのです。

それ以来、感情は友達と思えるようになったのです。大切なことは、悲しみに限らずどんな感情がやってきたとしても、なるべく受け入れること。

それには決してそれまで自分が求めていた幸福感や都合のいい感情には与えることのできない奥深い何かがあるのです。

うわついた薄っぺらな生き方をしてきたのだということ、そのことを悲しみが裁くことなく教えてくれたのかもしれません。

それからというもの、他人が感情を表現する姿を見ても、困ったり動揺したりすることがなくなりました。それよりも、解放された感情たちによかったね!と言ってあげたくなるのです。

あるがままでいれば、どちらでもいいがやってくる

人によって物事の考え方や感じ方はそれぞれ異なるものですね。だからこそ、千差万別の人生があるのでしょう。

あなたの人生にとって、最も重要と思えること、一番重きを置いていることはどんなことでしょうか?

正しい自分でいることが大事なのか?あるいは、何かの役に立つことが大切なことなのか?はたまた、何であれ価値ある自分でいることこそが重要なのでしょうか?

もしも正しい自分でいようとすれば、正しくない自分は否定されてしまいます。役に立つ自分でいたいなら、役に立たないと思える時に、苦しくなってしまうはずです。

あるいは、価値ある存在でいたいのなら、価値を感じられないときには、惨めな自分になってしまうでしょうね。

より正しく、より役に立つ、より価値ある自分になろうとすれば、必ずや自己否定にやっつけられてしまうことになるのです。

正しいか正しくないか、役に立つか立たないか、あるいは価値があるかないか、こうしたことに殊更のこだわりを持ってしまえば、あるがままの自分が否定されることになります。

逆にあるがままでいられるなら、どちらでも構わないという心の状態がやってきてくれるのです。どんなこだわりも人生を狭苦しいものにしてしまう可能性があると気づくこと。

こだわらずに、ただあるようにあること。肯定も否定もなければ、思考も自然と落ちてしまうでしょうね。

信念はいらない

10代の頃に、神はいるに違いないとか、いやそんな存在はいないだろう、などととりとめなく考えていたことがありました。私の内面の特徴は、その考えがコロコロと変わることでした。

つまり、しっかりした信念というものがなかったということです。何か他人から聞きかじった情報によって、すぐにそれを信じてしまったりしていたということです。

今となっては未熟な自分であっても可愛いなあと思えるのですが、信念がないというのは実は今でも変わらないのです。

というのも、神はいると信じることと、神はいないと信じることはまったく同じことだと分かるからです。一つのコインの表と裏の関係のようなもの。

信じたり信じなかったりというのは、どちらも物語の中でのこと。違う表現をすれば、神は信じたり信じなかったりするターゲットではないということ。物語の外側だからです。

これが全体性であり、真実と言うことです。どんな言葉を使おうと構わないのですが、こうした理解をしない人が神について話しているのを聞くと、ただ黙っているしかないのです。

なぜなら真実は、信念の対象でも議論の対象でもなく、ただ在るものだからですね。

尽くす人って?

力の限りを尽くして闘うというように、「尽くす」という意味は、持ってるものを出し切るということですね。使い果たすとか、それが本来の意味だと思います。

けれども、「尽くす人」というとちょっとニュアンスが違って来ますね。私の感覚では、ターゲットとなる人がいて、その人に対してあれこれ世話を焼く人をイメージすることができます。

妻として夫に尽くす…、のような献身的な女性を思い浮かべることができるのですが、本人にそういった自覚があるかどうかでマインドの内容は大きく異なるのです。

例えば、「私は好きになると尽くしてしまう」といった自覚を持っている人の場合、それは献身というよりも防衛の色が濃い感じがします。

つまり、こうしてあげたい、ああもしてあげたいという気持ちは本人のエゴを満足させるものであって、本当には相手のことをおもんばかってはいないのです。

一つ間違えば、よくある身勝手な善意の押し売り、よかれと思って…の典型的なケースに陥ってしまうかもしれません。それは愛の代わりに防衛が原動力になっているのです。

真の献身とは、自分の満足についてはまったく無頓着になって、相手の思いを受け止めることです。これは愛が原動力であることは明らかですね。なぜなら、愛とは自分が不在になることだからです。

その場合には、献身的な行為だけがあって、献身的な「私」がいるわけではないということを知っていた方がいいかもしれませんね。

マインドはいつも探求者

マインドの働き、マインドの機能を見るがいい。

マインドはいつも探求者だ。つねに何かしらを欲しがっている。

それは欲望と探求を通して生きている。

金を探し求めるときもあれば、瞑想を探し求めるときもある。

だが基本的に違いはない。

それは同じゲームだ–違う言葉で演じられるが少しも変わらない。

by osho

確かに私たちのマインドというのは、年がら年中何かしらを探し求めていますね。熱望と言ってもいいし、渇望、あるいは欲望と呼んでもいいのですが、とにかくターゲットが必要なのです。

そして探求を大雑把に分類すれば、その対象となる一つ目は物質的なものであり、二つ目は精神的なもの。大抵は前者が先に来て、そこに絶望したマインドだけが後者へと進むのです。

そのときに、世俗的な欲望から脱出した自分は大きく成長したと感じるかもしれませんが、結局は探求者であることには変わりないのです。

そしてマインドが最後に探求するターゲットとなるのは、探求者そのものなのです。結局は外側に対してどれほど探求しても、絶望するばかりだと気づいた時に、探求の的となるのは探求者そのものなのです。

ここからは今までとは少し様相が違って来ます。なぜならスピリチュアルなものであれ外側に向いていた探求が内向きになるからです。

それまでの探求は探求者ありきの前提が暗黙のうちにあったのですが、今度はそこを探求するわけですから、ここは馴染み深い努力も役に立たなくなって来ます。

そしていつかは探求が終わりを迎えるときがくるのですが、それは探求者は実在しないと気づいたとき。つまり探求を止めるのではなく、それが自然消滅するということです。

後には、「無」という真理だけが残るのですね。

他の誰にもなれない

みなさんは、理想の自分像、目指している自分像というものをお持ちでしょうか?確かに、目指す目標があった方が道を間違えずに生きていけそうな気がしますね。

けれども、あなたは別の誰かになることは不可能なことです。今の自分がどんな人間であれ、それを避けてどこへも行きようがないということに気づくことです。

さもなければ、人生は地獄のように辛く苦しいものになってしまうはずです。不可能を追い求めることほど馬鹿げたことはありません。

もしも理想の自分像をお持ちであるなら、まずはそれについて書き出してみることです。文字に書くことで、それがより明確になるからです。

さらに、現状の自分、あるいはこれまで生きてきた自分に対する自己イメージについても、明確にすることです。こちらも書き出してみることです。

その両者がはっきりとしたときに、とんでもない両者の格差に気づくことになるでしょうし、目指すことのバカバカしさにも気づくことになるはずです。

そうやって事実を目の当たりにすることで、自動的に生き方が変わってくるのです。目の前にぶら下げられた人参を追い続ける馬のような人生に早く見切りをつけられるといいですね。

感動しても救われない

人生には様々な苦難があって、それでもくじけずにひたすら前を向いて頑張って、それを乗り越えていくことこそが素晴らしいことだと教えられますね。

でもなぜそれが素晴らしいことなのか、じっくり見つめたことはあるでしょうか?私は変わった子供だったので、そういうことをいつも考えるようなところがありました。

そういった他人のリアルストーリー、サクセスストーリーを聞かされると、誰でも感動するものです。ああ、自分はこういうのを求めていたのだと感じるのですが、興奮が収まってみると、なんでもないことに思えて来るのです。

感動も所詮は一過性のものであって、それに救われることはありません。どれほど素晴らしい感動物語があっても、それも必ず消えていくのですから。

くじけてもくじけなくても、どっちでも同じことだという感覚がどうしてもやってくるのです。ここを他の人と共有できるかは分からないのですが…。

結局、人生は一瞬の儚い夢のようなものだという感覚に戻ってしまうのです。それが、私を内側へと向かわせたことは間違いありません。

外側への期待が薄れていくときに、人は自分自身の内側深くへと入っていくようになるのでしょうね、真の救いを求めて。

そしてその救いを求める自分こそが幻想だったと気づくときに、永遠という真実と出会うことになるのですね。