何であれ大丈夫!

私にとって、終わりがあるということがこの上ない救いなのです。もしもどんなことでもずっと無限に続くとしたら、それ以上の地獄はないでしょうね。

人生が自分の期待通りではなく、なんでこんなに辛いことばかりが起きるのだろうと思ったとしても、それもいずれは終わりを迎えるのですから、究極的には大丈夫ということです。

つまり死は恐れるものではなく、それこそが永遠の平安を与えてくれるものだとも言えるのです。どんな困ったことがあろうとも、死がすべてを終わりにしてくれるのです。

確かにもっともっと続いて欲しいと思うようなこともあるかもしれませんが、年齢を重ねるごとに、そうしたことでもいずれは終わるし、終わって欲しいというように変わってきました。

どんなことでもいつまでも続くのは不自然だという感覚です。この世界のもっとも素晴らしいことは、すべてが一過性のものでできているということです。それが物語の特徴なのです。

けれども真実は、永遠なのです。なぜなら、変化する何物もないし、変化を生む時間すらないのですから。真実には救いはないし、救いを必要とするナニモノもないのです。

何か嫌だなと感じることがあったら、このことを思い出せばいいのです。たとえこの世界が地獄のように思えたとしても、いずれは終わりを迎えるのです。

そしてそのあとは、永遠の平安が続くのです。どっちにしても大丈夫!!

決めつけを見抜く

私たちは、知らず知らずのうちにあらゆる物事を決めつけてしまう習慣を持っています。私はこういう人間だとか、あなたの人生はこうだとか…。

そうした決めつけがどこから来るかというと、これもやはり自己防衛から起きて来ることなのです。なぜなら、未知のものは不安や恐怖の元になるからです。

知っているものは知らないものよりも安心なのです。だからこそ、本当は何も知らないくせに、知っていることにしようとするのです。それが決めつけなのです。

勝手にこうだと決めつけて仕舞えば、それは既知のものだと思えるからです。こうした防衛は、実は幼い頃からすでに始まっているのです。

向こうからやって来るおじさんがいい人なのか悪い人なのか、分かっていた方がより安全なので、どちらかに決めてしまうのです。いい人なら心を開き、悪い人なら閉じてしまう。

そうやって身の安全を守ろうとするのです。そしてその習慣が大人になった今でも残ってしまうというわけです。本当は、一人のおじさんの中にいい人の部分と悪い人の部分の両方があるのです。

この決めつけは、過去のどこかの時点で行ったものですが、それを後生大事に使い続けてしまうと、今この瞬間の現実から乖離してしまう恐れが出てきます。

それは当然のことで、この世界の全ては刻々と変化し続けているからです。昨日までの自分と今日の自分はもうすでに違っているのに、自分はこういう奴と決めつけてしまえば、過去に閉じ込められた硬直した自分だけが残ることになります。

それではどんな成長も望むことはできなくなってしまうのは当然ですね。まずは、自分の決めつけに瞬間瞬間気づいてあげることです。

そうして過去からやって来る決めつけを見守ってあげることで、次第に素直な目でナマの物事を見ることができるようになるのです。

成長は自然に任せる

「何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」という禅の言葉があるように、私たち人間にもそれは当てはまります。

つまりあれこれ画策せずとも、私たちは年齢と共に成長していくのです。それが自然の摂理ですね。

けれども、様々な理由からその正常な成長を極端に早めようとしたり、逆に成長を止めようとするマインドの働きもあるのです。その根っこにあるのは、自己防衛なのですが…。

簡単に言えば、前者の場合は、早く大人になろうとするということ。何もできない未熟で惨めな自分から早く脱出したいという思いから、その年齢に不相応な努力や無理をして、立派な大人になろうとするのです。

表面的には成功することもあるのですが、その無理を強いたしわ寄せが必ず後からやってきて、本人を苦しめることになるのです。

それはまだ幼い頃のその年齢に相応しい無邪気な生き方が充分にできなかったために、そのエネルギーが残ってしまい、大人として生きている一方で、子供じみた部分がいつまでも残ったりするのです。

結果として、本人の理性的な部分は苦しむことになるはずですね。一方で後者の場合、つまりいつまでも子供でいようとする場合は、勝手に成長していってしまう自分を恨めしく感じてしまうのです。

そして、自己嫌悪感や罪悪感を持ってしまうこともあるかもしれません。この場合も、ある面ではそれが成功して、いつまでも子供っぽさが残り、社会人として不適格な人物になってしまうかもしれません。

いずれにせよ、自分の成長について恣意的になってはならないということ。自然に任せておけばいいのです。親が子供の成長をどうこうしようとしてしまう場合もあるかもしれません。

それも同様の結果が待っていることになるはずです。私たち自身が自然の一部であることを思い出して、常に自然であることを心がけることが大切なのでしょうね。

「無」とゼロは違う

仏教や禅で言うところの「無」というのは、決してゼロのことではありません。数字のゼロは、0+5=5 のようにして何かを足したり、引いたりすることができますね。

けれども「無」はそのようなものではないのです。足し引きができるのは、この現象界の中においてなのですが、「無」というのはその現象が起きて来る源なのです。

「無」という源は、どこまでも変わることがありません。「無」がキャンパスだとすれば、その上に描かれた絵がこの世界のような現象界だとすればいいのです。

キャンパスの上にどんな絵を描こうと、キャンパスがキャンパスでなくなることはないのです。仮に、キャンパスの絵を描いたとしてもそのキャンパスは本物ではありません。

数字のゼロは、そうした絵で描かれたキャンパスだと思えばいいのです。これで、「無」とゼロの違いがつかめたのではないでしょうか。

ゼロは思考の中のイメージに過ぎず、「無」は思考をはるかに超えた真実として在るもの、そこからすべてがやってくる源なのですね。

 

小さな自分と全体性

私の感覚の中には、この小さな自分と全体性というまったく異なる二つの部分が同時に存在しています。小さな自分とは、もうかれこれ何十年も共に人生を生きて来ました。

ところが、この5〜6年の間に、全体性という思考では捉えがたい感覚もしっかりと在ることに気づくようになったのです。気づいたのが最近というだけで、ずっと在り続けてたのも今なら分かるのです。

小さな自分は一生懸命与えられた環境の中で、何とかしてよりいい人生にしたいと頑張って来たのですが、結果はそう大したことにはなっていないのが現実ですね。

けれども、全体性の方から見ると、自分の人生であれ、他の誰の人生であれいいも悪いもないし、そもそも小さな自分というのが思考によって創り出された幻想なのです。

思考そのものは、その他のあらゆるものと同様に全体性の一部なので自然なものと言えるのですが、思考の中身だけが不自然の極みなのです。

なぜなら、思考の中では全体性は分離できると思い込んでいるからです。分離できるということから、小さな自分が生まれたわけです。でも全体性は全体性なのです。

思考だけが、全体を分割して複数の部分にすることができると思い込むのです。部分の総和が全体であることが真実だと思っているのです。

小さな自分とは、全体性という舞台の上で繰り広げられる一過性の人生劇の登場人物のようなものです。一つの劇が終われば、次の劇が始まるのですが、舞台は永遠ですね。

私たちの本質は、舞台なのです。劇の中で使われる空間的広がりも時間の経過もすべてが舞台の上で進行するのです。人生劇がどれほど過酷で悲痛なものであれ、舞台はただそれを下支えしているのです。

いなくていいんだ〜

あれは2〜3年前のことでした。自分がいる世界と自分がいない世界とで、どちらが自然だろうかを見ていたときのこと。突然、自分がいない状態、非常に明確な自己不在の気づきの中に放り込まれたのです。

といっても、放り込まれる誰もいないのですから、これは言葉のあやなのですが。先ほどから、あのときのことをぼんやりと思い出していたのですが、そうしたらなぜか、「いなくていいんだ」というのが来たのです。

そう、自分はいなくてもいいんだという、とてもとても優しさに満ち溢れた受容の言葉、そしてそれを聞いたときの深い安堵の気持ち。

ということは、自分はいなければいけないんだ!と思って、ずっと頑張って来たのかもしれないと感じたのです。だからこそ、いなくてもいいよと許可をもらって安心したのかもしれません。

常識的には、いなくていいと言われたら、「お前なんかいなくてもいいんだ」と言った非常に否定的なニュアンスを感じるのでしょうけれど、それとは根本的に異なる深い愛のような言葉なのです。

今まで長いこと、まったく気付かずに自分はいなくてはならないのだと、それが自分の義務なのだと思っていたということに気づいたのです。

幼い頃に、周りの期待に応えようとして、自分がいるという思い込みの中に深く入り込んだのかもしれません。

なぜいなくてもいいのかと言えば、真実は自分などいないからですね。いない自分にどんな責任も義務もあるはずがありません。この限りない気楽さを忘れないでいるようにしたいですね。

これを読んでピンと来なくてもまったく大丈夫です。というよりピンとくる方が変ですよね。でも万が一、ピンと来るものがあったら深刻になりそうなときにこそ、これを思い出すことです。

思考から離れた時、神秘が顕れる

実在に対して、思考はまったく歯が立たない。実在にについて、思考がどんな解釈をしようと、どんな分析や研究をしても、そんなこととは一切異なる次元に在るだけなのです。

実在に関して、どんな思考も役に立たないのです。思考が役立つと思えるのは、思考が作った世界の中でのみ。なぜなら、思考が作った世界とは、空想の世界だからです。

思考によって作られた空想の世界が、実在とはまったくもって無関係であることは、当然ですね。実在の観点からすれば、思考も一つの結果でしかないということ。

思考の結果、何かが得られたり、何かが起きたりするのではなく、思考そのものが一つの現象でしかないということです。このことは、思考では理解不能かもしれませんが。

何だか今日は分かりにくいことを書いてしまいました。もっと簡単な表現ができればいいのに、それができないのが残念です。

思考がとまり、静寂がやってきたときには、こうした表現がすべて的外れだということになるのでしょうけれど、それでも書くのはそれが起きることだからですね。

私の自由意志でブログを書いているかのようにみえますが、これも一つの現象として起きていることです。私の脳が内容を考えた末に、書いているという解釈をするのが常識でしょうけれど。

思考から離れたときに、思考が作り上げていた壮大なドラマから抜けて、ただ実在という神秘だけが残るのでしょうね。

孤独というどうしようもない幻想

もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう–。

あなたの行動はすべてみな、ひとつの原因に帰着しうる。

その原因とは、あなたが孤独を恐れているということだ。

その他のことはすべて口実にすぎない。

本当の理由は、あなたが自分は非常に孤独だと気づいているということだ。

by osho

本当は誰もが知っている。誰もが自分という個人としての存在は、どうしようもなく孤独だということです。それはまるで、大地に根を下ろしていた植物が根こそぎにされたようなもの。

そもそも全体性としてただ在るのに、「私」というエゴを思いついてしまった結果、すべてのものから分離した小さな存在に成り下がってしまったのですから。これ以上の孤独はありません。

孤独であれば、そこには必ず不安がつきまといます。つまり、私たちは例外なく、エゴをでっち上げたと同時に、孤独と不安をも生み出してしまったのですね。

このまま人生を生きるのは、とてもじゃないけれどシンドイわけで、何とかして、それこそあらゆる手段を使っても、自分は決して孤独なんかじゃないと思えるようにするべく努力するのです。

その努力の全体を人生と呼ぶのです。そこに一役買うのが、家族だったり、恋人だったり、友人や同胞ということになるのです。

したがってそこに愛があるかのようにみえて、周りの人々のほとんどは孤独を埋めるための手段に使われるのです。そのことを否定する必要もありませんが、愛ではないと気づくことが必要です。

なぜなら、自分を騙さずに正直に自らと向き合うことが、真実へ目を向けることに繋がるからです。そして真実はと言えば、誰もが全体性としてただ在るのであって、そこには孤独という幻想はないのですね。

「張本人」という不自然さ

自分のプロセスを見守ってごらん。

そうすれば、感じられるだろう。

今日、お腹が空いたら、ただ見守ることだ。

お腹を空かせた人がほんとうにいるのか、

それとも空腹があるだけなのか?

by osho

思考の中で、「私」というエゴが発生してから、それがずっと延々やってきたこと、それはあらゆる体験、経験に対して、それは「私」が体験した張本人だと思うこと。

その思い込みを続けることで、エゴは毎日ますます自分自身を肥大化させてきたのです。こんなに多くのことを経験してきた自分は、幼子とは違うと。でも待って下さい。

上の osho の言葉をゆっくりと読み返してみて、できる限り正直になって無垢な気持ちで検証してみることです。本当にそれを体験している張本人の「私」がいるのか?

それともそこに、ただ体験が在るだけなのか?これまで培ってきた常識をすべて誠実に脇へ置いて、どちらがより自然なことかを観てみるのです。

大いなる自然の中で、お腹を空かせた「私」が本当にいるのか?それとも、ただそこに空腹感があるだけなのか?

独り静かにそれを見つめてみると、前者の方が何か特別な感じがするのです。その特別感が自然から遠ざかっているように感じるのです。そこには、何となく力みがあるような…。

そして残念?なことに、ただそこに空腹感が在るということの方が、やはり自然と調和していることに気づかされます。

自然の摂理の中で、唯一不自然なのは「張本人」というもの。自然はそんなものなしに、ただ淡々と在り続けているだけなのですから。

望まなければ失望しない

偉大な思想家ラスキンはこう言った。

人生にあるのは二つの失望だけだ、と。

あるものを望みながらそれが得られないことと、

あるものを望んでそれを獲得することだ。

二つの失望のみ。それを得なければ、たしかにあなたは失望する。

ところが得ても、やはりあなたは失望する。

by osho

一つ目の失望については、私たちは嫌という程に何度も経験しているのでよく知っているのです。けれども、二つ目の失望については心当たりがないと思っているかもしれません。

だって、望んだものが得られたなら、失望するどころか喜びがやってくると思っているからです。確かに、望みが叶って喜ばない人はいないはずですね。

でもよ〜く思い返してみれば分かることですが、喜んだ後で必ず、次の望みをすぐに作り出すのです。つまり、望みが叶ったとしても決して満たされずにいるからこそ、次の望みを叶えようとし出すというわけです。

もうこれで満足だという状態になった人はいないのです。なぜなら、望みを完全に失ってしまえば、マインドは活動できなくなってしまうからです。

だから、望むものを手に入れても、それが手に入らなくても、いずれにしてもマインドは失望することになっているのです。これこそが、本当の絶望かもしれません。

この事実について、どのくらい早く気づくことができるかが、人生にとって重要なことなのだろうと思うのです。それとも死ぬまで何かを望み続ける方が人間らしいと思うでしょうか?

どちらも間違いではありませんが、私は個人的に、できるだけ望まない人生へとかえていけたらいいなと思うのです。