<全体>からすべてが起きる

全世界があなたなどなくたって動いてゆく
川は海に流れ
星はめぐり
太陽は朝になれば昇る
季節は移ろい
樹々は成長し、花咲き、消え失せる
そうして<全体>はあなたなしに進んでゆく
あなたは自分をゆったりと自然にさせて
その<全体>といっしょに動いて行けないものだろうか?

by osho

なるべく真実に近いことを表現しようとすると、例えば次の二つの言い方があります。

一つは、<全体>がすべてあなたの面倒をみてくれているので、あなたはただ流れの中に身を任せていればいい、という言い方。

もう一つは、上のように、<全体>はあなたの存在などこれっぽっちも見ずにただ<全体>があなたなしで進んで行くのみ。

そしてこの二つはどちらもある意味で真実なのです。矛盾するようですが、それが真実の中では両立するのです。

私自身の個人的な好みを言えば、後者の方が好きかもしれません。なぜなら、後者はあなたという個人というものが存在するという観念から離れている感じがするからです。

でもあくまでも好みの問題です。そして両方に共通したことがあるのですが、それはいずれにしても、ただ起きることが起きるということ。<全体>という源からすべての現象がやってくる。

それに逆らうことなどできないのです。なぜなら、私たち自身が<全体>から起きている現象そのものなのですから。

 

エゴの愛憎劇

私たちは、時々愛と憎しみがあっという間に入れ替わってしまう様を見ることがあります。あれほど愛していたはずなのに、一瞬にしてその気持ちが憎しみへと変化するのです。

しかも、その愛が深ければ深いほど、憎しみに反転したときの憎悪も強くなるということも知っていますね。そんなことが一人のマインドの中であり得るのだろうかと疑ってしまうほどです。

けれども、これは原理的には当然のことなのです。愛憎という言葉があるように、愛と憎しみとは一つのコインの表と裏のような関係であり、どちらかが単独で存在するということは不可能なのです。

勿論、そのコインの表だけを見て人生が終わることもあるかもしれませんが、それでも反対側には決してなくならない裏があるのです。エゴはそのことに気づきにくいために、ひっくり返り現象に納得できないだけです。

これが二元性の世界の法則です。特に、「私が」あなたをこれほど愛しているのに、という場合には、その愛はエゴのものであるため、それが憎しみに変化するのは明らかです。

エゴは二元性の世界でのみ生きることができるのですから。エゴは真の愛を決して知ることができません。知ったとき、エゴは消えて無くなっているからです。逆に言えば、エゴが消えているときを真の愛と呼ぶのです。

私自身は、この愛憎劇の中でもがき苦しんでいるエゴのことが嫌いではありません。そこに一生懸命さがあれば、救われますね。

それは報われるということではなくて、深い気づきがやってきた折に、その劇を笑って見ることができるはずと分かるからです。

 

安楽死について

ネット上のニュースで読んだのですが、予想以上に多くの国やアメリカ(の場合州ごと)などで安楽死がすでに認められているのですね。

特にオランダはその先進国で、昨年に安楽死を選択した人の数は、6000人を超えているらしいです。

要するに、個人の意思を尊重するかどうかということですが、日本の場合はどれほど本人が死にたいと願っても、医者は死にさせてはくれません。

勿論諸々の理由で、法整備をしっかりしていく必要はあるのですが、最後に残るのは、人のマインドの問題なのかもしれません。

正しさという範疇にこうしたことを当てはめようとしたり、他人への期待、あるいは欲求が人の自由を邪魔するのかも。

片方が離婚したいと願っても、その気持ちが尊重される仕組みにはなっていないのと同じですね。相手の気持ちよりも、自分を優先したいのです。

安楽死したいという本人の気持ちよりも、残された家族や友人たちの気持ちを優先するということでしょうか?

愛は他人に期待しません。期待はエゴであり、相手に対する欲望、コントロールだからです。多くの人々のマインドがもっと癒されていったなら、安楽死は当然のことになっていくと思います。

あなたの実存は動けない

あなたの内なる実存は<観照者>だ
それは決して<行為者>じゃない
あなたがそれを行為者と思い込むときには
必ずそこには同化がある
それは決して行為者じゃない
あなたが地上を残らず歩き尽くすことはできても
あなたの内なる実存は一歩たりとも歩きはしない

by osho

 

そうはいっても、ずっとずっと長い間自分は<行為者>だと信じてやってきたので、<観照者>だと言われてもピンとこなくて当然です。けれども、身体との同化がそこにはあるということですね。

自分は透明でしかも大きさがない、ということを見た時、確かに自分は空間を移動することは不可能なことだと理解することはできたのですが、その実感が育つ前にまたいつもの<行為者>としての自分に戻ってしまうのです。

エゴは自分を騙しているつもりなど毛頭ないのですが、個人としての自分がここにいるという思い込みを捨てられない限りは、結果としてそこに騙しが存在するのは明白です。

ただし、誰が誰を騙すという類のものではなく、ただ真実とは異なる思い込みがそこにはあるということです。騙しは、無意識的な状態でしかそれを保つことができないという特徴があります。

逆に充分に意識的であれば、そこにはどんな騙しも存在できないのですね。意識的であれば、気づいていさえすれば真実だけが在ると分かるはずなのです。

意識が目覚めるように協力する

フワッと生きていると、またぼやけてきてしまうので、何度でも繰り返しになるのですが、はっきりさせましょう!

目覚めるのは眠っている意識です。別の言葉で言えば無意識です。無意識とは意識がないということではなく、意識的ではない状態の意識ということですね。

だから私たちが目覚めるということではないし、私たちが真に目覚めることはできません。私たちは無意識状態で見ている夢の住人だからです。

あなたが夜寝ている間に夢を見ているとして、その夢の中にいる自分が夢の中で目を覚ましたところで、それも依然として夢の中のストーリーでしかないということです。

夢から覚めるのは、夢の中の自分ではなく、無意識状態でスヤスヤ眠りながら夢を見ている自分であることは明白ですね。それと全く同じこと。

だとしたら私たちにできることは、直接的には何もないということになります。ただし間接的にはあるのです。それは、できるだけ夢の物語を複雑にしないようにすることです。

物語の中に深く埋没してしまわないように、夢の住人なりに意識的でありつづけてあげるということです。マインドの9割は眠っていますが、1割は起きているのですから。

その1割の意識を最大限活躍できるように心がけるということです。そうやって、1割が2割になり、3割になっていけば、いつか突如として私たちの中で眠っている意識が目覚める時が来るはずです。

人生とは惨めさからの脱出劇

 

人の数だけ人生があって、その一つとして同じ人生がないというのはとても面白いことですね。

けれども、そうした人生にも共通した、しかも隠されて見えなくなっている原動力があるのです。

それが惨めさからの逃亡なのです。私たちのマインドの一番根っこの部分には惨めさが隠されています。

それは、幼い頃全体として生きていたそれまでの平和な毎日から、突如としてここに自分がいるという思いに駆られてしまった時から始まるのです。

このちっぽけな身体の内側だけが自分で、その外側の広大な世界から切り離されているという思い込みこそが、惨めさの原点なのです。

勿論成長していく中で、表面的には暖かな家族や友人たちに囲まれて、そうした惨めさを忘れてしまうこともできるのですが、なくなることはありません。

大人になって、幸運にも社会の一員としてうまく順応することができれば、他人よりも何かが優れていると思えるなら、自分は愛されていると感じれば、惨めさは隠されるでしょう。

けれども、個人として生きている限りは、惨めさが消えることはありません。そして、惨めな思い込みが強ければそれだけ、惨めではない自分になろうと頑張るのです。

その大小はあっても、結局はそれが人生劇場なのですね。ところで、惨めさとは事実でもなければ感情でもなく、ただの思考です。

だから惨めだという思い込みと表現したのです。繰り返しますが、惨めだという事実はどこにも存在しません。それは思考による判断に過ぎないのです。

このことに深い理解ができれば、惨めさから逃げないでいられるようになるはずです。もしも今あなたが自分は惨めだと感じているならチャンスです。

大切な気づきが、近くまでやってきているからです。勇気を出して、惨めさの中に入ることです。

それができた時、惨めさは作りものだと分かるはず。そうすると、今までの生き方が自然と変化し、よりシンプルな人生へと変わり出すのです。

大きい至福、小さい至福

生まれてこのかた、幸福感というのを感じたことは記憶の限りではほとんどないように思います。

だからといって、不幸ということでもないのですが。幸福感は思考によって生み出されるものなのでしょうね。

つまり、他人との比較、あるいは過去との比較、そういった思考を働かせることによって、自分は今は幸福だと「思う」のです。

そう思うことでしか、幸福感を味わうことはできません。それに対して、快適とか気持ちいいというのはダイレクトに感覚としてやってくるのです。

また幸福感とは正反対に、思考がなくなればなくなるほど至福がやってきてくれます。きっと意識というのは至福と同義なのでしょう。

少し穏やかなマインドには、少しの至福が訪れるのですが、より深い静寂になったマインドには、もっと大きな至福がやってきてくれます。

結局、思考という雲が消え失せればそれだけ青空が見えるように、至福は青空としての私たちの本質そのものだということです。

だから本来、至福に大きいとか小さいとかはないということ。どれだけ思考という雲が青空である至福を邪魔しないかということなのでしょうね。

この人生サ〜っと終わりそう

早いもので、今年も半分が過ぎてしまいましたね。この歳になると、以前よりも時間があっという間に過ぎて行く感じがします。

良いような悪いような、微妙な気がしますが、でもどちらかと言えば、ドンドン時が過ぎて行く方がいいのかなと思います。

というのも、もう随分長いこと、「時よ止まってくれ!」と思うようなことがなくなってしまったからかもしれません。

早く時が過ぎて、淀むことなく、どこにも立ち往生することもなく、サ〜っと終わっていくのが自分らしくていいなとも思うのです。

意識的であろうとすればするほど、過去を懐かしむことも減ってきて、また未来に思いを馳せることもなくなってきてしまいました。

物語を楽しむことがなくなりはしないのですが、やはり見ている側でいられる時間が長くなってきてるのかなと。

きっとこの人生、あっという間に終わってしまうのだろうなと思うのですが、だからと言って寂しいとかもっとどうにかしておけばよかったとは思わず…。

日々何もこれといって特別なこともなく、ただもっと一瞬一瞬を珍しいものを見るような目と態度で生きれたら素敵だろうなと思うのです。

ブログのアドレスが変わります!

​2009年3月4日から始めたブログですが、訳あって長年お世話になった「Yahoo!ブログ」さんから、ルシッドのホームページ直下へとお引越しすることになりました。

お手数ですが、お気に入り等からアクセスされている方は、アドレスを以下のように変更されるようお願いします。

https://blogs.yahoo.co.jp/fosawa45 (旧)

http://healing-office-lucid.com/blog/(新)

また、Facebook や Twitter からアクセスされる方は、自動的に新しいアドレスへアクセスできますし、ルシッドのホームページのブログタグからも、今まで通りの方法でアクセスすることができます。

なお、すべてのブログデータを引っ越すまでには少し時間がかかるため、引越しが終了するまでは、Yahoo ブログ上のデータ(過去記事)はそのまま残りますので、アーカイブとして使っていただくことができます。

ご不明な点などありましたら、この記事へのコメントとしてお書き下さい。

以上、お手数ですが宜しくお願いします。

人はみ〜んな同じ!

私たちは互いに、性別も年齢も国籍も、そして生まれも育ちも、見た目も性格もバラバラだというところが目立っているのです。

けれども誰もが全体の一部だということの深い理解に至れば、違いが気にならなくなっていくのです。個人だという思いが強ければ、その逆が続くのです。

自分の身体の細胞、指先の爪になってくれた細胞もあれば、網膜となって見ることを可能にしてくれた細胞、そして心臓になった細胞もありますね。

それぞれ違いはありますが、私の身体という全体からすればどれも同じようにその一部であるだけです。ところが、それぞれの細胞が私は一つの細胞として生きているというところを強調したら…。

それは当然、爪よりも網膜になりたかったのにとか、心臓の方が大事に思ってもらえるからよりよかったとか、比較と判断と嫉妬などが無数に生まれるわけです。

個人としての自分をいくら磨いたところで、不満が消えることは決してありません。要は、全体性に気づくこと以外に救われる道はないということ。

全体性とは、部分を足した総和ではないということです。分けることのできないもの、それ以外には実在しないと気づけばいいのです。

私のエゴが活躍し過ぎて、何か変だなと感じた時には、この全体性を思い出すことで寛ぐことができるようになります。

人はみんな同じ、どんな人生であろうと、何が起ころうが、何だっていいんです!個人がいるという間違った思い込みがなくせなくたって、それも全体性からやってきた現象なのですから。